ウマ娘競バ史   作:geko

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第77話:譲れない一番、譲ってくれた一番

 1973年、3月1週。

 春の足音が聞こえ始めたこの週、チーム・ルミナスは二つの戦場に分断されようとしていた。

 

 日曜日。

 中山レース場では、オペラローリンの始動戦である中山記念。

 そして阪神レース場では、ナスノチグサの桜花賞トライアル、チューリップ賞。

 

 関東と関西。同日開催の重賞。

 俺の体は一つしかない。どちらに帯同するか、決断を迫られていた。

 

◆金曜日の決断

 

 金曜日の夜、トレーナー室。

 

「……やはり、物理的に両方は不可能です」

 

 由衣さんがスケジュール表を見ながら溜息をつく。

 

「あすかさん、どうしますか? 常識的に考えれば、関東への遠征となるローリンさんに、貴方が付いていくべきですが」

 

「ああ、そうだな。チグサの阪神は地元だし、移動の負担も少ない。チグサには由衣さんが付いてくれ。俺はローリンと中山へ行く」

 

 俺たちが方針を固めかけた、その時だった。

 

「――待ってください」

 

 それまでソファで事の経緯を聞いているだけだったローリンが、立ち上がった。

 

「あすかさん。……今回は、チグサさんに付いてあげてください」

 

「ローリン? でも、お前は久しぶりの関東遠征だぞ。調整やメンタルケアが必要じゃ……」

 

「私は大丈夫です」

 

 彼女は穏やかに、しかし力強く首を横に振った。

 

「クラシックへの挑戦権……それは、ウマ娘にとって一生に一度きりの、二度と戻らない青春です。その重圧は、ベテランの私よりも、これからの彼女の方が遥かに重い」

 

 彼女の脳裏に、かつて自分が挑み、そして敗れた春の記憶がよぎったのかもしれない。

 

「今の私には、あすかさんと一緒に歩んできた経験があります。由衣さんもいてくれますから。……ですが、今のチグサさんに必要なのは、誰よりも信頼するトレーナーの目です」

 

「……ローリン」

 

「行ってあげてください。あの子が、春の嵐に飲み込まれないように」

 

 チームの長女としての、譲れない願い。

 俺はその想いを受け取り、深く頷いた。

 

「……分かった。チグサは俺が見る。……頼んだぞ、ローリン」

 

◆土曜日の約束

 

 翌土曜日。

 中山へ向かうローリンと由衣さんを見送るため、俺は京都駅のホームにいた。

 発車のベルが鳴るまでの、わずかな時間。

 

「……悪かったな。今年最初のレース、それも遠征なのに付いていけなくて」

 

 俺が詫びると、ローリンはふふっと笑って、遠くを懐かしむような目をした。

 

「何を言ってるんですか。……あすかさん、覚えていますか? 一昨年の京成杯のこと」

 

「ああ、もちろんだ」

 

 俺と彼女が初めて挑んだ、関東での重賞レース。寒空の下、不安と期待が入り混じったあの日の空気は、今でも鮮明に覚えている。

 

「あの時の思い出が、今の私の根底にあります。あの景色を二人で見たからこそ……私はもう、一人でも怖くありません」

 

 彼女は胸に手を当て、自信に満ちた微笑みを向けた。

 

「それよりも……今はチグサさんの傍にいてあげてください。彼女が一番輝く瞬間を、貴方が導いてあげるんです」

 

「……ああ。約束する。チグサを必ず桜の舞台へ連れて行く」

 

「ふふ、頼もしいですね」

 

 発車のアナウンスが流れる。

 彼女はデッキに足をかけ、振り返りざまに――少しだけ悪戯っぽい少女の顔でウインクをした。

 

「でも……帰ってきたら、分かっていますね?」

 

「え?」

 

「私が勝って戻るまで、その『ご褒美』は預けておきますから。……覚悟しておいてくださいね?」

 

 彼女は意味深に微笑むと、車内へと消えていった。

 

 ドアが閉まる。

 ガラス越しに優雅に手を振る彼女を乗せ、列車は東へと滑り出した。

 

 強さと、可愛らしさと、信頼と。

 最高のパートナーに背中を押され、俺は踵を返した。

 向かうは阪神。

 ナスノチグサの「一生に一度」を守るために。

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