1973年、5月4週日曜日。東京レース場。
新緑の府中は、オークスを一目見ようとする人波で、呼吸が詰まるほどだった。
クラシック級ティアラ路線の頂点を決める一戦。距離は、桜花賞から一気に800m伸びて2400mとなる。
パドックでは、「ナスノチグサにこの距離は長いのではないか?」という囁きも聞こえていた。
だが、俺とチグサの間に迷いはなかった。
「……世間は好き勝手言いますわね。わたくしのデビュー戦が2000mだったことをお忘れのようです」
チグサは眼鏡のブリッジを押し上げ、冷静に言った。
「ああ。お前のスタミナなら、2400mは守備範囲だ。問題は……」
俺は出走表を指差した。
レデースポートやハートトウショウなど、先行したい有力ウマ娘が多い。
「逃げ・先行が多数。前の方は団子状態でごちゃつくぞ。長い府中の直線、下手に集団に包まれたら終わりだ」
「同感です。不確定要素を避けるため……今回もわたくしの指定席は『最後方』でよろしいですね?」
「ああ。道中は死んだふりをして、第4コーナーで大外へ持ち出せ。距離ロスがあろうと、お前の末脚なら直線だけで帳尻を合わせられる。」
「了解しました。……計算通りに、二冠目を頂きます」
彼女は静かに頷き、1番人気の重圧を微塵も感じさせない足取りでコースへ向かった。
◆オークス(GⅠ・東京 芝 2400m 左 晴 良)
ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。
予想通り、前方は激しいポジション争いとなった。
先団・中団がひしめき合い、互いに牽制し合う息苦しい展開。
その喧騒から離れた最後方に、ポツンとナスノチグサがいた。
彼女は泰然自若としていた。
2400mという長丁場。無駄な動きは命取りになる。
第3コーナーを過ぎ、大ケヤキの向こう側へ。
集団が凝縮していく中、チグサはゆっくりと外へ進路を取った。
第4コーナーを回り、東京名物の長い直線が目の前に広がる。
チグサの位置はまだ後方。大外を回した分、先頭との差はある。
だが、彼女の計算機は正常に作動していた。
(残り400m。……スタミナ、問題なし。ここからなら、間に合います)
彼女が末脚を爆発させると、桃色の勝負服が風になった。
先行して粘るハートトウショウや、内から伸びるニットウチドリを、外から一気にまくり上げる。
残り200m。
坂を登りきったところで、チグサは先頭に立った。
そこからは独走だった。
追ってくる者はいない。ただ、歓声だけが彼女を追いかけてくる。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、タイムは2分27秒3。
2着ハートトウショウに4バ身差をつける圧勝だった。
◆姉と妹の呼び名
二冠達成。
ウイニングランを終え、検量室前に戻ってきたチグサの元へ、一人の女性が駆け寄ってきた。
儚げな美しさを纏った、2年前の桜の女王。姉のナスノカオリだ。
「おめでとう、風星ちゃん!」
ナスノカオリは満面の笑みで、妹を抱きしめた。
その瞬間、いつもクールな彼女の表情が崩れ落ちた。
「ね、姉様っ!? 人前でその呼び方は止めてくださいと、あれほど……!」
おそらく家の中でだけ呼ばれてきた、幼い頃の名なのだろう。
チグサの顔が、勝負服の桃色よりも赤く染まる。
「あら、いいじゃない。貴女は私たちの誇り高い『星』になったんですもの」
ナスノカオリは悪びれる様子もなく、愛おしそうに妹の頭を撫でた。
現役時代、そのデリケートな体質ゆえに多くの苦難を乗り越えてきた姉。そんな彼女にとって、妹の頑健さと強さは、何よりの希望なのだ。
「うぅ……。姉様には敵いませんわ……」
「ふふっ。……本当におめでとう、チグサ」
「……はい。ありがとうございます、姉様」
照れ隠しで少し怒ったふりをしながらも、チグサは姉の手を握り返した。
論理と計算で武装した妹が、唯一計算外の表情を見せる瞬間。
春の陽だまりのような姉妹の姿を、俺は少し離れた場所から温かく見守っていた。