12月1週。
ケンタッキー州、チャーチルダウンズレース場は、冬の澄んだ青空の下にあった。
ミセスリヴィアステークス。
パドックでは、現地の観客たちが好奇と懐疑の入り混じった視線を送っていた。
彼らの視線の先には、小柄な日本のウマ娘――キョウエイグリーンがいる。
「おい見ろよ、あの子が日本から来た『グリーン』か?」
「ちっちゃいな! このタフなアメリカの芝で走れるのか?」
「長旅の直後らしいぜ。時差ボケでフラフラなんじゃないか?」
英語での容赦ない品定め。
だが、グリーンは動じない。
言葉は分からない。けれど、笑いのタイミングと、値踏みする視線と、わざとらしい肩すくめ――その全部が「歓迎していない」と伝えていた。
彼女は鼻で笑い、不敵に言い放つ。
「へぇ、言いたい放題だね。……あすかさん、見ててよ。レースが終わったら、全員サインねだりに並ばせちゃうんだから」
「頼もしいな。……だが油断するなよ。アメリカのウマ娘はフィジカルが強い。当たり負けするなよ」
俺の忠告に、彼女は「りょーかい!」と軽く手を振って応え、ゲートへと向かった。
◆ミセスリヴィアステークス(GⅡ・チャーチルダウンズ芝1700)
ゲートが開いた瞬間、俺の懸念が現実となった。
――ガッ!
「……っ!?」
スタート直後、外枠のウマ娘たちが、強引にインコースを取りに来たのだ。
日本のレースのような譲り合いはない。肩をぶつけ、進路をこじ開けるラフなポジショニング争い。
さらに、足元の芝が違う。
ケンタッキー名物「ブルーグラス」。日本の芝より丈が長く、粘り気のある重い芝が、グリーンの華奢な脚に絡みつく。
重い。そして、痛い。
小柄なグリーンは、大柄なアメリカのウマ娘たちに挟まれ、一瞬バランスを崩しかけた。
(何食べたらこんなにデカなんのよ……怪獣かよっ!)
隣の選手が、体当たりと共にニヤリと笑って何かを囁く。
言葉は分からない。だが、わざとゆっくり言い直す口の動きと、目だけ笑わない顔――それが“からかい”だということは、痛いほど分かった。
押し込まれ、包まれる恐怖。
スタンドからは野次が飛ぶ。このままフィジカルの差でバ群に沈むかと思われた、その時。
グリーンの思考が、一瞬で最適解を弾き出した。
(――あーもう、鬱陶しいなぁ! ぶつかり合いで勝てないなら……)
彼女は接触を避けるのではなく、さらに前へと加速した。
(誰もいない先頭を走れば、ぶつかることもないじゃん!)
その加速は、現地の常識を逸脱していた。
競り合いから脱出するための加速ではない。レースそのものを終わらせるような、ロケットスタート。
絡みつく芝ごと地面を蹴り飛ばし、一瞬でバ群から抜け出した彼女は、そのまま単独先頭に立った。
第3コーナー、第4コーナー。
後続との差が開いていく。
触れさせない。近づかせない。
彼女が通り過ぎた後に残るのは、風だけだ。
先ほどまで野次を飛ばしていた観客たちが、口をポカンと開けて静まり返る。
ポップコーンを咀嚼する音すら止まり、誰もがその「ニンジャ・スピード」に見入っていた。
その静寂を切り裂くように、グリーンは最後の直線を駆け抜けた。
タイムは1分42秒9。
2着のグラウンディドクォドラティックに4バ身差をつける圧勝だった。
◆手のひら返し
ゴール板を過ぎ、息ひとつ切らさずに戻ってきたグリーン。
その瞬間、スタンドから割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
「Unbelievable!!」
「なんて速さだ! 彼女はニンジャか!?」
「Hey! こっち向いてくれグリーン!」
先ほどまでの懐疑的な空気は消え失せ、そこには新たなスターを称える熱狂だけがあった。
「……ふふん。どう? あすかさん」
グリーンはウインクをして、熱狂する観客席を親指で指した。
「最初はちょっとムカついたけどさ。先頭走っちゃえば、フィジカルとか関係ないね! 誰もアタシに触れないんだから!」
「ああ、お見事だ。……有言実行だな、この愛すべきひねくれ者め」
俺は彼女の頭をポンポンと撫でた。
時差ボケも、重い芝も、フィジカルの差も、全てスピードで解決して見せたキョウエイグリーン。
アメリカ初戦、これ以上ない形でのロケットスタートだ。
ケンタッキーの風は掴んだ。
次はいよいよ西海岸へ。
本番、アメリカンオークスが待っている。