1973年、4月2週日曜日。
満開の桜が咲き誇る阪神レース場は、華やかな熱気に包まれていた。
ウマ娘にとって一生に一度の晴れ舞台、桜花賞。
パドックに現れたナスノチグサは、息を呑むほど美しかった。
身に纏うのは、今日のために仕立てられた勝負服。
純白の生地をベースに、ナスノ家の象徴である鮮やかな桃色がドレスの裾やラインにあしらわれている。
それは、可憐な令嬢であると同時に、名家の誇りを背負う戦士の装いだった。
桜の下でさえ、彼女の白は負けていなかった。
「……姉様、来ていますね」
チグサが眼鏡の位置を直しつつ、スタンドの一角を見上げる。
そこには、穏やかな笑顔でチグサに手を振る姉――ナスノカオリの姿があった。
◆
レース直前、俺たちは究極の選択を迫られていた。
チグサの枠順は、最内枠の1番。
「どうする、チグサ。1番枠だ。最短距離を走れる利点を活かして、前でレースをするか?」
「……いえ。今回のメンバー構成、逃げ・先行を主張するウマ娘が多すぎます」
チグサは冷静に出走表を分析する。
レデースポートやクリノナミなど、前に行きたいライバルが多い。
「スタート直後、激しいハナの奪い合い……ハイペースになる可能性が高いです。そこに巻き込まれれば、スタミナは削られます」
「だよな。……なら、腹を括ろう。前走と同じく、後方待機だ。ハイペースで前が潰れるのを待つ」
俺たちは展開待ちの作戦を選んだ。
だが、この判断が裏目に出ることを、俺たちはまだ知らなかった。
◆桜花賞(GⅠ・阪神 芝 1600m 右 曇 良)
ファンファーレが鳴り、ゲートが開く。
チグサは作戦通り、スタートを抑えて後方へと下がった。
ここまではいい。問題は前の争いだ。
俺は双眼鏡で先頭集団を追った。……が。
「……おい、嘘だろ?」
競り合いが起きない。
ハナを切ったのはクリノナミただ一人。他の先行勢は互いに牽制し合い、誰も鈴をつけに行こうとしないのだ。
1000m通過タイムを見る。……遅い。
完全にスローペースだ。
「まずい……!」
俺は血の気が引くのを感じた。
スローペースになれば、前を行くウマ娘たちはスタミナを温存できる。
最後の直線、彼女たちは万全の余力でスパートしてくるだろう。そうなれば、後方にいるチグサがどれだけ速い脚を使っても、物理的に届かない。
「作戦ミスだ……くそっ!」
俺が顔面蒼白になった、その時だった。
ターフの上のチグサは、焦ってはいなかった。
肌で感じる風、周りの息遣いから、彼女は瞬時にペースの遅さを検知していた。
(……想定よりも数値が低い。このままでは届かない)
彼女の脳内で、瞬時に計算式が書き換えられる。
待っていては負ける。なら、どうする?
――自分から動くしかない。
第3コーナーから第4コーナー。
まだ誰も動かないそのタイミングで、チグサが動いた。
外へ持ち出し、ロングスパートを開始する。
(変数を修正。スパート開始地点を前倒し)
桃色のドレスを翻し、彼女は加速した。
第4コーナーを回る頃には、ごぼう抜きで好位に取り付く。
そして直線。
残り200m。
粘るクリノナミや、追いすがるハートトウショウを、次元の違うスピードでかわし去る。
速い。あまりにも早すぎる先頭奪取。
だが、彼女の脚は止まらない。むしろ、そこからさらに突き放していく。
終わってみれば、後続に影すら踏ませない独走劇。
2着ハートトウショウにつけた差は、なんと6バ身。
タイムは1分36秒1。
◆姉への回答
圧倒的な勝利。
ウイニングランから戻ってきたチグサに、俺は駆け寄った。
「よくやってくれたな、チグサ……! あの展開で勝つなんて、肝が冷えたぞ」
「ふふ。……トレーナー、顔が青いですよ?」
彼女は涼しい顔で、乱れた前髪を直した。
「ペースが落ちるという変数も、頭の片隅には入れていましたから。……それに」
彼女はふと真面目な顔になり、再びスタンドを見上げた。
そこには、拍手をしながらこちらを見つめるナスノカオリの姿がある。
「姉様の前で、みっともないレースはできませんもの。……『計算外でした』なんて言い訳、ナスノの名折れですから」
彼女は姉に向かって、優雅にスカートの裾を摘んで一礼した。
視線が交差する。
言葉はなくとも、伝わったはずだ。
桜の女王の誕生。
それは、次なる舞台、ナスノカオリが果たせなかった樫の女王に挑戦することを告げる、華麗なる狼煙だった。
2着のハートトウショウは、1971年スタートのウイポプレイヤーならお世話になったこともあるであろう、アポロゲーリックの70です。