1973年、4月1週。
カクテル光線に照らされた川崎レース場は、独特の熱気と砂の匂い、スピーカー越しのざらついた実況に包まれていた。
今年からダートの中距離路線へ殴り込みをかけたオーナーズタイフウ。
その初陣となるパドックで、俺は彼女にしつこく作戦を説いていた。
「いいか、タイフウ。今回は2100mだ。今まで走ってきたマイルとは訳が違う」
「ああ、ちょい長いんだろ? 分かってるって」
彼女は聞く耳をもたないといった様子で、ナイター照明を見上げている。
「分かってない! いいか、いつもみたいにスタートから飛ばすなよ? そんなことをしたら、最後の直線で脚が止まる。ペース配分を考えて、道中は一回息を入れろ。最後は必ず来る」
俺が念を押すと、彼女は挑戦的な目を向け、ニヤリと笑った。
「……あすかさん。細けえこと言うなって」
「は?」
「まあ見てなって。ちまちました計算なんざ、あたしには似合わねえよ」
彼女は俺の背中をバンと叩くと、不敵な笑みを残してコースへと向かった。
――この顔の時は、だいたい碌なことにならない。
◆川崎記念(JpnⅠ・川崎 ダ 2100m 左 晴 良)
ファンファーレが鳴り、ゲートが開く。
俺の予感は的中した。
最内枠のタイフウは、スタートと同時にロケットのように飛び出したのだ。
ペース配分? そんな言葉は彼女の辞書にない。
さらに悪いことに、外からフジプリンスが競りかけてきた。
「オラオラァ! 退きな!」
タイフウが吼え、フジプリンスも引かない。
二者が並走したまま、レースは異常なハイペースで進んでいく。
(……嘘だろ、おい!)
俺はスタンドで頭を抱えた。
2100mの長丁場で、短距離戦のような競り合い。
これは消耗戦だ。互いのスタミナを削り合い、共倒れになる最悪のパターン。
「バカ野郎……! そこで引け! 息を入れろ!」
俺の叫びも虚しく、彼女は第3コーナー、第4コーナーと、アクセルを踏みっぱなしで回っていく。
一度も緩めない。――緩める理由が、彼女にはない。
最後の直線。
無謀な競り合いの代償がついに訪れた。
並走していたフジプリンスの脚が止まり、ズルズルと後退していく。
(タイフウも止まる……!)
誰もがそう思った。
後方からは、脚を溜めていたマルイチキングやネロが猛然と追い込んでくる。
だが。
「――まだだぁっ!!」
タイフウは止まらなかった。
スタミナなんてとっくに空っぽのはずだ。
脚は悲鳴を上げているはずなのに、前だけは譲らない。――意地が、身体の限界を上書きしていく。
マルイチキングが迫る。半バ身、クビ差……。
並ばれそうになった瞬間、タイフウが最後の一踏ん張りで、半バ身を守り切る。
――勝負根性。
いや、それは「誰にも前を譲りたくない」という、暴君としての本能だった。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、タイムは2分11秒3。
マルイチキングを半バ身抑え込んでの勝利だった。
◆最初から最後まで
レース後、汗だくで戻ってきたタイフウは、肩で息をしながらも、勝ち誇った顔で俺を見下ろした。
「……ハァ、ハァ……。へへっ」
「まったく……寿命が縮んだぞ」
俺が安堵のため息をつくと、彼女はニカッと歯を見せて笑った。
「見たか、あすかさん? 距離なんて関係ねえ」
彼女は親指で、自分が駆け抜けてきたコースを指差した。
「あたしが最初から最後まで先頭なんだよ。……文句あっか?」
「……ないよ。お前がルールだ」
俺は降参して両手を上げた。
常識外れのハイペース逃げ切り。
オーナーズタイフウは、2100mという距離さえも、その暴力的なまでの精神力でねじ伏せてしまった。カクテル光線の下、砂煙が橙色に燃えて見えた。
川崎の夜空に、暴君の高笑いが響き渡る。
王道・中距離戦線への殴り込みは、これ以上ない形で成功した。