1973年、4月3週日曜日。中山レース場。
この日、会場はこれまでにない異常な熱気に包まれていた。
観客動員数はレコードを更新し、スタンドは立錐の余地もない。
俺たちチーム・ルミナスの面々は、安全を考慮してトレーナー室からテレビ中継を介し観戦することにした。
「……すごい人ですね。地鳴りがここまで聞こえてくるみたいです」
テレビから聞こえる大歓声に、ローリンが感嘆の声を漏らす。
部屋には、大阪杯を制したローリン、川崎記念を制したタイフウ、桜の女王のチグサ、そして高松宮記念を勝ったグリーンと、豪華なメンバーが揃っている。
「当然だろ。大井の怪物チャンが、いよいよクラシック一冠目を獲るんだ。……へっ、中央のエリートどもがビビって震えてやがるぜ」
タイフウは腕を組み、ニヤリと笑った。
一方、ソファで雑誌をめくっていたグリーンは、大きなあくびをした。
「ふあ……。アタシ、あの子のコトよく知らないしぃ。そんなに速いの?」
「まあ見ておけ。……常識が通じない相手だ」
俺が答えると同時に、ファンファーレが鳴り響いた。
◆皐月賞(GⅠ・中山 芝 2000m 右 晴 良)
ゲートが開く。
ハイセイコーは、弥生賞のような後方待機策は取らなかった。
好スタートから、強引に前へ出る。
逃げウマ娘を先に行かせ、自らは3番手の好位を確保。
「……先行策ですか」
ローリンが目を細めた。
「位置取りは私と同じ好位……ですけど、走りの質が違いますね。優雅さのない、地面を叩き割るような荒々しいフットワーク。……あれが、地方の強さですか」
「おうよ! 泥臭くて最高だろ?」
タイフウが膝を叩いて喜ぶ。
第3コーナーから第4コーナー。ハイセイコーが早くも動く。
早すぎるスパート。だが、誰も彼女を止められない。
直線を向くと、そこは独壇場だった。
ハイセイコーが加速するたびに、後続が千切れていく。
「――来ましたわ」
チグサが冷静に指摘する。
集団を割り、猛烈な末脚で追い込んできたのは1番人気・タケホープだ。
素晴らしい切れ味。普通なら勝ちパターンだ。
だが。
「遅ぇよ! 怪物チャンはもうゴールしちまうぞ!」
タイフウの叫び通りだった。
タケホープが懸命に追うが、ハイセイコーの背中は遥か彼方。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、タイムは2分00秒0。
そして2着タケホープにつけた着差は、なんと9バ身。
完勝、圧勝、蹂躙。
怪物が中山のターフを焦土に変えた。
「……ふむ。わたくしとハイセイコーさんの距離適性とローテを考えれば、初対決は順調にいけば有マ記念でしょうか」
チグサが眼鏡の奥で、静かに打倒・ハイセイコーの計算式を組み立て始めていた。
◆元アイドルの本領
レースが終わっても、歓声は鳴り止まない。
それどころか、場内の照明が落ち、コース中央にスポットライトが当てられた。
ざわめく観客たちの前に、急ごしらえのステージセットが運ばれてくる。
「……え? 何あれ」
それまで興味なさげだったグリーンが、身を乗り出した。
ステージに立ったのは、泥だらけの勝負服を着たハイセイコー。
音楽が流れ出す。
彼女はマイクを握り、大観衆に向けて歌い、踊り始めたのだ。
「う、歌ってる……!? ウマ娘が!?」
俺たちが呆然としていると、由衣さんが資料を見ながら解説してくれた。
「……どうやらURAが、ハイセイコーさんの経歴に着目して、試験的に導入したようです。『ウイニングライブ』……勝者がファンに歌と踊りを捧げる、新しい試みですね」
「経歴?」
「はい。実は彼女、トレセン学園に来る前は数年間、プロのアイドルとして活動していたそうなんです」
「はあ!?」
俺とタイフウの声が重なった。
テレビの中のハイセイコーは、激走の後とは思えないほどのキレのあるダンスと、安定した歌声を披露している。
ファンへのレスも完璧だ。それは付け焼き刃ではない、紛れもないプロのステージだった。
「アイドルとデビューして駿遠活動した後に、レース界へ電撃転身し、怪物の走りを見せたかと思えば、今度はアイドルとしてステージに戻ってくる……。規格外ですね」
由衣さんの言葉に、俺は言葉を失った。
ただのギャンブルの対象だったウマ娘が、夢を見せるスターへと進化した瞬間だった。
「……ウソ」
グリーンの瞳が、キラキラと輝き始めた。
彼女は食い入るようにモニターを見つめ、震える声で言った。
「なにあれ……すっごい歓声。みんな、あの子だけを見てる……」
「グリーン?」
「あすかさん! アタシもあれやりたい!」
彼女は俺の腕をガシッと掴み、興奮気味にまくし立てた。
「走って勝って、そのあとにライブで主役になれるなんて……最高じゃん! アタシのためのシステムでしょこれ!」
第一次レースブームの到来。
それは同時に、ウマ娘たちが新たな輝き方を見つけた瞬間でもあった。
1973年、春。
怪物の独唱が、時代の扉をこじ開けた。