ウマ娘競バ史   作:geko

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第70話:声のないゲート ※チャンピオンズカップ

 12月1週、日曜日。

 アメリカのチャーチルダウンズでグリーンが勝利の雄叫びを上げていた頃、日本の愛知・中京レース場は重苦しい雲に覆われていた。

 ダート界の頂上決戦、チャンピオンズカップ。

 

「……あすかさんの代わりなんて、務まらないことは分かっています」

 

 パドックの隅で、私は祈るようにオーナーズタイフウを見つめていた。

 1番人気。堂々たる周回。

 けれど、一年近く彼女を見てきた私には、その微かな違和感が見て取れた。

 彼女の視線が、無意識に観客席の「いつもの場所」を彷徨っているのだ。

 

 私は深呼吸をし、あすかさんから託された言葉を伝えた。

 

「タイフウさん。あすかさんからの伝言です。『俺は見てないから、好きに暴れてこい。砂もろとも全部吹き飛ばせ』……と」

 

 それを聞いた彼女は、一瞬きょとんとして、それから「へっ」と鼻で笑った。

 

「あの野郎、勝手なこと言いやがって。……まあいい、言われなくてもそのつもりだ。由衣、見てな。あたしが留守を預かってやるよ」

 

「はい。……信じています、タイフウさん」

 

 彼女は強気に笑ってみせた。

 けれど、その強がりこそが、既に歯車が狂っている証拠だったのかもしれません。

 

◆チャンピオンズカップ(GⅠ・中京ダ1800)

 

 ゲートイン完了。

 中京レース場に一瞬の静寂が訪れる。

 

 いつもなら、この瞬間に聞こえるはずだった。

 ゲートが開くコンマ数秒前。あすかさんの「行け!」という、魂を叩くような咆哮が。

 それが、彼女にとっての本当のスタート合図だった。

 

 けれど、今日は静寂だけ。

 その「空白」に、彼女の神経が一瞬だけ戸惑ってしまった。

 

 ――ガシャン!

 

 その瞬間、スタンドから悲鳴が上がった。

 出遅れ。

 いつもなら弾丸のように飛び出すはずのタイフウさんが、反応しきれなかったのだ。

 

「……っ!」

 

 致命的なロス。

 その隙に、外からサドやマイネルサブレといった先行勢が殺到し、前を塞ぐ。

 逃げ宣言をしていたタイフウさんは、バ群の中、砂を被る位置に押し込められてしまった。

 

 自分のリズムではない。視界が悪い。

 それでも、彼女は腐っていなかった。

 

 第3コーナーから第4コーナー。

 タイフウさんは強引に外へ持ち出し、スパートを開始した。

 その脚色は凄まじい。砂を蹴散らし、前のウマ娘たちを次々と飲み込んでいく。

 

「いけぇっ! タイフウさん!!」

 

 私が叫ぶ。喉が裂けそうなほど叫ぶ。

 けれど、届かない。

 私の声では、彼女の奥底にある野生のリミッターを外せない。

 

 直線半ば、ついに先頭集団を捉え、ねじ伏せにかかる。

 だが、その内側――最内で先頭を走る影が、下がらない。

 8番人気、海外からの招待ウマ娘・サドだ。

 道中、完璧に内ラチ沿いで脚を溜めていた彼女は、タイフウさんに並びかけられてからが強かった。

 アメリカのダートGⅡ・GⅢを荒らしまわってきた本場のパワー。

 

 並ぶ。抜かせない。

 前に出ようとするタイフウさんを、内から強引に弾き返すような粘り腰。

 

「押し切って――!」

 

 あと少し。あと数メートル。

 いつもなら――あの人の咆哮が、背中を撃ち、もう一歩を押し込むはずなのに。

 

 二人の体が重なるようにして、ゴール板を駆け抜けた。

 

 写真判定の結果が出るまでの数分間が、永遠のように感じられた。

 そして、掲示板に一番上の数字が灯る。

 

1着:サド

2着:オーナーズタイフウ

 

 その差は、わずかにハナ差。

 出遅れさえなければ。スタートの迷いさえなければ、間違いなく逆転できていた差だ。

 

◆空白の1秒

 

 レース後。

 検量室に戻ってきたタイフウさんは、タオルを被ったまま動こうとしなかった。

 私が駆け寄ると、彼女は震える声で呟いた。

 

「……待っちまったんだ」

 

「え?」

 

「ゲートが開く瞬間。……無意識に、あいつの声を探しちまった。……体が勝手に、あの号令を待っちまったんだよ」

 

 彼女は悔しそうに拳を壁に叩きつけた。ドン、と鈍い音が響く。

 

「たったコンマ数秒だ。……けど、それが命取りだった」

 

 GⅠでのハナ差負け。その原因が、己の心の弱さと、染み付いた「パートナーへの依存」にあることを、彼女自身が一番理解していた。

 

「すまねえ、由衣。……あいつに、合わせる顔がねえよ」

 

「そんなことありません! 貴女はあの絶望的な位置から、ここまで追い込んだんです!」

 

 私は彼女の背中をさすった。その背中は、小刻みに震えていた。

 あすかさんがいないと、彼女は100%の力を発揮できない。

 それは弱点かもしれないが、同時にそれほど強い絆で結ばれているという証明でもあった。

 

 チャンピオンズカップ、2着惜敗。

 最強の女王に刻まれた、初めての「不在による敗北」。

 その苦い事実は、太平洋の向こうにいる「彼」へと届くことになる。

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