ウマ娘競バ史   作:geko

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第82話:夜を焦がす ※川崎記念

 1973年、4月1週。

 カクテル光線に照らされた川崎レース場は、独特の熱気と砂の匂い、スピーカー越しのざらついた実況に包まれていた。

 

 今年からダートの中距離路線へ殴り込みをかけたオーナーズタイフウ。

 その初陣となるパドックで、俺は彼女にしつこく作戦を説いていた。

 

「いいか、タイフウ。今回は2100mだ。今まで走ってきたマイルとは訳が違う」

 

「ああ、ちょい長いんだろ? 分かってるって」

 

 彼女は聞く耳をもたないといった様子で、ナイター照明を見上げている。

 

「分かってない! いいか、いつもみたいにスタートから飛ばすなよ? そんなことをしたら、最後の直線で脚が止まる。ペース配分を考えて、道中は一回息を入れろ。最後は必ず来る」

 

 俺が念を押すと、彼女は挑戦的な目を向け、ニヤリと笑った。

 

「……あすかさん。細けえこと言うなって」

 

「は?」

 

「まあ見てなって。ちまちました計算なんざ、あたしには似合わねえよ」

 

 彼女は俺の背中をバンと叩くと、不敵な笑みを残してコースへと向かった。

 ――この顔の時は、だいたい碌なことにならない。

 

◆川崎記念(JpnⅠ・川崎 ダ 2100m 左 晴 良)

 

 ファンファーレが鳴り、ゲートが開く。

 

 俺の予感は的中した。

 最内枠のタイフウは、スタートと同時にロケットのように飛び出したのだ。

 ペース配分? そんな言葉は彼女の辞書にない。

 さらに悪いことに、外からフジプリンスが競りかけてきた。

 

「オラオラァ! 退きな!」

 

 タイフウが吼え、フジプリンスも引かない。

 二者が並走したまま、レースは異常なハイペースで進んでいく。

 

(……嘘だろ、おい!)

 

 俺はスタンドで頭を抱えた。

 2100mの長丁場で、短距離戦のような競り合い。

 これは消耗戦だ。互いのスタミナを削り合い、共倒れになる最悪のパターン。

 

「バカ野郎……! そこで引け! 息を入れろ!」

 

 俺の叫びも虚しく、彼女は第3コーナー、第4コーナーと、アクセルを踏みっぱなしで回っていく。

 一度も緩めない。――緩める理由が、彼女にはない。

 

 最後の直線。

 無謀な競り合いの代償がついに訪れた。

 並走していたフジプリンスの脚が止まり、ズルズルと後退していく。

 

(タイフウも止まる……!)

 

 誰もがそう思った。

 後方からは、脚を溜めていたマルイチキングやネロが猛然と追い込んでくる。

 だが。

 

「――まだだぁっ!!」

 

 タイフウは止まらなかった。

 スタミナなんてとっくに空っぽのはずだ。

 脚は悲鳴を上げているはずなのに、前だけは譲らない。――意地が、身体の限界を上書きしていく。

 マルイチキングが迫る。半バ身、クビ差……。

 並ばれそうになった瞬間、タイフウが最後の一踏ん張りで、半バ身を守り切る。

 

 ――勝負根性。

 いや、それは「誰にも前を譲りたくない」という、暴君としての本能だった。

 

 ゴール板を駆け抜けた瞬間、タイムは2分11秒3。

 マルイチキングを半バ身抑え込んでの勝利だった。

 

◆最初から最後まで

 

 レース後、汗だくで戻ってきたタイフウは、肩で息をしながらも、勝ち誇った顔で俺を見下ろした。

 

「……ハァ、ハァ……。へへっ」

 

「まったく……寿命が縮んだぞ」

 

 俺が安堵のため息をつくと、彼女はニカッと歯を見せて笑った。

 

「見たか、あすかさん? 距離なんて関係ねえ」

 

 彼女は親指で、自分が駆け抜けてきたコースを指差した。

 

「あたしが最初から最後まで先頭なんだよ。……文句あっか?」

 

「……ないよ。お前がルールだ」

 

 俺は降参して両手を上げた。

 常識外れのハイペース逃げ切り。

 オーナーズタイフウは、2100mという距離さえも、その暴力的なまでの精神力でねじ伏せてしまった。カクテル光線の下、砂煙が橙色に燃えて見えた。

 川崎の夜空に、暴君の高笑いが響き渡る。

 王道・中距離戦線への殴り込みは、これ以上ない形で成功した。

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