1973年、2月4週。
東京レース場は、乾いた砂埃と熱狂に包まれていた。
今年最初のURA・GⅠ、フェブラリーステークス。
パドックには、堂々たる姿で周回するオーナーズタイフウの姿があった。
圧倒的1番人気。
だが、その表情はいつもの不敵な笑みではなく、獲物を狙う獣のように鋭かった。
「……あすかさん」
側に戻ってきた彼女が、低い声で俺を呼んだ。
「チャンピオンズカップじゃ、とんだ醜態さらしちまったな。……あすかさんがいないとダメだなんて、らしくねえ弱音も吐いた」
「気にするな。あれは俺の責任でもある」
「いいや、違うね」
彼女はバシッと自分の腕を叩いた。
「あたしが弱かっただけだ。……だから今日は、きっちり落とし前をつけさせてもらう。見てなよ、あすかさん」
ゲートへ向かう彼女の背中には、鬼気迫る闘志が炎のように揺らめいていた。
◆フェブラリーステークス(GⅠ・東京 ダ 左 1600m 晴 良)
ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。
今回は出遅れなし。完璧なスタートを切ったタイフウは、迷わず先頭を奪いに行く。
だが、ライバルたちも引かない。
ダノンディバインやカーチスといった内枠の先行勢が、激しくハナを主張してくる。
(……速いっ!)
俺はストップウォッチを見て眉をひそめた。
1000m通過が早すぎる。完全なハイペース。
互いに脚を削り合う、泥沼の消耗戦だ。
「おいおい、ペースを落とせ! これじゃ最後まで持たないぞ!」
俺の焦りなど知らぬげに、タイフウは第3コーナーで強引に先頭に立った。
後ろからは2番人気のオオトリグランディが虎視眈々とマークしている。
このペースで飛ばして、直線の長い東京コースを粘りきれるのか?
チャンピオンズカップの悪夢――最後の最後で差された記憶が、脳裏をよぎる。
第4コーナーを回り、最後の直線へ。
俺の不安は、次の瞬間に粉砕された。
「――っらぁああ!!」
タイフウが咆哮と共に、再加速したのだ。
消耗しているはずの脚が、まるでロケットエンジンのように火を噴く。
追走していたオオトリグランディが、一瞬で豆粒のように小さくなる。
粘る? 違う。
彼女は、後ろを千切り捨てていた。
残り200m。
5バ身、7バ身、8バ身……。
独走なんて生易しいものではない。砂嵐がすべてを吹き飛ばしていくような、理不尽な暴力。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、タイムは1分37秒9。
2着のオオトリグランディにつけた着差は、決定的な9バ身だった。
◆最強の証明
静まり返るスタンドの前で、ウイニングランを終えたタイフウが戻ってくる。
息は上がっていたが、その顔には晴れやかな笑みがあった。
「……へへっ。見てたか、あすかさん?」
彼女はフェンス越しに、親指で大きく後ろを指差した。
「これだけ差をつけりゃ、今度また出遅れたって関係ねえだろ?」
「……お前なぁ」
俺は呆れて、それから吹き出した。
スタートのミスをなくすのではなく、ミスしてもお釣りが来るほど千切ればいい。
あまりに乱暴で、しかし彼女らしい最強の解答だ。
「ああ、参ったよ。……これなら10秒出遅れても勝てるかもな」
「ハッ! 違いねえ!」
彼女はニカッと笑い、俺の差し出した拳に、力強く自分の拳を合わせた。
フェブラリーステークス、連覇達成。
ダートの女王・オーナーズタイフウ。その玉座は、1ミリも揺らいでいなかった。
◆暴君の進路変更、王道への挑戦
フェブラリーステークスから一夜明けた、2月某日。
チーム・ルミナスのトレーナー室には、昨日の圧勝劇を報じるスポーツ新聞が積まれていた。
『オーナーズタイフウ、9バ身差の衝撃』
『ダートの王、連覇達成』
踊る見出しを横目に、当の本人であるタイフウは、珍しく真剣な表情で俺に向き合っていた。
「……あすかさん。昨日のレースで、はっきり分かったことがある」
「ん? なんだ? 『あたしは最強だ』ってことか?」
俺が冗談めかして言うと、彼女は「ま、それもあるけどな」とニヤリと笑い、すぐに真顔に戻った。
「マイルまでは、もう十分だ。……スピードだけで押し切れる距離じゃ、昨日のアレみたいになっちまう」
彼女は自身の拳をじっと見つめた。
圧倒的な強さ。だが、それは彼女が求める「ヒリつくような戦い」からは遠ざかっている証拠でもあった。
「だから、あすかさん。……今年は2000mを中心に走らせてくれ」
「2000m……中距離路線か」
俺は少し驚いた。
これまで彼女は、持ち前の爆発的なスピードを活かせる短距離~マイルを主戦場にしてきた。
ダートの2000mとなれば、スピードだけでなく、タフなスタミナと、駆け引きをする精神力が必要になる。いわゆる王道の距離だ。
「ああ。本当に強い奴らは、やっぱり中距離に集まるだろ? スピードだけの勝負じゃなくて、底力が試される距離にな」
タイフウの瞳には、野心的な光が宿っていた。
去年のサドのような、あるいはそれ以上の強者たちと、真っ向から殴り合いたい。
短距離の暴君ではなく、ダート界すべての頂点に立つ王になりたいのだ。
「……分かった。お前のスタミナなら、2000mも十分こなせるはずだ。だが、今までのような『逃げて突き放す』だけの競馬じゃ通用しなくなるぞ」
「望むところだ。……楽な勝ち方なんて、もう飽き飽きだからな」
彼女は不敵に笑い、立ち上がった。
「で、次走なんだが……手頃な舞台がある」
俺は手元のスケジュール帳を開き、ある地方交流重賞を指差した。
「4月の川崎レース場。川崎記念」
地方・川崎が誇る、伝統の長距離戦。
距離は2100m。2000mへの転向を宣言した彼女にとって、これ以上ない試金石だ。
「川崎か……。面白え、地方の砂も久々に味わってやるか」
「ああ。ここで勝てば、名実ともに中距離の主役だ」
「おうよ! 距離が伸びようが何だろうが、やることは一つ。……全員ねじ伏せるだけだ」
オーナーズタイフウは、積まれたスポーツ新聞をバサリとゴミ箱へ放り込んだ。
過去の栄光はいらない。
彼女の視線は既に、4月の川崎、その先の王道へと向けられていた。