3月に入り、栗東校の空気に湿った土の匂いが混じり始めた。
朝靄の立ち込めるトレーニングコース。白茶けた芝の隙間から、名もなき野草が芽を覗かせている。
俺は柵にもたれ、ひとりの少女の走りに目を凝らしていた。
オペラローリン。
真珠色の髪をまだ冷たい風になびかせ、彼女はひとり、朝の静寂を切り裂いていく。
俺には、筋肉のほんの僅かな強張りが見えた。
中山での泥臭い粘り。淀での孤独な逃避行。二つの激戦を経て、身体は間違いなく研ぎ澄まされている。
だが、どこかリズムが噛み合っていない。呼吸の「間」が、ほんのわずかに遅れる。
(……心が、ブレーキをかけているな)
練習を終え、息を弾ませながら、彼女が戻ってきた。
以前のように耳を伏せることはなくなった。だが、俺と目が合うと、どこか申し訳なさそうに視線を泳がせる。
「……トレーナー、さん」
彼女は隣まで来て、いつものように俺の右袖を掴んだ。
その指先が、微かに震えている。中山の時のような移動の疲れではない。内側から湧き上がる、名前のつかない不安だ。
「どうした、ローリン。走りは悪くない。……でも、少し考えすぎじゃないか」
俺が問いかけると、彼女は袖を握り込む指に、ぐっと力を込めた。
「……あの、次の若葉ステークス……あれ、皐月賞に繋がるレースなんですよね。しかも――ヒカルイマイさんも出る」
彼女の真珠色の瞳が、揺れている。
「私みたいな、一度『もう限界だ』って言われたウマ娘が、そんな場所……目指してもいいんでしょうか。……本当は、中山や京都の着順だって、何かの間違いなんじゃないかって……」
彼女の言葉は、自己否定の影に沈んでいた。
二戦連続の掲示板。それは、偶然で片づく成績じゃない。
だが、彼女自身の心は、まだあの夕暮れの教室に取り残されたままなのだ。自分を「失敗作」と呼んだ、かつてのトレーナーの声が、まだ耳の奥にこびりついている。
「間違いじゃないよ、ローリン」
俺は、袖を握る彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。
「君が中山の坂で踏ん張ったのも、淀でひとり風を切ったのも――全部、君が勝ち取った結果だ。若葉は、誰かに渡される切符じゃない。君が、自分の足で――ちぎり取る」
重なり合った手のひら。
華奢な指先だが、その手のひらは硬く、分厚くなっていた。
この冬、俺と一緒に積み重ねてきた練習の証だ。 彼女の指先の震えが、ほんの少しだけ収まる。
「阪神を選んだ。君にいちばんいい状態で、その切符を掴んでほしいからだ。中山への旅は、皐月賞の本番まで取っておこう。今は、走り慣れた関西の土で――ローリンの力を、出せるだけ出してこい」
彼女はゆっくりと顔を上げ、俺を見つめた。
まだ確信には至らない、弱々しい光。
それでも彼女は、掌の熱を吸い込むみたいに、ひと息ついて、一度だけ深く頷いた。
「……私、まだ自信はないです。でも、トレーナーさんが、そこに行けって言ってくれるなら……私、頑張ります」
1971年、3月。
春の嵐が、もうすぐそこまで来ている。
◆雨の色、泥の誇り
若葉ステークスの週、栗東は冷たい雨に見舞われていた。執拗な雨足が、トレーニングコースを叩く。
芝コースは水を吸い、場所によっては泥濘が浮き上がっていた。
多くのウマ娘たちが、足元の悪い芝を避けて屋根のある走路やウッドコースへ向かう中、俺はローリンを連れて、あえて誰もいない芝コースの前に立っていた。
「……ここを、走るんですか?」
ローリンが、黒い泥の浮いた地面を見つめて、小さく喉を鳴らした。
彼女にとって、泥は敗北の記憶だ。バ群に沈み、他人の蹴り上げる泥を顔に浴びて、視界を奪われたまま惨敗した日々。
綺麗な真珠色の髪が汚れることは、彼女にとって「負け」の象徴だったはずだ。
汚れるから、崩れる。崩れるから捨てられる。
その連想が、彼女の足首に見えない鎖みたいに絡みつく。
「嫌か?」
俺の問いに、彼女は視線を彷徨わせた。
本能が拒否している。汚れたくない、重たい足元に取られたくないという恐怖。
けれど、彼女は俺の袖を掴み、首を横に振った。
「……いいえ。行きます」
声は震えていた。それでも、彼女は逃げなかった。
スタートの合図とともに、彼女がぬかるんだ芝を蹴る。
バシャッ、と鈍い音が響き、跳ね上がった黒い泥が、彼女の白い太腿や頬に飛び散った。
足を取られそうになるたび、彼女の身体がバランスを崩しかける。
そのたびに、俺は傘を握りしめ、彼女の足元から目を離さなかった。
(耐えろ。泥を敵にするな。地面を掴むんだ)
周回を重ねるごとに、彼女の真珠色の髪は泥水で重く濡れそぼり、白い体操服は見る影もなく汚れていった。
だが、俺の目には――その姿が、今までで一番美しく見えた。
泥を嫌がって爪先で走るのをやめ、足の裏全体で地面を捉え始めたからだ。
重バ場を苦にしないパワー。華奢な見た目に隠された、彼女の本当の適性。
汚れることを受け入れたウマ娘は強い。
泥は、彼女を汚すものじゃない。彼女が前に進んだ証、その勲章だ。
ラスト一周。
彼女は泥を跳ね上げながら、目の覚めるような加速を見せた。
重たい泥音が消え、彼女のリズムだけが響く。
「……はぁ、はぁ……っ!」
走り終え、俺の元に戻ってきた彼女は、文字通りの泥まみれだった。
けれど、雨に打たれるその瞳は、もう曇っていない。
「……不思議です。身体は重いのに……足だけは、しっかりと地面を噛んでいました」
彼女は泥だらけの手で、顔にかかった髪をかき上げた。
その仕草には、かつての悲壮感はない。
「これなら、阪神で雨が降っても……私、怖くありません」
俺はタオルを彼女の頭に乗せ、乱暴に、けれど心を込めて拭った。
雨音に混じって、確かな手応えが響いている。
この泥んこの特訓が、週末、彼女に“切符の重み”を掴ませることになる――その時の俺たちは、まだ知らない。