12月1週、日曜日。
アメリカのチャーチルダウンズでグリーンが勝利の雄叫びを上げていた頃、日本の愛知・中京レース場は重苦しい雲に覆われていた。
ダート界の頂上決戦、チャンピオンズカップ。
「……あすかさんの代わりなんて、務まらないことは分かっています」
パドックの隅で、私は祈るようにオーナーズタイフウを見つめていた。
1番人気。堂々たる周回。
けれど、一年近く彼女を見てきた私には、その微かな違和感が見て取れた。
彼女の視線が、無意識に観客席の「いつもの場所」を彷徨っているのだ。
私は深呼吸をし、あすかさんから託された言葉を伝えた。
「タイフウさん。あすかさんからの伝言です。『俺は見てないから、好きに暴れてこい。砂もろとも全部吹き飛ばせ』……と」
それを聞いた彼女は、一瞬きょとんとして、それから「へっ」と鼻で笑った。
「あの野郎、勝手なこと言いやがって。……まあいい、言われなくてもそのつもりだ。由衣、見てな。あたしが留守を預かってやるよ」
「はい。……信じています、タイフウさん」
彼女は強気に笑ってみせた。
けれど、その強がりこそが、既に歯車が狂っている証拠だったのかもしれません。
◆チャンピオンズカップ(GⅠ・中京ダ1800)
ゲートイン完了。
中京レース場に一瞬の静寂が訪れる。
いつもなら、この瞬間に聞こえるはずだった。
ゲートが開くコンマ数秒前。あすかさんの「行け!」という、魂を叩くような咆哮が。
それが、彼女にとっての本当のスタート合図だった。
けれど、今日は静寂だけ。
その「空白」に、彼女の神経が一瞬だけ戸惑ってしまった。
――ガシャン!
その瞬間、スタンドから悲鳴が上がった。
出遅れ。
いつもなら弾丸のように飛び出すはずのタイフウさんが、反応しきれなかったのだ。
「……っ!」
致命的なロス。
その隙に、外からサドやマイネルサブレといった先行勢が殺到し、前を塞ぐ。
逃げ宣言をしていたタイフウさんは、バ群の中、砂を被る位置に押し込められてしまった。
自分のリズムではない。視界が悪い。
それでも、彼女は腐っていなかった。
第3コーナーから第4コーナー。
タイフウさんは強引に外へ持ち出し、スパートを開始した。
その脚色は凄まじい。砂を蹴散らし、前のウマ娘たちを次々と飲み込んでいく。
「いけぇっ! タイフウさん!!」
私が叫ぶ。喉が裂けそうなほど叫ぶ。
けれど、届かない。
私の声では、彼女の奥底にある野生のリミッターを外せない。
直線半ば、ついに先頭集団を捉え、ねじ伏せにかかる。
だが、その内側――最内で先頭を走る影が、下がらない。
8番人気、海外からの招待ウマ娘・サドだ。
道中、完璧に内ラチ沿いで脚を溜めていた彼女は、タイフウさんに並びかけられてからが強かった。
アメリカのダートGⅡ・GⅢを荒らしまわってきた本場のパワー。
並ぶ。抜かせない。
前に出ようとするタイフウさんを、内から強引に弾き返すような粘り腰。
「押し切って――!」
あと少し。あと数メートル。
いつもなら――あの人の咆哮が、背中を撃ち、もう一歩を押し込むはずなのに。
二人の体が重なるようにして、ゴール板を駆け抜けた。
写真判定の結果が出るまでの数分間が、永遠のように感じられた。
そして、掲示板に一番上の数字が灯る。
1着:サド
2着:オーナーズタイフウ
その差は、わずかにハナ差。
出遅れさえなければ。スタートの迷いさえなければ、間違いなく逆転できていた差だ。
◆空白の1秒
レース後。
検量室に戻ってきたタイフウさんは、タオルを被ったまま動こうとしなかった。
私が駆け寄ると、彼女は震える声で呟いた。
「……待っちまったんだ」
「え?」
「ゲートが開く瞬間。……無意識に、あいつの声を探しちまった。……体が勝手に、あの号令を待っちまったんだよ」
彼女は悔しそうに拳を壁に叩きつけた。ドン、と鈍い音が響く。
「たったコンマ数秒だ。……けど、それが命取りだった」
GⅠでのハナ差負け。その原因が、己の心の弱さと、染み付いた「パートナーへの依存」にあることを、彼女自身が一番理解していた。
「すまねえ、由衣。……あいつに、合わせる顔がねえよ」
「そんなことありません! 貴女はあの絶望的な位置から、ここまで追い込んだんです!」
私は彼女の背中をさすった。その背中は、小刻みに震えていた。
あすかさんがいないと、彼女は100%の力を発揮できない。
それは弱点かもしれないが、同時にそれほど強い絆で結ばれているという証明でもあった。
チャンピオンズカップ、2着惜敗。
最強の女王に刻まれた、初めての「不在による敗北」。
その苦い事実は、太平洋の向こうにいる「彼」へと届くことになる。