11月3週、日曜日。
京都レース場は、朝から降り続く冷たい小雨によって、重く湿った空気に包まれていた。
秋のマイル王決定戦、マイルチャンピオンシップ。
ターフの状態は稍重。
切れ味自慢のスピードタイプには過酷なコンディションだ。だが、パドックで周回するオペラローリンと、それを見守る俺にとっては、これは恵みの雨だった。
「……雨ですね、あすかさん」
「ああ。だが、心配はいらない。今のローリンには、荒れたバ場をものともしないパワーがある」
かつて、皐月賞の泥に足を取られ、何もできずに沈んだ彼女はもういない。
夏の猛暑を耐え抜き、筋力を増強した今の彼女にとって、この湿った芝はむしろ、軽量なライバルたちの脚を削ぐ武器になる。
「相手は1番人気のナスノカオリ。……妹のチグサも見に来ているらしい。最高の舞台が整ったな」
「ええ。名門ナスノ家のお姉様……相手にとって不足はありません」
ローリンは3番人気。
静かな闘志を瞳に宿し、真珠色の勝負服がゲートへと向かう。
「ですが、この雨の舞台……主役の座は、私が頂きます」
◆マイルチャンピオンシップ(GⅠ・京都芝1600m)
ファンファーレが鳴り響き、一瞬の静寂。ゲートが開いた。
飛び出したのは、予想通り先行勢だ。
内のナスノカオリ、外のスイジンなどが激しくハナを主張する。
ローリンも引かない。好スタートから強気に前へ行き、先頭集団の一角、好位のポジションを確保する。
ペースは流れる。
稍重のバ場でこのペースは、スタミナを激しく消耗させるサバイバル戦だ。
第3コーナー、名物淀の坂。
上り下りの難所で、泥を吸った芝が各ウマ娘の体力を奪っていく。
第4コーナーから直線へ。
ここで残酷な明暗が分かれた。
それまで先頭を争っていたナスノカオリの脚色が、泥に絡め取られたように鈍る。
彼女の走りは美しく、教科書通りだ。だが――美しい走りほど、泥には弱い。
「……やはり。スピードだけでは、この泥は越えられませんね」
ローリンは冷静だった。
失速するナスノカオリを横目に、自慢のパワーで重い芝を蹴り飛ばし、一気に先頭へと躍り出る。
だが――このバ場は、勝者すら選び直す。最後まで、油断はできない。
「気を付けろ! ローリン!!」
外から、5番人気のロンドンデイヴィスが猛追してくる。
道中足を溜めていた伏兵の末脚が、ローリンに襲いかかる。
並ばれる。肩が当たる。泥が跳ねる。
息が、喉の奥で擦れる。
――また、沈むのか。あの泥の中へ。
「……いいえ!!」
彼女の中で、何かが弾けた。
優雅さも、気品も、今はどうでもいい。ただ、勝ちたい。
「退きなさいッ!! そこは私の場所です!!」
ローリンが咆哮する。
お嬢様らしからぬ、なりふり構わぬ絶叫。
雨音の中に、ローリンの呼吸だけが残る。
彼女は最後の力を振り絞り、泥を蹴って首一つ分、前に出た。
その執念が、ロンドンデイヴィスの追撃を封じ込める。
ゴール板が、スローモーションのように過ぎ去る。
結果は1着。
2着のロンドンデイヴィスをクビ差で凌ぎ切った。
◆泥だらけの真珠
ウイニングラン。
降り続いていた氷雨が嘘のように上がり、厚い雲の切れ間から、一筋の陽光がターフへと差し込んだ。
まるで、新たな王の誕生を祝福するかのようなスポットライト。
その光の中を、オペラローリンが戻ってくる。
いつも優雅で、汚れ一つ付くことを嫌っていた彼女の姿は、今は見る影もない。
顔も、勝負服も、自慢の脚も、すべてが真っ黒な泥まみれだ。
けれど――俺にはその姿が、この世の何よりも美しく見えた。
「……あ、あすか、さん……っ!」
俺の姿を見つけた瞬間、彼女の張り詰めていた糸が切れた。
フェンス際へ駆け寄り、そのまま俺の胸へと崩れ落ちる。
泥の汚れなど構うものか。俺は彼女の小さな身体を力いっぱい抱きしめた。
「長かった……! 本当に、長かったです……っ!」
冷たい雨と泥の中で、彼女の体温だけが熱い。
彼女が子供のように泣きじゃくる。その慟哭には、これまでの苦難がすべて詰まっていた。
何もできずに沈んだ、皐月賞の泥。
力の差を見せつけられた、大阪杯の壁。
そして、夢破れた宝塚記念の悔し涙。
置いていかれる焦りも、届かない夜も。
――全部、今日の一歩で踏み砕いた。
それら全てを、今日の彼女は自らの脚でねじ伏せたのだ。
「私……やっと……一番上の舞台で、勝てました……! 貴方に、金色の景色を見せられました……!!」
「ああ……! 見たぞ、最高に輝いていた。お前が一番強い! お前こそが『マイル王』だ!!」
俺が叫ぶと、彼女は泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、何度も、何度も頷いた。
スタンドからは、万雷の拍手が降り注ぐ。
それは単なる勝者への称賛ではない。泥に塗れ、傷つきながらも這い上がってきた「泥だらけの真珠」へ贈られる、最大限の敬意だった。
チーム・ルミナス、最後のGⅠウィナー誕生。
遠回りの末に掴んだその王冠は、涙と泥で汚れているからこそ、誰のそれよりも気高く、眩い光を放っていた。