1971年、2月2週。
淀のターフには、冬の終わりを告げるような湿った曇り空が低く垂れ込めていた。
中山での激闘から中三週。地元・関西での初陣となる「きさらぎ賞」の朝だ。
パドック脇。手元の出走表を睨みつけながら、俺の胸の奥には、苦い迷いが渦巻いている。
(……このメンバーに、ハナを主張する子がいない)
誰もが先頭という孤独を嫌い、誰かの背中を壁にしようと出方を伺っている。
だが、俺は前走の京成杯で、彼女にこう命じたばかりだ。「風を受けるな。前の誰かの背中だけを追いかけろ」と。
指示を翻せば、彼女を混乱させる。
その想像だけで、指先がひやりと冷えた。あの夜、俺の掌に額を預けて震えていた温度が、脳裏をよぎる。
逃げは彼女にとって、かつて絶望と自滅の象徴だったはずだ。それを再び強いることは、俺というトレーナーへの不信に繋がるのではないか。
(しかし、展開次第では――ローリンが押し出される。誰かの外側に立たされて、正面から風を受ける。それだけで、彼女は――戻る)
俺の手に、冷たい汗が滲む。
ふと視線を上げると、パドックを回るローリンが、不安げに俺の姿を探していた。
真珠色の髪が、湿った風に重たく揺れる。その瞳に宿っているのは、かつての諦念ではなく、俺の言葉を必死に守ろうとする、健気なまでの忠実さだ。
(……いや、違う。彼女の「音」はもう、ノイズに怯えていない)
俺は深く、一度だけ息を吐き出した。
一貫性なんて要らない。マニュアルも捨てろ。
いま震えている彼女の“今日”を、俺の目で選ぶ。
「ローリン」
検量室前。俺は彼女の細い肩に手を置き、その目を見つめる。
「……前走と違うことを言う俺を、許してほしい。今日は、無理に壁を探さなくていいんだ」
彼女が驚いたように、真珠色の前髪の下で瞳を大きく揺らした。
「誰も前に行かないなら、君が道を切り拓けばいい。……逃げるんじゃない。君が、風の当たり方を決める側になるんだ」
「風を、決める……?」
「ああ。それが『指揮者』だ。君の心地よいリズムで、後ろの連中を支配してやれ。俺が目を離さない」
彼女は一瞬、戸惑ったように唇を噛んだ。
だが、俺の掌から伝わる熱を確かめるように、彼女は俺の手を、折れそうなほど強く握り返した。
「……はい。トレーナーさんが、そう言うなら。私、前を走ります」
◆きさらぎ賞(GⅢ・京都芝1800m)
ゲートが弾け、11人の少女たちが一斉に淀の芝を蹴った。
予想通り、誰もが先頭を嫌い、互いの背中を探り合う重苦しい展開。
その重たい空気を切り裂くように、真珠色の影が静かに前へ出た。
一人、また一人と置き去りにしていく。
遮るもののない視界。正面から受ける冷たい風。
かつての彼女なら恐怖に呑まれて暴走していた――けれど、今日の背中は驚くほど静かだった。
俺の目には、彼女が奏でるリズムが、かつてないほど澄んで見えた。
振り返らない。慌てない。一定のテンポで、淡々と刻む。
彼女は恐怖から逃げているんじゃない。自分の力で、孤独を美しい旋律に変えていた。
◆襲いかかる「怪物」の影
第4コーナーを回り、最後の直線。
スローペースを味方につけた彼女が、満を持してスパートをかける。
逃げ切り体勢。誰もがそう思った、その瞬間だった。
――ゴオオオオオッ!!
空気が爆ぜるような音が、後方から響いた。
それは脚音じゃない。空気の層が、丸ごと持っていかれる音だった。
ローリンの真珠色の髪が、風圧で一度だけ後ろへ跳ねた。
「なっ……!?」
俺が息を呑むより速く、圧倒的な質量を持った影が、大外からすべてを飲み込んだ。
――ヒカルイマイ。
後年「怪物」と呼ばれるそれが、今はただの理不尽として通り過ぎていく。
ターフを叩く蹄音が違う。重く、低く、まるで地響きだ。
次元の違う加速。景色が一段、無理やり引き剥がされる。
抜かれる。影が交差する。
その風圧だけで心が折れそうなほどの、圧倒的な実力差。
それでも――ローリンは脚を止めなかった。
怪物の背中を睨みつけ、最後の一滴まで絞り出すように食らいつく。
……ゴール。
結果は3着。
勝利には届かなかった。だが、掲示板に灯ったその数字は、中山での4着とはまた違う、確かな「権利」を意味していた。
◆春の扉
肩で息をしながら戻ってくる彼女の元へ、俺は駆け寄った。
「……ごめんなさい。私、やっぱり……一番になれなくて」
悔しそうに唇を噛む彼女。真珠色の髪が汗で肌に張り付いている。
俺はその震える肩を、力強く抱き寄せた。
「いや、いい走りだったよ。……あんな化け物相手に、よく食らいついた」
俺は興奮を隠さずに告げた。
「君は今日、一人で風を切って、最後まで脚を伸ばしきった。……それに、この3着には意味がある。賞金加算だ。これで俺たちは、春のクラシック――『皐月賞』への切符を手に入れたんだ」
「皐月賞……私が、クラシックに……?」
彼女は信じられないといった顔で、自分の掌をじっと見つめた。
やがて、その手が確かめるように俺の袖を掴む。
いつもみたいに――でも、前ほど“痛い”力じゃなかった。
「……こういう走り方、私……初めて、怖くなかったです。トレーナーさんの言葉が、耳の奥に、ずっと残ってたから」
1971年、2月。
ヒカルイマイという巨大な壁を目の当たりにした。けれど、彼女の走りは確かに変わっている。
逃げることは、負けることじゃない。支配することだ。
彼女は今、新しい武器を手に入れた。
春の嵐が吹き荒れるその場所へ。
俺たちは、この不器用な轍を刻みながら、確かに進んでいる。