12月2週、土曜日。
タイフウさんの敗戦。その胸の痛みを飲み込んでいる暇はなかった。
感傷に浸る時間は、現場にはない。
今日は阪神レース場にて、ナスノチグサのデビュー戦が行われる。
芝2000mのメイクデビュー戦。
パドックに現れたチグサさんは、名門・ナスノ家の令嬢らしく、凛とした佇まいで歩いていた。
私は彼女に歩み寄り、作戦の最終確認をしようとした。
「チグサさん、今日のレース運びですが……」
「――不要です、由衣さん」
彼女は私の言葉を遮り、眼鏡のブリッジをくいと持ち上げた。
「出走メンバー7人、すべての脚質とデータは頭に入っています。作戦はわたくしが一人で構築しました。貴女には、レース前後のケアだけをお願いできれば十分です」
「……承知しました。では、見届けさせていただきます」
新人とは思えないその自立心。
私は彼女への敬意を込め、静かにターフへと送り出した。
◆メイクデビュー戦(新バ・阪神芝2000)
レースが始まる。
ゲートが開いた瞬間、チグサさんの読みが正しかったことが証明された。
少頭数の7人立て。しかも、メンバー表を見る限り、逃げウマ娘は不在。
誰もが様子を伺い、牽制し合う一瞬の空白。
(……想定通り。パターンC、逃げ不在)
彼女の脳内で、ノートのページがめくられる。
スロー濃厚。ならば――。
(――誰も行かないのなら、わたくしが頂きます)
チグサさんは大外7番枠から、すぅっと自然に先頭へ立った。
無理に脚を使ったわけではない。周りが遅すぎるのだ。
彼女はハナを切りながら、極限までペースを落とし、脚を溜める。
それはレースというより、彼女のための優雅なパレードのようだった。
第4コーナーから直線へ。
後続が慌てて追い出しにかかるが、余力を残しきったチグサさんとの差は詰まらない。
むしろ、彼女が軽く仕掛けただけで、絶望的な距離が開いていく。
「ごきげんよう」
涼しい顔で別れを告げ、独走。
結果は4バ身差の圧勝。
タイムは2分05秒1。2着のトーセンキャットを寄せ付けない完勝だった。
◆桜への距離
レース後。
汗を拭き、ケアをしている最中も、チグサさんの呼吸は乱れていなかった。
初陣を飾った喜びよりも、既に次を見据えている目だ。
「おめでとうございます、チグサさん。完璧なレース運びでしたね」
「ええ。この程度の相手なら当然ですわ」
彼女はスポーツドリンクを口に含み、ふと私に問いかけた。
「……由衣さん。単刀直入にお聞きします」
「はい?」
「今、12月です。……ここから、桜花賞には間に合いますか?」
その問いに、私は言葉を詰まらせた。
桜花賞は4月。
12月デビューとなると、賞金が足りない。ここから1勝クラスを勝ち上がり、さらにトライアルレースで優先出走権を取らなければならない。
一度でも負ければ終わり。ローテーションは過密になる。
常識的に考えれば、「厳しい」と言わざるを得ない。
「……常識的に言えば、かなりギリギリです。綱渡りのローテーションになりますし、確約はできません」
私が慎重に言葉を選ぶと、チグサさんは「やはり」といった風に小さく笑った。
「ええ、それが『普通』の反応でしょうね。姉様の陣営でも同じことを言うはずです」
彼女は空を見上げた。その視線の先には、海を越えたアメリカがある。
「ですが、わたくしが選んだトレーナーなら……神楽坂飛鳥なら、違う答えを出すのではありませんか?」
「……っ」
「『間に合うかどうか』ではなく、『間に合わせる』。……あの人は、そういう覚悟を持った人でしょう?」
彼女の瞳には、冷徹な計算と、それとは裏腹な熱い期待が宿っていた。
私は居住まいを正し、彼女の瞳を見つめ返した。
「……おっしゃる通りです。あすかさんなら、きっとこう言います。『桜の特等席は、お前のために空けてある』と」
私は、不在の彼の言葉を代弁し、微笑んだ。
「彼は来月には帰ってきます。ですから、今は目の前の勝利を積み重ねておきましょう。……彼が帰ってきた時、ぐうの音も出ないほどの『実績』というお土産を渡せるように」
「ふふ。……ええ、そうですわね」
チグサさんは優雅に髪を払い、立ち上がった。
遅れてきた天才令嬢。
彼女の視界には既に、春の仁川に咲き誇る満開の桜が映っていた。