10月3週、日曜日。
秋晴れの京都レース場は、今年一番の熱気に包まれていた。
ティアラ路線のウマ娘によるクラシック最終戦、秋華賞。
最大の注目は、春の桜花賞ウマ娘・キョウエイグリーンと、オークスウマ娘・タケフブキの直接対決だ。
マイルで無敵のスピードを誇るグリーンか、2400mを制したスタミナのタケフブキか。 オッズは拮抗し、観客の視線はその二人に注がれていた。
「……グリーン。紫苑ステークスの経験を信じろ。自分のペースで逃げれば、2000mでも捕まらない」
「りょーかい! あすかさんこそ、緊張しすぎだって。……チャチャッと二冠目、獲ってくるよ!」
彼女はいつものピースサインを残し、軽い足取りでゲートへと向かった。
だが、勝負には常に魔物が潜んでいる。
◆秋華賞(GⅠ・京都芝2000m)
ファンファーレが鳴り終わり、一瞬の静寂。
ゲートが開いた。
――ガシャン!
「あっ……!?」
俺の声が裏返った。
抜群のスタートセンスを誇るはずのグリーンが、タイミングを合わせ損ね、一瞬遅れたのだ。
致命的な出遅れ。
その隙に、外からタカイホーマなどが殺到し、彼女の目の前を塞いでいく。
「まずい……! グリーンが包まれるぞ!」
逃げてこその彼女が、バ群の中に閉じ込められる。最悪の展開だ。
スタンドがどよめく中、グリーンは無理に押し上げていくことはせず、内ラチ沿いのポケット、五番手という位置に収まった。
見たことのない光景だ。
前に集団がいる。跳ね上げられた芝の塊が頬を打つ。自分のペースではない。
俺は手すりを握りしめ、祈るように彼女を見つめた。掛かって自滅するか、それとも……。
だが、俺の不安をよそに、グリーンは不気味なほど落ち着いていた。
(……あれ? なんか、楽かも?)
いつもなら全身に叩きつけられる風圧がない。
前のウマ娘が壁になり、彼女はぽっかりと空いた無風地帯に守られていたのだ。
風の音が消えて、自分の呼吸音だけがクリアに聞こえる。
出遅れたことで、逆に「逃げなきゃ」という焦りが消え、冷静に周りが見えていた。
これなら、脚が残る。
彼女は内ラチ沿いで息を潜め、じっとその時を待つ。
第3コーナー、淀の坂。
上って、下る。
各ウマ娘がスパートをかけ始め、バ群がばらけた瞬間。彼女は下り坂の重力を味方につけた。
「――ここだね! 楽させてもらったお礼だよっ!」
グリーンがコースの切れ目を鋭く突いた。
自力で加速するのではない。坂の勢いで滑り落ちるように、スタミナを使わずトップスピードへ乗せる。
溜めに溜めた脚が、研ぎ澄まされた刃となって解き放たれる。
逃げのスピードと、差しの切れ味。その両方を融合させた彼女は、一瞬で先頭のタカイホーマをかわし去った。
「グリーン! そのままぁっ!!」
直線を向き、完全に抜け出したグリーン。
後方からアチーブスターなどが追い込んでくるが、余力を残した彼女の脚は止まらない。
ライバルのタケフブキは、グリーンとは対照的に大外を回らされ、坂を越える前に脚を使い果たして沈んでいる。
彼女は独走状態で、歓声の渦巻くゴール板へと飛び込んだ。
タイムは2分00秒1。
2着に2バ身半差をつける完勝だった。
◆天才のひらめき
レース後。
今年三個目のGⅠタイトルを手にした彼女は、ケロッとした顔で戻ってきた。
「……寿命が縮んだぞ、バカ野郎」
俺はその場にへたり込み、手すりに額を押し付けた。
安堵で膝に力が入らない。
そんな俺を見て、彼女は悪戯っぽく舌を出した。
「あはは! ごめんごめん。……でもさ、結果オーライでしょ?」
彼女は自身の脚をポンと叩いた。
「うーん、まあ逆に出遅れたのが良かったんじゃない? ずっと他の娘の後ろ走ってたから全然疲れなかったし、最後すごく伸びたし!」
「……お前なぁ。それを出遅れて即興でやる度胸が信じられんよ」
呆れつつも、俺は彼女の底知れない才能に戦慄していた。
もし普通に逃げていたら、紫苑Sのように坂で捕まっていたかもしれない。
アクシデントすら味方につけ、脚質自在の強さを見せつけたキョウエイグリーン。
彼女はもう、ただの「逃げウマ娘」ではない。運さえも実力に変える、真の女王へと進化したのだ。