1973年、5月3週日曜日。
ハイセイコーの皐月賞制覇が巻き起こした「第一次レースブーム」は、留まるところを知らなかった。
この日のレース場も、GⅠとはいえ、例年では考えられないほどの観客で埋め尽くされていた。その多くが、最近競バを知ったばかりの新しいファンたちだ。
春のマイル女王決定戦。パドックで周回するキョウエイグリーンは、熱気に満ちたスタンドを見上げてニヤリと笑った。
「すっごい人! ねえあすかさん、あの中の何割が『ウマ娘=ハイセイコー』だと思ってるのかな?」
「さあな。半分以上はそうかもしれない」
俺が答えると、彼女はビシッと新緑色をベースにした勝負服の襟を正した。
「じゃあ、教えてあげなきゃね。この世界には怪物チャンだけじゃなくて、『新緑の女王様』もいるんだぞーって!」
モチベーションは最高潮。だが、相手も揃っている。
出走表を見ると、逃げ・先行を得意とする実力派のウマ娘たちがひしめいていた。
「グリーン。今回は強力な逃げウマ娘が多い。生半可な策じゃ、巻き込まれて潰されるぞ」
俺が懸念を伝えると、彼女はアハハと笑い飛ばした。
「えー? じゃあ控える? つまんないなぁ」
「いや」
俺は彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「お前、高松宮記念のあとに言ったよな。『今年のスプリントとマイルは独占する』って」
「うん、言った!」
「だったら、小細工はなしだ。逃げたい奴らには逃げさせてやれ。その上で、全部置き去りにして主役を取ってこい。……正面から受けて立って、勝ってこい」
それは、絶対的な自信がなければできない指示だった。
グリーンは一瞬きょとんとして、次の瞬間、最高に嬉しそうな笑顔を弾けさせた。
「りょーかい! やっぱあすかさんは話が分かるね! 行ってくる!」
◆ヴィクトリアマイル(GⅠ・東京 芝 1600m 左 晴 良)
ファンファーレが鳴り響く。
いつもよりも大きな歓声の中、ゲートが開いた。
予想通り、スタート直後から激しいハナ争いが繰り広げられる。
だが、グリーンは一歩も引かない。
逃げ集団の一番前を無理矢理奪う。
第3コーナーから第4コーナー。
激流のようなペースに、先行していたウマ娘たちの脚色が鈍り始める。
苦悶の表情を浮かべるライバルたちを尻目に、グリーンだけが涼しい顔で、ターフを蹴っていた。
直線。
逃げ集団の中で生き残ったのは、グリーンただ一人だった。
先頭のまま、彼女はギアを一段階上げた。
後方で脚を溜めていたウマ娘たちが猛追してくる。
だが、届かない。
グリーンは、追いすがる影すらも音速の彼方へ置き去りにしていく。
終わってみれば、誰も寄せ付けない9バ身。
ブームに沸く新参のファンたちに、本物の強さをまざまざと見せつけるレースだった。
◆おあずけのステージ
ウイニングランを終え、大歓声の中で戻ってきたグリーン。
彼女は息を弾ませながら、期待に満ちたキラキラした瞳で周囲を見回した。
「ねえねえ、あすかさん! ステージは!? ウイニングライブはどこ!?」
彼女の頭の中は、あの皐月賞の熱狂的な光景でいっぱいだった。
俺は申し訳なさそうに、彼女の肩に手を置いた。
「……悪い、グリーン。今日はライブはないんだ」
「えっ!? なんで!? アタシ勝ったのに! すごいタイムで圧勝したのに!」
「あれはまだ、ハイセイコー人気に便乗した試験的な試みなんだ。全レースで導入されるかどうかは、まだ決まってない」
俺の説明を聞いて、グリーンは頬を膨らませてブー垂れた。
「えーっ! ずるい! アタシだって歌って踊りたい! みんなにチヤホヤされたい!」
「ははは。まあ、そう腐るな。今日のお前の走りを見れば、ファンもURAも放っておかないさ。……ブームの主役は、一人だけじゃないってな」
俺がなだめると、彼女は「むー」と唸りながらも、すぐにニシシと笑った。
「ま、いっか! アタシの強さは見せつけられたし! ……次は絶対、ステージ用意させてよね!」
強欲で天真爛漫な女王様は、次の目標を見据えて、再びファンの歓声に応えに向かった。