ウマ娘競バ史   作:geko

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第66話:雨のち涙 ※マイルCS

 11月3週、日曜日。

 京都レース場は、朝から降り続く冷たい小雨によって、重く湿った空気に包まれていた。

 秋のマイル王決定戦、マイルチャンピオンシップ。

 

 ターフの状態は稍重。

 切れ味自慢のスピードタイプには過酷なコンディションだ。だが、パドックで周回するオペラローリンと、それを見守る俺にとっては、これは恵みの雨だった。

 

「……雨ですね、あすかさん」

 

「ああ。だが、心配はいらない。今のローリンには、荒れたバ場をものともしないパワーがある」

 

 かつて、皐月賞の泥に足を取られ、何もできずに沈んだ彼女はもういない。

 夏の猛暑を耐え抜き、筋力を増強した今の彼女にとって、この湿った芝はむしろ、軽量なライバルたちの脚を削ぐ武器になる。

 

「相手は1番人気のナスノカオリ。……妹のチグサも見に来ているらしい。最高の舞台が整ったな」

 

「ええ。名門ナスノ家のお姉様……相手にとって不足はありません」

 

 ローリンは3番人気。

 静かな闘志を瞳に宿し、真珠色の勝負服がゲートへと向かう。

 

「ですが、この雨の舞台……主役の座は、私が頂きます」

 

◆マイルチャンピオンシップ(GⅠ・京都芝1600m)

 

 ファンファーレが鳴り響き、一瞬の静寂。ゲートが開いた。

 飛び出したのは、予想通り先行勢だ。

 内のナスノカオリ、外のスイジンなどが激しくハナを主張する。

 ローリンも引かない。好スタートから強気に前へ行き、先頭集団の一角、好位のポジションを確保する。

 

 ペースは流れる。

 稍重のバ場でこのペースは、スタミナを激しく消耗させるサバイバル戦だ。

 

 第3コーナー、名物淀の坂。

 上り下りの難所で、泥を吸った芝が各ウマ娘の体力を奪っていく。

 

 第4コーナーから直線へ。

 ここで残酷な明暗が分かれた。

 それまで先頭を争っていたナスノカオリの脚色が、泥に絡め取られたように鈍る。

 彼女の走りは美しく、教科書通りだ。だが――美しい走りほど、泥には弱い。

 

「……やはり。スピードだけでは、この泥は越えられませんね」

 

 ローリンは冷静だった。

 失速するナスノカオリを横目に、自慢のパワーで重い芝を蹴り飛ばし、一気に先頭へと躍り出る。

 だが――このバ場は、勝者すら選び直す。最後まで、油断はできない。

 

「気を付けろ! ローリン!!」

 

 外から、5番人気のロンドンデイヴィスが猛追してくる。

 道中足を溜めていた伏兵の末脚が、ローリンに襲いかかる。

 並ばれる。肩が当たる。泥が跳ねる。

 息が、喉の奥で擦れる。

 

 ――また、沈むのか。あの泥の中へ。

 

「……いいえ!!」

 

 彼女の中で、何かが弾けた。

 優雅さも、気品も、今はどうでもいい。ただ、勝ちたい。

 

「退きなさいッ!! そこは私の場所です!!」

 

 ローリンが咆哮する。

 お嬢様らしからぬ、なりふり構わぬ絶叫。

 雨音の中に、ローリンの呼吸だけが残る。

 彼女は最後の力を振り絞り、泥を蹴って首一つ分、前に出た。

 その執念が、ロンドンデイヴィスの追撃を封じ込める。

 

 ゴール板が、スローモーションのように過ぎ去る。

 結果は1着。

 2着のロンドンデイヴィスをクビ差で凌ぎ切った。

 

◆泥だらけの真珠

 

 ウイニングラン。

 降り続いていた氷雨が嘘のように上がり、厚い雲の切れ間から、一筋の陽光がターフへと差し込んだ。

 まるで、新たな王の誕生を祝福するかのようなスポットライト。

 

 その光の中を、オペラローリンが戻ってくる。

 いつも優雅で、汚れ一つ付くことを嫌っていた彼女の姿は、今は見る影もない。

 顔も、勝負服も、自慢の脚も、すべてが真っ黒な泥まみれだ。

 けれど――俺にはその姿が、この世の何よりも美しく見えた。

 

「……あ、あすか、さん……っ!」

 

 俺の姿を見つけた瞬間、彼女の張り詰めていた糸が切れた。

 フェンス際へ駆け寄り、そのまま俺の胸へと崩れ落ちる。

 泥の汚れなど構うものか。俺は彼女の小さな身体を力いっぱい抱きしめた。

 

「長かった……! 本当に、長かったです……っ!」

 

 冷たい雨と泥の中で、彼女の体温だけが熱い。

 彼女が子供のように泣きじゃくる。その慟哭には、これまでの苦難がすべて詰まっていた。

 

 何もできずに沈んだ、皐月賞の泥。

 力の差を見せつけられた、大阪杯の壁。

 そして、夢破れた宝塚記念の悔し涙。

 

 置いていかれる焦りも、届かない夜も。

 ――全部、今日の一歩で踏み砕いた。

 それら全てを、今日の彼女は自らの脚でねじ伏せたのだ。

 

「私……やっと……一番上の舞台で、勝てました……! 貴方に、金色の景色を見せられました……!!」

 

「ああ……! 見たぞ、最高に輝いていた。お前が一番強い! お前こそが『マイル王』だ!!」

 

 俺が叫ぶと、彼女は泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、何度も、何度も頷いた。

 

 スタンドからは、万雷の拍手が降り注ぐ。

 それは単なる勝者への称賛ではない。泥に塗れ、傷つきながらも這い上がってきた「泥だらけの真珠」へ贈られる、最大限の敬意だった。

 

 チーム・ルミナス、最後のGⅠウィナー誕生。

 遠回りの末に掴んだその王冠は、涙と泥で汚れているからこそ、誰のそれよりも気高く、眩い光を放っていた。

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