1973年、3月1週。
春の足音が聞こえ始めたこの週、チーム・ルミナスは二つの戦場に分断されようとしていた。
日曜日。
中山レース場では、オペラローリンの始動戦である中山記念。
そして阪神レース場では、ナスノチグサの桜花賞トライアル、チューリップ賞。
関東と関西。同日開催の重賞。
俺の体は一つしかない。どちらに帯同するか、決断を迫られていた。
◆金曜日の決断
金曜日の夜、トレーナー室。
「……やはり、物理的に両方は不可能です」
由衣さんがスケジュール表を見ながら溜息をつく。
「あすかさん、どうしますか? 常識的に考えれば、関東への遠征となるローリンさんに、貴方が付いていくべきですが」
「ああ、そうだな。チグサの阪神は地元だし、移動の負担も少ない。チグサには由衣さんが付いてくれ。俺はローリンと中山へ行く」
俺たちが方針を固めかけた、その時だった。
「――待ってください」
それまでソファで事の経緯を聞いているだけだったローリンが、立ち上がった。
「あすかさん。……今回は、チグサさんに付いてあげてください」
「ローリン? でも、お前は久しぶりの関東遠征だぞ。調整やメンタルケアが必要じゃ……」
「私は大丈夫です」
彼女は穏やかに、しかし力強く首を横に振った。
「クラシックへの挑戦権……それは、ウマ娘にとって一生に一度きりの、二度と戻らない青春です。その重圧は、ベテランの私よりも、これからの彼女の方が遥かに重い」
彼女の脳裏に、かつて自分が挑み、そして敗れた春の記憶がよぎったのかもしれない。
「今の私には、あすかさんと一緒に歩んできた経験があります。由衣さんもいてくれますから。……ですが、今のチグサさんに必要なのは、誰よりも信頼するトレーナーの目です」
「……ローリン」
「行ってあげてください。あの子が、春の嵐に飲み込まれないように」
チームの長女としての、譲れない願い。
俺はその想いを受け取り、深く頷いた。
「……分かった。チグサは俺が見る。……頼んだぞ、ローリン」
◆土曜日の約束
翌土曜日。
中山へ向かうローリンと由衣さんを見送るため、俺は京都駅のホームにいた。
発車のベルが鳴るまでの、わずかな時間。
「……悪かったな。今年最初のレース、それも遠征なのに付いていけなくて」
俺が詫びると、ローリンはふふっと笑って、遠くを懐かしむような目をした。
「何を言ってるんですか。……あすかさん、覚えていますか? 一昨年の京成杯のこと」
「ああ、もちろんだ」
俺と彼女が初めて挑んだ、関東での重賞レース。寒空の下、不安と期待が入り混じったあの日の空気は、今でも鮮明に覚えている。
「あの時の思い出が、今の私の根底にあります。あの景色を二人で見たからこそ……私はもう、一人でも怖くありません」
彼女は胸に手を当て、自信に満ちた微笑みを向けた。
「それよりも……今はチグサさんの傍にいてあげてください。彼女が一番輝く瞬間を、貴方が導いてあげるんです」
「……ああ。約束する。チグサを必ず桜の舞台へ連れて行く」
「ふふ、頼もしいですね」
発車のアナウンスが流れる。
彼女はデッキに足をかけ、振り返りざまに――少しだけ悪戯っぽい少女の顔でウインクをした。
「でも……帰ってきたら、分かっていますね?」
「え?」
「私が勝って戻るまで、その『ご褒美』は預けておきますから。……覚悟しておいてくださいね?」
彼女は意味深に微笑むと、車内へと消えていった。
ドアが閉まる。
ガラス越しに優雅に手を振る彼女を乗せ、列車は東へと滑り出した。
強さと、可愛らしさと、信頼と。
最高のパートナーに背中を押され、俺は踵を返した。
向かうは阪神。
ナスノチグサの「一生に一度」を守るために。