11月4週。
アメリカ遠征の準備に追われる中、俺はナスノチグサをトレーナー室に呼び出していた。
机の上には、パスポートと航空券、そして現地のコースデータが散乱している。
「……お呼びでしょうか、神楽坂トレーナー」
放課後。制服姿のチグサが現れた。
相変わらず表情は涼しいが、その視線は机の上の「渡米セット」に留まっていた。彼女ほど聡明なら、俺が何を言おうとしているか、既に察しているのかもしれない。
「ああ、忙しいところすまない。……単刀直入に言う」
俺は彼女に向き直り、頭を下げた。
「お前のデビュー戦……12月2週の阪神開催だが、俺は行けなくなった」
それは、トレーナーとしてあるまじき不義理だ。
『デビュー戦を見てから契約を決める』と約束しておきながら、その晴れ舞台を放棄して海外へ行くのだから。
「理由は……分かっているな? キョウエイグリーンのアメリカ遠征に帯同するためだ」
室内には重い沈黙が流れる。
普通なら、「私より他のウマ娘を優先するのですか」と怒ってもいい場面だ。
だが、チグサは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ふっと小さく息を吐いた。
「……謝罪は不要です。むしろ、安心しましたわ」
「安心?」
「ええ。もしここで貴方が、グリーン先輩の海外GⅠ挑戦よりも、新人のデビュー戦程度を優先するような『情に流されるトレーナー』だったら……わたくしの方から契約をお断りするところでした」
彼女は口元に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「姉様――ナスノカオリの陣営なら、絶対にそんなリスクは冒さない。確実な国内の勝利よりも、不確定な海外の栄光を選ぶ……。その『計算できない貪欲さ』こそ、わたくしが求めていたものです」
彼女は机の上の航空券を指先でなぞった。
「常識外れで、リスクテイカーで、勝利のためなら空さえ飛ぶ。……『それでこそ』です。それでこそ、姉様という完成された論理を壊せるのですから」
その言葉には、強い自負と、俺たちへの奇妙な信頼が込められていた。
彼女は俺に「優しさ」など求めていない。「強さ」と「勝利への執着」だけを求めているのだ。
「……そう言ってもらえると助かるよ。だが、お前のレースを見られないのは事実だ。だから――」
俺は言葉を継いだ。
「当日は由衣さんに帯同してもらう。彼女はウチのチームの要だ。現場での判断も、全て彼女に一任してある」
俺の言葉に、チグサは短く頷いた。
「ええ、異存はありません。由衣さんの優秀さは存じていますから」
彼女は鞄から一冊のノートを取り出した。
パラリとめくられたページには、デビュー戦の出走メンバーの分析だけでなく、ページの端に『晴・良』『雨・稍重』『強風』の見出しが並び、矢印が三方向へ枝分かれしていた。余白には、赤ペンで小さく『想定外=内で我慢』と書き足されている。
「サポートは彼女がいれば十分です。それに、作戦は既にこの通り、あらゆる変数を想定済みです。貴方が現地にいようがいまいが、結果は変わりません」
「……頼もしいな。俺の指示なんて要らないくらいだ」
「その代わり」
彼女はノートを閉じ、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「次のレース……年明けの重賞あたりでしょうか。その時は、必ず特等席で見届けてください。わたくしが『本物』であることを」
「ああ、約束する。……アメリカから帰ってきたら、一番にお前の勝利を祝わせてくれ」
「ええ。貴方がいなくても勝つ。――それが、わたくしの考える『強さ』の証明ですから」
彼女は一礼し、足音もなく部屋を出て行った。
残されたのは、彼女が置いていった完璧な作戦ノートの写しだけ。
(……ナスノチグサ。とんでもない新人を抱えちまったな)
俺は苦笑しながら、アメリカ行きの鞄に荷物を詰め込んだ。
日本にはローリン、タイフウとチグサ、アメリカにはグリーン。
チーム・ルミナスは二手に分かれ、それぞれの戦場へと向かう。
◆留守を預かる者
チグサとの面談を終え、俺はフライトの準備を急いでいた。
パスポート、ドル紙幣、そして現地のガイドへの手土産。
大きなトランクを閉じたところで、由衣さんが温かいコーヒーを淹れてくれた。
「……準備は万端そうですね、あすかさん」
「ええ。おかげさまで。……由衣さん、留守の間、チームのことを頼みます」
俺はコーヒーを受け取り、改めて彼女に向き直った。
今回の遠征中、日本に残るメンバーは三人。
休養に入ったローリン、デビュー戦を控えたチグサ、そして――。
「特に、オーナーズタイフウのことです」
12月1週、中京レース場で行われるダート王決定戦、チャンピオンズカップ。
これにタイフウが出走する。俺がアメリカにいる間の、最大の懸念事項だ。
「当日の細かいケアは任せます。ただ、レース前の指示は一つだけ伝えてください」
「指示、ですか?」
「ああ。『俺は見てないから、好きに暴れてこい。全部吹き飛ばせ』と」
由衣さんがくすりと笑う。
「ふふ、分かりました。彼女なら、『言われなくてもそのつもりだよ』って鼻で笑いそうですね」
「……あと、『砂もな』と付け加えておいてください」
「もう、あすかさんらしい毒ですね」
由衣さんは楽しそうに目を細めた後、表情を引き締めた。
「それと、レース後のことですが」
俺は手帳を開き、タイフウの今後のスケジュールを指し示した。
「チャンピオンズカップの結果がどうあれ、レース後は4週の休養をさせてください。年末年始はゆっくり休ませて、リフレッシュさせる方向で」
「次走は……やはり、今年も?」
「ええ。来年の2月、フェブラリーステークス。……そこで連覇を狙います」
去年と同じローテーションだ。
冬場に無理をして消耗するより、しっかりと英気を養い、万全の状態で得意の東京マイルへ向かう。それがダート女王にとっての黄金ルートだ。
「承知しました。……ローリンさんは既に休養に入っていますし、チグサさんのデビュー戦と合わせて、私が責任を持って管理しておきます」
彼女は微笑み、俺のトランクにそっと手を添えた。
「あすかさんは、グリーンのことだけを考えてください。アメリカの空の下で、思いっきり暴れてきてくださいね」
「……ありがとうございます。本当に、頼りにしています」
最強の「留守番役」がいるからこそ、俺は安心して海を渡れる。
俺はコーヒーを飲み干し、トランクを手に取った。
「行ってきます、由衣さん」
「はい。いってらっしゃいませ、神楽坂トレーナー」
彼女の丁寧なお辞儀に見送られ、俺とグリーンは日本を後にする。
目指すはアメリカ。
チーム・ルミナス、世界への挑戦が始まる。