ウマ娘競バ史   作:geko

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第71話:常識への問い ※メイクデビュー戦

 12月2週、土曜日。

 タイフウさんの敗戦。その胸の痛みを飲み込んでいる暇はなかった。

 感傷に浸る時間は、現場にはない。

 今日は阪神レース場にて、ナスノチグサのデビュー戦が行われる。

 芝2000mのメイクデビュー戦。

 

 パドックに現れたチグサさんは、名門・ナスノ家の令嬢らしく、凛とした佇まいで歩いていた。

 私は彼女に歩み寄り、作戦の最終確認をしようとした。

 

「チグサさん、今日のレース運びですが……」

 

「――不要です、由衣さん」

 

 彼女は私の言葉を遮り、眼鏡のブリッジをくいと持ち上げた。

 

「出走メンバー7人、すべての脚質とデータは頭に入っています。作戦はわたくしが一人で構築しました。貴女には、レース前後のケアだけをお願いできれば十分です」

 

「……承知しました。では、見届けさせていただきます」

 

 新人とは思えないその自立心。

 私は彼女への敬意を込め、静かにターフへと送り出した。

 

◆メイクデビュー戦(新バ・阪神芝2000)

 

 レースが始まる。

 ゲートが開いた瞬間、チグサさんの読みが正しかったことが証明された。

 

 少頭数の7人立て。しかも、メンバー表を見る限り、逃げウマ娘は不在。

 誰もが様子を伺い、牽制し合う一瞬の空白。

 

(……想定通り。パターンC、逃げ不在)

 

 彼女の脳内で、ノートのページがめくられる。

 スロー濃厚。ならば――。

 

(――誰も行かないのなら、わたくしが頂きます)

 

 チグサさんは大外7番枠から、すぅっと自然に先頭へ立った。

 無理に脚を使ったわけではない。周りが遅すぎるのだ。

 彼女はハナを切りながら、極限までペースを落とし、脚を溜める。

 それはレースというより、彼女のための優雅なパレードのようだった。

 

 第4コーナーから直線へ。

 後続が慌てて追い出しにかかるが、余力を残しきったチグサさんとの差は詰まらない。

 むしろ、彼女が軽く仕掛けただけで、絶望的な距離が開いていく。

 

「ごきげんよう」

 

 涼しい顔で別れを告げ、独走。

 結果は4バ身差の圧勝。

 タイムは2分05秒1。2着のトーセンキャットを寄せ付けない完勝だった。

 

◆桜への距離

 

 レース後。

 汗を拭き、ケアをしている最中も、チグサさんの呼吸は乱れていなかった。

 初陣を飾った喜びよりも、既に次を見据えている目だ。

 

「おめでとうございます、チグサさん。完璧なレース運びでしたね」

 

「ええ。この程度の相手なら当然ですわ」

 

 彼女はスポーツドリンクを口に含み、ふと私に問いかけた。

 

「……由衣さん。単刀直入にお聞きします」

 

「はい?」

 

「今、12月です。……ここから、桜花賞には間に合いますか?」

 

 その問いに、私は言葉を詰まらせた。

 桜花賞は4月。

 12月デビューとなると、賞金が足りない。ここから1勝クラスを勝ち上がり、さらにトライアルレースで優先出走権を取らなければならない。

 一度でも負ければ終わり。ローテーションは過密になる。

 常識的に考えれば、「厳しい」と言わざるを得ない。

 

「……常識的に言えば、かなりギリギリです。綱渡りのローテーションになりますし、確約はできません」

 

 私が慎重に言葉を選ぶと、チグサさんは「やはり」といった風に小さく笑った。

 

「ええ、それが『普通』の反応でしょうね。姉様の陣営でも同じことを言うはずです」

 

 彼女は空を見上げた。その視線の先には、海を越えたアメリカがある。

 

「ですが、わたくしが選んだトレーナーなら……神楽坂飛鳥なら、違う答えを出すのではありませんか?」

 

「……っ」

 

「『間に合うかどうか』ではなく、『間に合わせる』。……あの人は、そういう覚悟を持った人でしょう?」

 

 彼女の瞳には、冷徹な計算と、それとは裏腹な熱い期待が宿っていた。

 私は居住まいを正し、彼女の瞳を見つめ返した。

 

「……おっしゃる通りです。あすかさんなら、きっとこう言います。『桜の特等席は、お前のために空けてある』と」

 

 私は、不在の彼の言葉を代弁し、微笑んだ。

 

「彼は来月には帰ってきます。ですから、今は目の前の勝利を積み重ねておきましょう。……彼が帰ってきた時、ぐうの音も出ないほどの『実績』というお土産を渡せるように」

 

「ふふ。……ええ、そうですわね」

 

 チグサさんは優雅に髪を払い、立ち上がった。

 遅れてきた天才令嬢。

 彼女の視界には既に、春の仁川に咲き誇る満開の桜が映っていた。

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