ウマ娘競バ史   作:geko

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第8話:春の兆し、切符の重み

 3月に入り、栗東校の空気に湿った土の匂いが混じり始めた。

 朝靄の立ち込めるトレーニングコース。白茶けた芝の隙間から、名もなき野草が芽を覗かせている。

 俺は柵にもたれ、ひとりの少女の走りに目を凝らしていた。

 

 オペラローリン。

 

 真珠色の髪をまだ冷たい風になびかせ、彼女はひとり、朝の静寂を切り裂いていく。

 俺には、筋肉のほんの僅かな強張りが見えた。

 中山での泥臭い粘り。淀での孤独な逃避行。二つの激戦を経て、身体は間違いなく研ぎ澄まされている。

 だが、どこかリズムが噛み合っていない。呼吸の「間」が、ほんのわずかに遅れる。

 

(……心が、ブレーキをかけているな)

 

 練習を終え、息を弾ませながら、彼女が戻ってきた。

 以前のように耳を伏せることはなくなった。だが、俺と目が合うと、どこか申し訳なさそうに視線を泳がせる。

 

「……トレーナー、さん」

 

 彼女は隣まで来て、いつものように俺の右袖を掴んだ。

 その指先が、微かに震えている。中山の時のような移動の疲れではない。内側から湧き上がる、名前のつかない不安だ。

 

「どうした、ローリン。走りは悪くない。……でも、少し考えすぎじゃないか」

 

 俺が問いかけると、彼女は袖を握り込む指に、ぐっと力を込めた。

 

「……あの、次の若葉ステークス……あれ、皐月賞に繋がるレースなんですよね。しかも――ヒカルイマイさんも出る」

 

 彼女の真珠色の瞳が、揺れている。

 

「私みたいな、一度『もう限界だ』って言われたウマ娘が、そんな場所……目指してもいいんでしょうか。……本当は、中山や京都の着順だって、何かの間違いなんじゃないかって……」

 

 彼女の言葉は、自己否定の影に沈んでいた。

 二戦連続の掲示板。それは、偶然で片づく成績じゃない。

 だが、彼女自身の心は、まだあの夕暮れの教室に取り残されたままなのだ。自分を「失敗作」と呼んだ、かつてのトレーナーの声が、まだ耳の奥にこびりついている。

 

「間違いじゃないよ、ローリン」

 

 俺は、袖を握る彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。

 

「君が中山の坂で踏ん張ったのも、淀でひとり風を切ったのも――全部、君が勝ち取った結果だ。若葉は、誰かに渡される切符じゃない。君が、自分の足で――ちぎり取る」

 

 重なり合った手のひら。

 華奢な指先だが、その手のひらは硬く、分厚くなっていた。

 この冬、俺と一緒に積み重ねてきた練習の証だ。  彼女の指先の震えが、ほんの少しだけ収まる。

 

「阪神を選んだ。君にいちばんいい状態で、その切符を掴んでほしいからだ。中山への旅は、皐月賞の本番まで取っておこう。今は、走り慣れた関西の土で――ローリンの力を、出せるだけ出してこい」

 

 彼女はゆっくりと顔を上げ、俺を見つめた。

 まだ確信には至らない、弱々しい光。

 それでも彼女は、掌の熱を吸い込むみたいに、ひと息ついて、一度だけ深く頷いた。

 

「……私、まだ自信はないです。でも、トレーナーさんが、そこに行けって言ってくれるなら……私、頑張ります」

 

 1971年、3月。

 春の嵐が、もうすぐそこまで来ている。

 

◆雨の色、泥の誇り

 

 若葉ステークスの週、栗東は冷たい雨に見舞われていた。執拗な雨足が、トレーニングコースを叩く。

 芝コースは水を吸い、場所によっては泥濘が浮き上がっていた。

 

 多くのウマ娘たちが、足元の悪い芝を避けて屋根のある走路やウッドコースへ向かう中、俺はローリンを連れて、あえて誰もいない芝コースの前に立っていた。

 

「……ここを、走るんですか?」

 

 ローリンが、黒い泥の浮いた地面を見つめて、小さく喉を鳴らした。

 彼女にとって、泥は敗北の記憶だ。バ群に沈み、他人の蹴り上げる泥を顔に浴びて、視界を奪われたまま惨敗した日々。

 綺麗な真珠色の髪が汚れることは、彼女にとって「負け」の象徴だったはずだ。

 汚れるから、崩れる。崩れるから捨てられる。

 その連想が、彼女の足首に見えない鎖みたいに絡みつく。

 

「嫌か?」

 

 俺の問いに、彼女は視線を彷徨わせた。

 本能が拒否している。汚れたくない、重たい足元に取られたくないという恐怖。

 けれど、彼女は俺の袖を掴み、首を横に振った。

 

「……いいえ。行きます」

 

 声は震えていた。それでも、彼女は逃げなかった。

 

 スタートの合図とともに、彼女がぬかるんだ芝を蹴る。

 バシャッ、と鈍い音が響き、跳ね上がった黒い泥が、彼女の白い太腿や頬に飛び散った。

 足を取られそうになるたび、彼女の身体がバランスを崩しかける。

 そのたびに、俺は傘を握りしめ、彼女の足元から目を離さなかった。

 

(耐えろ。泥を敵にするな。地面を掴むんだ)

 

 周回を重ねるごとに、彼女の真珠色の髪は泥水で重く濡れそぼり、白い体操服は見る影もなく汚れていった。

 だが、俺の目には――その姿が、今までで一番美しく見えた。

 

 泥を嫌がって爪先で走るのをやめ、足の裏全体で地面を捉え始めたからだ。

 重バ場を苦にしないパワー。華奢な見た目に隠された、彼女の本当の適性。

 汚れることを受け入れたウマ娘は強い。

 泥は、彼女を汚すものじゃない。彼女が前に進んだ証、その勲章だ。

 

 ラスト一周。

 彼女は泥を跳ね上げながら、目の覚めるような加速を見せた。

 重たい泥音が消え、彼女のリズムだけが響く。

 

「……はぁ、はぁ……っ!」

 

 走り終え、俺の元に戻ってきた彼女は、文字通りの泥まみれだった。

 けれど、雨に打たれるその瞳は、もう曇っていない。

 

「……不思議です。身体は重いのに……足だけは、しっかりと地面を噛んでいました」

 

 彼女は泥だらけの手で、顔にかかった髪をかき上げた。

 その仕草には、かつての悲壮感はない。

 

「これなら、阪神で雨が降っても……私、怖くありません」

 

 俺はタオルを彼女の頭に乗せ、乱暴に、けれど心を込めて拭った。

 雨音に混じって、確かな手応えが響いている。

 この泥んこの特訓が、週末、彼女に“切符の重み”を掴ませることになる――その時の俺たちは、まだ知らない。

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