11月4週。
羽田空港の国際線ロビーは、独特の喧騒に包まれていた。
大きなトランクを引く俺と、珍しく少し緊張した面持ちのキョウエイグリーンの元へ、見送りのメンバーが集まってくれた。
「……あすかさん、グリーン。気をつけて行ってきなよ」
腕組みをしてニヤッと笑ったのは、オーナーズタイフウだ。
来週には彼女自身もGⅠ・チャンピオンズカップを控えている。一番ピリピリしている時期のはずなのに、彼女はわざわざ空港まで駆けつけてくれた。
「タイフウ、すまないな。大事な時期に俺がいなくて」
「ハッ! 何言ってんだか。あたしのことは気にすんなって」
彼女は俺の胸をドンと拳で叩いた。
「由衣から聞いたぜ。『砂もろとも吹き飛ばせ』ってな。……あたしのレースなんて、どうせ逃げて勝つだけだ。あすかさんがいようがいまいが、結果は変わらねえよ。……それより、そっちのチビの面倒、しっかり見てやってくれ」
「だーれがチビよ! アタシの方がGⅠいっぱい勝ってるんだからね!」
グリーンが噛みつくと、タイフウは「はいはい」と笑って流す。
その横で、上品なコートを纏ったオペラローリンが、穏やかに口を開いた。
「ふふ、相変わらず賑やかですね。……グリーンさん、貴女のスピードが世界でどこまで通用するか、楽しみにしていますよ」
「ローリン先輩……」
「私のマイルCSの勝利祝い、まだ貰っていませんからね。……アメリカの金メダル、お土産に期待していますよ?」
彼女らしい、穏やかだが芯のあるエール。
マイル王とダート女王、二人の頼もしい先輩に背中を押され、グリーンの表情から緊張が消え、いつもの勝気な色が戻ってきた。
「りょーかい! 二人とも、日本で大人しく待っててよね! アタシが『世界のグリーン様』になって帰ってくるまでさ!」
◆北回りの長い旅
飛行機が離陸し、日本列島が小さくなっていく。
目指すはアメリカだが、今の時代の空の旅は甘くない。
まずは給油のため、アラスカのアンカレッジへと向かう北回りルートだ。
「うへぇ……まだ着かないの? もう退屈で死んじゃう!」
離陸から数時間。
グリーンが早くも音を上げていた。
座席は奮発して取ったファーストクラス。足元は十分に広く、食事も豪華だ。
だが、生粋のスピードスターである彼女にとって、何時間も「動けない」という状況は、狭さとは別の意味で拷問に近いらしい。
「少し通路を歩いてくる! ダッシュ一本くらいなら……」
「やめろ、つまみ出されるぞ。……ほら、マッサージしてやるから大人しくしてろ」
俺は彼女のふくらはぎを揉みほぐしながら、機内サービスのジュースを渡す。
窓の外には、見渡す限りの雲海と、北極圏の冷たい海が広がっている。
アンカレッジでの給油休憩。
降り立った空港は、日本のそれとは違う、突き刺すような寒さと白い雪山に囲まれていた。
ロビーへ出た瞬間、冷気と共に漂ってきたのは、懐かしいかつお出汁の匂いだった。
「……なにこれ、うどん? 急に日本じゃん」
匂いの先、赤い提灯のような灯りがちらりと見えて、列の半分からは日本語が聞こえてくる。
その光景に、張り詰めていた俺の肩の力も少しだけ抜けた。
そして再び機上の人となり、数時間。
時差ボケと疲労で会話も少なくなってきた頃、ようやく機内アナウンスが響いた。
眼下に広がるのは、広大なアメリカの大地だ。
◆ブルーグラスの風
乗り継ぎを経て、ようやく辿り着いたのはケンタッキー州・ルイビル。
アメリカ競バの聖地、チャーチルダウンズレース場がある街だ。
空港を出た瞬間、乾いた冷たい風が頬を撫でた。
「……ここが、アメリカ」
グリーンが大きく伸びをして、深呼吸をする。
長旅の疲れはあるはずなのに、その瞳はキラキラと輝いていた。
「なんかさ、空が広いね! それに、匂いも違う気がする!」
「ああ。ここが『ブルーグラス』と呼ばれる、数多の名ウマ娘を輩出してきた聖地だ……どうだ、走れそうか?」
俺が問いかけると、彼女はニヤリと笑って地面をタンッと踏み鳴らした。
「もちろん! 時差ボケなんて走って吹き飛ばしてあげるよ!」
12月1週、ミセスリヴァステークス。
本番のアメリカンオークスへ向けた前哨戦。
異国の地で、キョウエイグリーンの冒険がいよいよ幕を開ける。