1973年、3月1週日曜。
神楽坂トレーナーが阪神レース場にいる日、私は中山レース場のパドックに立っていた。
春の足音が近づく中山記念。
隣にトレーナーはいない。
けれど、不安はなかった。私の隣にいるのは、昨年のマイル王・オペラローリンさんなのだから。
レース直前、控え室での作戦会議。
ローリンさんは出走表を見つめ、静かに口を開いた。
「……由衣さん。今回のメンバー、純粋な『逃げウマ娘』が見当たりませんね」
「ええ。先行したい子はいますが、ハナを切りたいタイプは不在です」
私が答えると、彼女は少し考え、そして決然と顔を上げた。
「では、私がハナを奪います」
「えっ? ローリンさんが逃げるのですか?」
彼女の脚質は本来、好位からの差しや先行だ。自らペースを作る逃げは奇策に近い。
だが、彼女の瞳に迷いはなかった。
「スローペースの団子状態になって、集団に包まれるリスクを避けたいのです。……それに、誰も行かないのなら、私がレースの支配権を握ってしまった方が、勝ち筋は太い」
冷静な分析。そして、自らの力で展開をねじ伏せるという自信。
私は彼女の提案に深く頷いた。
「……分かりました。その作戦でいきましょう。貴女の判断を信じます」
「ふふ、ありがとうございます」
彼女は優雅に微笑み、ターフへと向かった。
◆中山記念(GⅡ・中山 芝 1800m 右 晴 良)
ファンファーレが鳴り、ゲートが開く。
好スタートを切ったローリンさんは、宣言通り、最初のコーナーまでの直線で果敢に前へ出た。
他が様子を伺う隙を突き、鮮やかに先頭を奪う。
ここまでは作戦通り。……だが。
(……速いっ!?)
私はラップタイムを見て息を呑んだ。
彼女の後ろに付けたトモエオーやスガノホマレからのプレッシャーがきついのか、あるいはあすかさんがいないという状況が彼女のリズムを狂わせているのか。
1000m通過タイムは、想定よりも遥かに速いハイペースで推移していた。
「ローリンさん……!」
飛ばしすぎだ。このペースで、最後の急坂がある中山の直線を耐えられるのか?
スタンドがざわめく中、彼女は先頭で第4コーナーを回った。
直線を向く。
速すぎるペースの代償か、ローリンさんの足色が鈍る。
そこへ、道中で脚を溜めていたアチーブスターが猛然と襲いかかってきた。
並ばれるか? かわされるか?
普通のウマ娘なら、ここで心が折れて沈んでいく展開だ。
けれど、ローリンさんは沈まない。
(――まだですっ!)
彼女は歯を食いしばり、鉛のように重い脚を回し続けた。
抜かせない。前は譲らない。
序盤で作ったセーフティリードと、マイル王としての意地。そして何より、遠く離れたパートナーへの想いが、彼女の体を突き動かす。
アチーブスターが半バ身まで迫る。
けれど、その差は最後まで縮まらなかった。
ゴール板を、ローリンさんが先頭で駆け抜ける。
タイムは1分48秒7。半バ身差の勝利だった。
◆その強さの理由
「……お疲れ様でした、ローリンさん!」
ウイニングランから戻ってきた彼女に、私はタオルを持って駆け寄った。
彼女は肩で息をしていたが、その表情は晴れやかだった。
「あのハイペースで逃げ切るなんて……凄いです。正直、最後はヒヤヒヤしました」
私が興奮気味に伝えると、彼女は汗を拭いながら、ふわりと笑った。
「ええ、私もです。……ですが」
彼女は西の空――神楽坂トレーナーがいる関西の方角を見つめた。
「あすかさんにああ言った手前、負けるわけにはいきませんからね。……『安心してチグサさんの所へ行ってください』と送り出した私が負けていては、顔向けできません」
その言葉には、恋心よりも深い、戦友としての誇りが滲んでいた。
強い。
走りの技術だけでなく、その心の在り方が、彼女を彼女たらしめているのだと、私は痛感した。
「さあ、由衣さん。……チグサさんの結果を待ちましょうか」
彼女は呼吸を整え、凛とした立ち姿に戻った。
中山のミッションはコンプリート。
バトンは、阪神で戦うもう一人の仲間へと渡された。