1973年、4月1週日曜日。阪神レース場。
川崎での「夜の暴走」から数日後。俺は春の陽光が降り注ぐ阪神のパドックにいた。
目の前には、落ち着き払った様子のオペラローリンの姿がある。
先日、燃えるような走りで勝利をもぎ取ったタイフウとは対照的に、彼女の表情は一点の曇りもなく、真珠色の勝負服が陽光を浴びて輝いていた。
それは、王者の風格そのものだった。
「……あすかさん。顔色が優れませんね」
近寄ってきたローリンが、心配そうに俺を覗き込む。
「ああ、まあな。……数日前に、寿命が縮むようなレースを見せられたもんでな」
俺が苦笑すると、彼女は察したようにふふっと笑った。
「タイフウさんのレースですね。……あのような野性味溢れる走りは、私には真似できません」
彼女はスッと背筋を伸ばし、ターフの方角を見据えた。
「私は私のやり方で、貴方の心労を癒やしましょう。……『王道』とはどうあるべきか、皆さんへの手本となるようなレースをお見せします」
「手本?」
「ええ。美しく、無駄なく、完璧な勝利を」
彼女は優雅に一礼し、歓声の中へと向かっていった。
◆大阪杯(GⅠ・阪神 芝 2000m 右 晴 良)
ファンファーレが鳴り、空気が張り詰める。
――ガシャン!
スタートは完璧だった。
ローリンは無理にハナを主張することなく、かといって下がりすぎることもない。
逃げるトーヨーアサヒやハクホオショウを行かせ、自分はスッと4番手の好位に収まる。
(……上手い)
俺は双眼鏡越しに唸った。
折り合いは完璧。コース取りにも無駄がない。
前走の中山記念では逃げという奇策に出たが、本来の彼女はこうして好位で脚を溜め、直線の爆発力に繋げるのが真骨頂だ。
第3コーナーから第4コーナーへ。
ペースが上がっても、彼女のリズムは乱れない。
前のウマ娘たちが苦しくなり始めたタイミングで、外へ持ち出し、視界をクリアにする。
まるでレースの教科書を見ているかのような、理想的な運び。
直線を向く。
ここからが彼女の独壇場だった。
「――参ります」
彼女が静かにスパートをかけると、溜め込まれていたエネルギーが解放される。
爆発的だが、荒々しさはない。
滑らかに加速し、あっという間に先頭を捉え、抜き去る。
後続からシンシティやヒロシゲが追いすがろうとするが、その差は縮まるどころか、絶望的に開いていく。
危なげない。怖いくらいに。
そのまま彼女は、誰も寄せ付けることなくゴール板を駆け抜けた。
タイムは2分01秒9。
2着につけた差は、盤石の5バ身。
◆正しき王の姿
ウイニングランから戻ってきたローリンは、乱れのない呼吸で俺に微笑みかけた。
「……いかがでしたか? あすかさん」
「参ったな。……ぐうの音も出ない完勝だ」
俺は賛辞と共にタオルを渡す。
タイフウのレースが「熱狂と混沌」なら、ローリンのレースは「洗練と秩序」だ。
「ふふ。これで少しは、胃の痛みも治まったのではありませんか?」
「ああ、おかげさまでな。……最高の薬だったよ」
彼女は満足げに頷くと、東の空――川崎の方角へ視線を流した。
「力でねじ伏せるのも強さですが……品格を持って制するのもまた、王者の務めです。……いつか、タイフウさんが自分で気付けばいいのですが」
そう言って笑う彼女は、どこまでも頼もしいチームの長女だった。
ダートの暴君と、芝の王者。
対照的な二人が、春の輪郭を塗り替えていく。
(幕間)
◆桜の下の秘密
大阪杯の激闘から数日後。
俺とオペラローリンは、トレセン学園の裏山にある、人目に付かない桜の古木の下にいた。
今日は久しぶりの完全オフ。そして、彼女からの「請求書」を支払う日でもある。
頭上には満開の桜。
地面にはレジャーシート。
そして、俺の膝の上には――。
「……ふふ。いい眺めです」
オペラローリンが、俺の膝を枕にして横たわっていた。
いわゆる、膝枕だ。
彼女は上機嫌で、俺の顔と桜の花を交互に見上げている。
「……おい、ローリン。こんなところを誰かに見られたらどうするんだ。一応、お前は今をときめくGⅠウマ娘なんだぞ」
「構いませんよ。ここは誰も来ない秘密の場所ですし……それに」
彼女は少しだけ体を起こし、悪戯っぽく俺の頬をつついた。
「約束したはずです。『勝って戻ってきたら、思いっきり甘やかしてください』って。まさか、忘れた、なんて言いませんよね?」
「……はいはい。分かってますよ、姫さま」
中山記念の前、そしてチューリップ賞の後の電話。
彼女はずっと、この時を楽しみにしていたのだ。
俺は観念して、彼女のサラサラとした真珠色の髪をそっと撫でた。
「……ん……」
ローリンが気持ちよさそうに目を細める。
レース中の、あの勝つか負けるかのアスリートとしての顔はどこにもない。
ここにあるのは、パートナーに身を委ねる、年相応の少女の顔だけだ。
「……あすかさん。私、頑張りましたよ」
「ああ、知ってる。中山記念の逃げ切りも、大阪杯も。……見惚れるほど綺麗だった」
「ええ。……貴方に褒めていただきたくて、必死に走りました」
彼女は俺の手を自分の頬に押し当て、愛おしそうに呟く。
「だから……今はもう少しだけ、このままでいさせてください。次の戦いが始まるまで、貴方の隣だけは、私が独占させていただきますから」
舞い散る薄紅色の花びらが、彼女の髪や肩に降り注ぐ。
俺は何も言わず、ただ彼女の髪を梳き続けた。
柔らかな春風と、甘い沈黙。
それは、最強を目指して走り続ける彼女にとって、何よりのご褒美だったのかもしれない。
しばらくして。
彼女はお重に入った手作り弁当(由衣さん監修・ローリン作)を広げながら、ふわりと笑った。
「さあ、お腹も空きましたし……今度は『あーん』をして差し上げましょうか?」
「……それは俺へのご褒美か?」
「ふふ、両方です」
桜の木の下、二人だけの穏やかな午後は、もう少しだけ続きそうだった。