1973年、3月2週日曜日。
この日、中山レース場は異常な熱気に包まれていた。
GⅡのトライアルレースにもかかわらず、スタンドは立見の余地もないほどの人、人、人。
その視線の先にあるのは、たった一人のウマ娘だ。
「……すごい人だな。GⅠ並みじゃないか」
観客席の片隅で、俺は圧倒されていた。
隣には、サングラスをかけたオーナーズタイフウと、少し居心地が悪そうなナスノチグサがいる。
ローリンは大阪杯への調整、グリーンは「興味ない」とパス。由衣さんはその留守番だ。
「フン、当然だろ。大井で連戦連勝、無敵の『怪物チャン』が中央に殴り込みに来たんだ。……見物客が増えるのも無理はねえよ」
タイフウが腕を組み、誇らしげに鼻を鳴らす。
彼女にとって、ハイセイコーは同じ大井出身の後輩にあたる。
「……ですが、少し過熱気味ではありませんか? データ上はあくまで地方での成績。芝への適性も未知数です」
チグサは冷ややかな目で新聞を見ていた。
中央のエリートコースを歩む彼女からすれば、この騒ぎは不可解な現象に映るのだろう。
「ま、見てなよご令嬢。……理屈じゃねえ『何か』を持ってる奴っているんだよ」
パドックにハイセイコーが現れると、悲鳴のような歓声が上がった。
だが、玄人たちは別の存在を見ていた。
1番人気、タケホープ。
ここまでGⅠホープフルステークスを含む7戦7勝。中央の絶対的な本命だ。
「タケホープ……。隙のない戦績ですね。彼女が勝つ公算は高いと見ます」
「さてね。……怪物チャンがどう動くかだ」
◆弥生賞(GⅡ・中山 芝 2000m 右 晴 良)
ゲートイン完了。
時代の扉が開く音がした。
――ガシャン!
スタート直後、スタンドがどよめいた。
ハイセイコーが下がったのだ。
先行して押し切るかと思われた怪物は、なんと最後方近くまで位置を下げた。
「出遅れか!?」
「いや……狙ってるな」
タイフウが目を細める。
ハイセイコーの視線の先には、中団に付けたタケホープがいる。
地方の荒っぽいレースとは違う。冷静に、獲物をマークしているのだ。
レースは進み、第3コーナーから第4コーナーへ。
先に動いたのはタケホープだった。
完璧なタイミングで抜け出し、直線の入り口で先頭を捉える。
教科書通りの、美しい勝ちパターン。
「決まりましたね。あの位置からなら、もう届きません」
チグサが呟いた、その時だった。
――ドォォォォ……!!
地響きのような歓声と蹄音が、中山の急坂を震わせた。
大外から、芝をむしり取るような影が飛んでくる。
ハイセイコーだ。
「嘘……あの位置から!?」
チグサが目を見開く。
タケホープが抜け出し、勝利を確信した瞬間、外から猛烈な勢いで加速してきたハイセイコーが並びかける。
並ぶ間もない。
一瞬でかわし、さらに突き放す。
芝適性? 展開? そんな細かい理屈をすべてねじ伏せる、圧倒的なパワー。
ゴール板を駆け抜けた時、2着タケホープとの差は1バ身4分の1。
だが、数字以上の衝撃がそこにはあった。
◆時代の風
「ハイセイコー! ハイセイコー!!」
レース後、地鳴りのような「セイコー」コールが巻き起こる。
競バを知らない若者たちも、拳を突き上げて熱狂していた。
「……参りましたね」
チグサが眼鏡を押し上げ、深いため息をついた。
「計算できません……あんな無茶苦茶なレース運びで、中央のエリートをねじ伏せるなんて」
「へっ、だから言ったろ? 理屈じゃねえって」
タイフウはニヤリと笑い、サングラスを外して後輩のウイニングランを見つめた。
「見ろよ、あの観客の顔。……あいつは今日、ただの競走ウマ娘から『時代のアイドル』になったんだ」
「アイドル……ですか」
チグサは呆気にとられたように、熱狂の渦を見つめていた。
彼女の計算式にはない、熱という要素。
同世代に現れたこの怪物は、やがて彼女自身の運命とも交差するかもしれない。
「帰ろうか。……いい刺激をもらった」
俺たちは席を立った。
ハイセイコーの中央デビュー。
それは、空前の「第一次レースブーム」の幕開けであり、チーム・ルミナスの1973年が、激動の時代になることを告げる号砲でもあった。