1973年、3月5週日曜日。中京レース場。
この日のメインスタンドは、あるウマ娘の帰還を待ちわびる熱気で膨れ上がっていた。
アメリカのGⅠを制し、世界にその名を轟かせたキョウエイグリーン。
彼女の日本復帰戦を一目見ようと、パドックには黒山の人だかりができている。
そんな喧騒の中、当の本人は至ってマイペースに、自身の勝負服の襟元を直していた。
アメリカ帰りの彼女に相応しい、華やかな装い。
「すっごい歓声! これ全員、アタシのファンってコト?」
「ああ、そうだ。みんな『世界のキョウエイグリーン』を見に来たんだよ」
俺が苦笑すると、彼女はニシシと嬉しそうに笑った。
だが、条件は決して楽ではない。
トモエオーやエリモシルバーといった快速自慢が内枠に揃っており、激しいハナの奪い合いが予想される。
何より、枠番は8枠18番。まさかの大外だ。
「外枠だし、距離は一気に短縮しての1200mだ。スタートのタイミング、シビアになるぞ」
俺が釘を刺すが、グリーンは軽くストレッチをしながら答えた。
「大丈夫だって! あすかさん、忘れたの? アタシ、向こうで2000m走ってきたんだよ?」
「……まあな」
「あの長くてタフな距離に比べたら、1200mなんて一瞬っしょ! 大外だろうが何だろうが、なんとかなるって!」
彼女はウインク一つ残して、大歓声の響くターフへと飛び出していった。
◆高松宮記念(GⅠ・中京 芝 1200m 左 晴 良)
ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。
「よしっ!」
俺は思わず声を上げた。グリーンのスタートは完璧だ。
だが、内からトモエオーたちが猛然とダッシュを利かせてくる。
大外のグリーンが無理にハナを奪おうとすれば、コーナーで大きく外に振られるリスクがある。
(……どうする、グリーン!)
一瞬の判断。彼女は無理をしなかった。
スッと身を引くと、先行集団を見る形の3番手に控えたのだ。
逃げなくてもいい。焦る必要なんてない。
彼女の背中からは、そんな余裕すら感じられた。
第3コーナーから第4コーナーへ。
先行勢が競り合い、ペースが上がる。
だが、グリーンの手応えは抜群だ。まるでジョギングでもしているかのように、涼しい顔で追走している。
そして、最後の直線。
彼女がスパートをかけた瞬間、レースが終わった。
加速の次元が違う。
並ぶ間もなく先頭をかわすと、そこからは独走ショーだった。
1バ身、3バ身、5バ身……。
必死に追うエリモシルバーたちが、スローモーションに見えるほどのスピード。
これが世界の脚だ。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、掲示板に『レコード』の文字が灯る。
タイムは1分08秒8。2着につけた差は、スプリント戦にあるまじき7バ身。
◆独占宣言
レース場が揺れるような大歓声。
グリーンは走りながら、スタンドへ投げキッスを飛ばした。指先一つで歓声が波になる。
ウイニングランを終えたグリーンが、満面の笑みで戻ってくる。
息一つ切らしていない。やはり彼女にとって、このレースは凱旋パレードに過ぎなかったのだ。
「お帰り、グリーン。……とんでもないタイムだぞ」
「へへっ、でしょ?」
彼女は汗を拭うと、スタンドのファンに向けて大きく手を振り、それから俺に向かって不敵に笑った。
「見たあすかさん? これなら文句ないっしょ!」
「ああ。文句なんてあるわけない」
「言っとくけど、これは始まりだからね」
彼女はビシッと指を立てた。
「今年のスプリント・マイル路線は、アタシが独占しちゃうよ! ……あすかさんのスケジュール帳、全部アタシの勝利予定で埋めといてね!」
強欲で、天真爛漫な女王の宣言。
ハイセイコーブームに沸く日本競バ界に、もう一つの「緑の旋風」が吹き荒れる。
1973年、キョウエイグリーンの快進撃が幕を開けた。