ウマ娘競バ史   作:geko

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第80話:怪物の産声

 1973年、3月2週日曜日。

 この日、中山レース場は異常な熱気に包まれていた。

 GⅡのトライアルレースにもかかわらず、スタンドは立見の余地もないほどの人、人、人。

 その視線の先にあるのは、たった一人のウマ娘だ。

 

「……すごい人だな。GⅠ並みじゃないか」

 

 観客席の片隅で、俺は圧倒されていた。

 隣には、サングラスをかけたオーナーズタイフウと、少し居心地が悪そうなナスノチグサがいる。

 ローリンは大阪杯への調整、グリーンは「興味ない」とパス。由衣さんはその留守番だ。

 

「フン、当然だろ。大井で連戦連勝、無敵の『怪物チャン』が中央に殴り込みに来たんだ。……見物客が増えるのも無理はねえよ」

 

 タイフウが腕を組み、誇らしげに鼻を鳴らす。

 彼女にとって、ハイセイコーは同じ大井出身の後輩にあたる。

 

「……ですが、少し過熱気味ではありませんか? データ上はあくまで地方での成績。芝への適性も未知数です」

 

 チグサは冷ややかな目で新聞を見ていた。

 中央のエリートコースを歩む彼女からすれば、この騒ぎは不可解な現象に映るのだろう。

 

「ま、見てなよご令嬢。……理屈じゃねえ『何か』を持ってる奴っているんだよ」

 

 パドックにハイセイコーが現れると、悲鳴のような歓声が上がった。

 だが、玄人たちは別の存在を見ていた。

 1番人気、タケホープ。

 ここまでGⅠホープフルステークスを含む7戦7勝。中央の絶対的な本命だ。

 

「タケホープ……。隙のない戦績ですね。彼女が勝つ公算は高いと見ます」

 

「さてね。……怪物チャンがどう動くかだ」

 

◆弥生賞(GⅡ・中山 芝 2000m 右 晴 良)

 

 ゲートイン完了。

 時代の扉が開く音がした。

 

 ――ガシャン!

 

 スタート直後、スタンドがどよめいた。

 ハイセイコーが下がったのだ。

 先行して押し切るかと思われた怪物は、なんと最後方近くまで位置を下げた。

 

「出遅れか!?」

 

「いや……狙ってるな」

 

 タイフウが目を細める。

 ハイセイコーの視線の先には、中団に付けたタケホープがいる。

 地方の荒っぽいレースとは違う。冷静に、獲物をマークしているのだ。

 

 レースは進み、第3コーナーから第4コーナーへ。

 先に動いたのはタケホープだった。

 完璧なタイミングで抜け出し、直線の入り口で先頭を捉える。

 教科書通りの、美しい勝ちパターン。

 

「決まりましたね。あの位置からなら、もう届きません」

 

 チグサが呟いた、その時だった。

 

 ――ドォォォォ……!!

 

 地響きのような歓声と蹄音が、中山の急坂を震わせた。

 大外から、芝をむしり取るような影が飛んでくる。

 ハイセイコーだ。

 

「嘘……あの位置から!?」

 

 チグサが目を見開く。

 タケホープが抜け出し、勝利を確信した瞬間、外から猛烈な勢いで加速してきたハイセイコーが並びかける。

 並ぶ間もない。

 一瞬でかわし、さらに突き放す。

 

 芝適性? 展開? そんな細かい理屈をすべてねじ伏せる、圧倒的なパワー。

 ゴール板を駆け抜けた時、2着タケホープとの差は1バ身4分の1。

 だが、数字以上の衝撃がそこにはあった。

 

◆時代の風

 

「ハイセイコー! ハイセイコー!!」

 

 レース後、地鳴りのような「セイコー」コールが巻き起こる。

 競バを知らない若者たちも、拳を突き上げて熱狂していた。

 

「……参りましたね」

 

 チグサが眼鏡を押し上げ、深いため息をついた。

 

「計算できません……あんな無茶苦茶なレース運びで、中央のエリートをねじ伏せるなんて」

 

「へっ、だから言ったろ? 理屈じゃねえって」

 

 タイフウはニヤリと笑い、サングラスを外して後輩のウイニングランを見つめた。

 

「見ろよ、あの観客の顔。……あいつは今日、ただの競走ウマ娘から『時代のアイドル』になったんだ」

 

「アイドル……ですか」

 

 チグサは呆気にとられたように、熱狂の渦を見つめていた。

 彼女の計算式にはない、熱という要素。

 同世代に現れたこの怪物は、やがて彼女自身の運命とも交差するかもしれない。

 

「帰ろうか。……いい刺激をもらった」

 

 俺たちは席を立った。

 ハイセイコーの中央デビュー。

 それは、空前の「第一次レースブーム」の幕開けであり、チーム・ルミナスの1973年が、激動の時代になることを告げる号砲でもあった。

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