盛岡でタイフウが勝利の雄叫びを上げた翌日――西の京都レース場は冷たい小雨に煙っていた。
10月4週、日曜日。
マイルチャンピオンシップへの最重要ステップ、スワンステークス。
パドックを周回するオペラローリンは、2番人気に支持されていた。
1番人気は短距離実績のあるエリモシルバー。
本来、2000m前後が主戦場のローリンにとって、1400mという距離は短く、忙しすぎる。
スピード勝負になれば分が悪いというのが大方の見方だ。
「……短いですね、1400メートル」
雨粒を払いながら、ローリンが呟く。
だが、その表情に不安はない。俺たちは既に答えを用意していた。
「ああ。まともにスプリンターたちのペースに付き合う必要はない」
俺は彼女の耳元で、今日のプランを囁いた。
「ハナを奪え。お前が先頭に立って、レース全体の時間を支配してしまえばいい」
「ふふ。……指揮者は私、ということですね。承知しました」
彼女は優雅に微笑み、雨に濡れたターフへと向かった。
◆スワンステークス(GⅡ・京都芝1400m)
ゲートが開いた。
スタートと同時に、ローリンがスッと前へ出る。
周囲のウマ娘たちが「おや?」と顔を見合わせる隙に、彼女は無理なく先頭を確保した。
(速く……いいえ、このくらいが私の「適正」ですね)
ローリンが刻むラップは、彼女にとっては心地よいワルツのリズム。
だが、ストライドの雄大な彼女が涼しい顔で走ると、周囲には「ゆったりとしたスローペース」に見えてしまう。
彼女が楽をしているように見えるほど、周りの呼吸だけが早くなる。
錯覚していた。
実際には、後続のスプリンターたちの脚が、早くも小刻みに跳ね始めていたのだ。
雨音だけが響く京都レース場。
レースは完全に、オペラローリンという指揮者のタクトによってコントロールされていた。
第3コーナー、京都名物「淀の坂」。
上って、下る。その下り坂を利用し、彼女は重力に身を任せるように自然と加速した。
後続が「そろそろ仕掛けようか」と思った時には、もう遅い。
「――ここです」
ローリンが、誰よりも早くアクセルを踏み込んだ。
温存していた余裕を、いま一息で燃やし切る。
直線入り口での出し抜け。
一気にトップスピードに乗った彼女は、後続を置き去りにしていく。
「――嘘っ!? あのフォームで、あんなに速いの!?」
エリモシルバーが必死に追いすがるが、先にセーフティリードを取ったローリンの背中は遠ざかるばかりだ。
優雅に見えていた白鳥は、翼を広げた瞬間、刃物みたいに風を裂いた。
誰も寄せ付けないまま、ローリンは独走でゴール板を駆け抜けた。
結果は、追い込んできたエリモシルバーに3バ身差をつける完勝。
そして、電光掲示板に表示されたタイムを見て、観客がどよめいた。
『R 1:21.2』
レコードタイムだ。
涼しい顔で「スローに見せた」レース運びだったが、叩き出した数字は、本来なら“追い比べの激流”でしか出ないはずの領域だった。
それは彼女の基礎能力が、このクラスでは桁違いであることを示していた。
◆マイルへの布石
ウイニングランを終え、戻ってきたローリンは、雨に濡れた髪をかき上げながら艶やかに笑った。
「あすかさん。……私の指揮、いかがでしたか?」
「完璧だ。短距離のスペシャリストたちを、完全に手のひらで転がしたな。……まさかレコードのおまけ付きとは恐れ入ったよ」
俺がタオルを渡すと、彼女は満足げに頷いた。
「1400でもこれだけ走れるのなら、本番のマイルはもっと楽しみです」
彼女は秋の京都の空を見上げ、確信に満ちた声で告げた。
「1400でも支配できた。なら1600は――“私の庭”になりますね」
夏を越え、苦手だったスピード勝負すら克服したオペラローリン。
もはや彼女に、「距離が短い」という言い訳は通用しない。
11月、秋のマイル王決定戦へ向け、視界は良好だ。