ウマ娘競バ史   作:geko

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1973年
第75話:春への計算式 ※紅梅ステークス


 1973年、1月3週。

 年が明け、チーム・ルミナスは早くも動き出していた。

 京都レース場、紅梅ステークス。

 

 本来なら1勝クラスの身であるナスノチグサが、格上のオープン競走に挑む。

 理由は単純な計算だ。春の桜花賞に出るためには、今の収得賞金では足りない。ここで勝って賞金を加算するのが、GⅠへの最短ルートになる。

 

「……作戦の確認です。このレース、前に行きたいウマ娘が多数揃いました」

 

 控え室で、チグサが淡々とコース図を指差す。

 彼女の枠は13番。外枠だ。

 

「外枠から無理にハナを奪いに行けば、先行争いに巻き込まれて消耗します。ここはあえて引いて、中団のバ群の中で脚を溜める……差しの作戦を選択します」

 

「ああ、同感だ。今の京都のバ場なら、それが一番勝率が高い」

 

 俺たちの意見は一致していた。

 論理的で、完璧な作戦会議。……だが。

 俺は、彼女が握りしめているペンの先が、微かに震えているのを見逃さなかった。

 

「……チグサ」

 

「はい、何でしょう?」

 

「手が震えてるぞ」

 

 俺の指摘に、彼女はハッとして自分の手を押さえ、バツが悪そうに視線を逸らした。

 

「……由衣さんには、気付かれなかったんですけれどね」

 

 彼女は自嘲気味に笑った。

 

「格上挑戦への不安ではありません。……ただ、『ナスノ』の名を背負う重圧が、時折こうして顔を出すのです。姉様なら、この程度の壁は息をするように越えていくでしょうから」

 

 名門の令嬢ゆえのプライドと、偉大な姉へのコンプレックス。

 完璧に見える彼女の、それが唯一のバグだった。

 

「……よし。じゃあ、あいつの言い方でいくか」

 

「はい?」

 

 俺は大きく息を吐くと、あえて椅子に深く座り直し、おどけた調子で言った。

 

「ま、チグサならなんとかなるっしょ! 楽勝、楽勝~」

 

「……は?」

 

 チグサが目を丸くする。それは、あのアメリカ帰りの新緑――キョウエイグリーンの口調そのものだった。

 

「なんだその顔は。グリーンの真似だぞ。……あいつなら、きっとこう言うと思ってな」

 

 俺はニッと笑って彼女を見た。

 

「難しく考えるな。お前はナスノの看板である前に、チーム・ルミナスのナスノチグサだ。……適当にやってこい」

 

 その拍子抜けするような激励に、チグサは眼鏡の位置を直し、柔らかく微笑んだ。

 

「……ふふ。貴方という人は、本当に……。ええ、『適当』に勝ってきますわ」

 

 震えは、もう止まっていた。

 

◆紅梅ステークス(L・京都 芝 右 1400m 晴 良)

 

 レースが始まる。

 ゲートが開くと同時に、予想通り先行勢が殺到した。

 アグネスコールやケイスパーコらが激しく競り合う中、チグサは涼しい顔でスッと順位を下げる。

 

 中団、バ群のど真ん中。

 前後左右を他人に囲まれる窮屈な位置取り。少しでも判断を誤れば、進路を失って終わる袋小路だ。

 だが、今の彼女に焦りはない。

 

 彼女は喧騒を遮断し、じっとその時を待った。

 第3コーナーの坂を下り、第4コーナーへ。

 先行勢の足色が鈍り、バ群が横に広がり始める。

 

 一瞬生じた、わずかな隙間。

 チグサはそこを見逃さなかった。

 

 直線に入った瞬間、彼女はバ群の中から弾かれたように飛び出した。

 溜めに溜めた脚が爆発する。

 もはや格上の相手など関係ない。彼女の末脚は、次元が違っていた。

 

 先頭を走っていたベルズカウンテスを軽々とかわし、置き去りにする。

 終わってみれば2バ身半差の完勝。

 タイムは1分23秒0。

 6番人気という低評価を嘲笑うかのような、鮮やかな勝利だった。

 

「お疲れ様。……『適当』にしては、完璧すぎる結果だったな」

 

 戻ってきた彼女を出迎えると、チグサは眼鏡を輝かせて微笑んだ。

 

「ええ。ですが、計算式に『適当』という変数を組み込むのも、悪くはありませんわね」

 

 彼女の手には、桜花賞への切符とも言える賞金が握られていた。

 名門の重圧を、チームの絆(と少しのユーモア)で乗り越えたナスノチグサ。

 春の主役の座へ向け、彼女の計算は着々と進んでいる。

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