ウマ娘競バ史   作:geko

87 / 89
第87話:樫の完全証明 ※オークス

 1973年、5月4週日曜日。東京レース場。

 新緑の府中は、オークスを一目見ようとする人波で、呼吸が詰まるほどだった。

 クラシック級ティアラ路線の頂点を決める一戦。距離は、桜花賞から一気に800m伸びて2400mとなる。

 

 パドックでは、「ナスノチグサにこの距離は長いのではないか?」という囁きも聞こえていた。

 だが、俺とチグサの間に迷いはなかった。

 

「……世間は好き勝手言いますわね。わたくしのデビュー戦が2000mだったことをお忘れのようです」

 

 チグサは眼鏡のブリッジを押し上げ、冷静に言った。

 

「ああ。お前のスタミナなら、2400mは守備範囲だ。問題は……」

 

 俺は出走表を指差した。

 レデースポートやハートトウショウなど、先行したい有力ウマ娘が多い。

 

「逃げ・先行が多数。前の方は団子状態でごちゃつくぞ。長い府中の直線、下手に集団に包まれたら終わりだ」

 

「同感です。不確定要素を避けるため……今回もわたくしの指定席は『最後方』でよろしいですね?」

 

「ああ。道中は死んだふりをして、第4コーナーで大外へ持ち出せ。距離ロスがあろうと、お前の末脚なら直線だけで帳尻を合わせられる。」

 

「了解しました。……計算通りに、二冠目を頂きます」

 

 彼女は静かに頷き、1番人気の重圧を微塵も感じさせない足取りでコースへ向かった。

 

◆オークス(GⅠ・東京 芝 2400m 左 晴 良)

 

 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

 

 予想通り、前方は激しいポジション争いとなった。

 先団・中団がひしめき合い、互いに牽制し合う息苦しい展開。

 その喧騒から離れた最後方に、ポツンとナスノチグサがいた。

 

 彼女は泰然自若としていた。

 2400mという長丁場。無駄な動きは命取りになる。

 第3コーナーを過ぎ、大ケヤキの向こう側へ。

 集団が凝縮していく中、チグサはゆっくりと外へ進路を取った。

 

 第4コーナーを回り、東京名物の長い直線が目の前に広がる。

 チグサの位置はまだ後方。大外を回した分、先頭との差はある。

 だが、彼女の計算機は正常に作動していた。

 

(残り400m。……スタミナ、問題なし。ここからなら、間に合います)

 

 彼女が末脚を爆発させると、桃色の勝負服が風になった。

 先行して粘るハートトウショウや、内から伸びるニットウチドリを、外から一気にまくり上げる。

 

 残り200m。

 坂を登りきったところで、チグサは先頭に立った。

 そこからは独走だった。

 追ってくる者はいない。ただ、歓声だけが彼女を追いかけてくる。

 

 ゴール板を駆け抜けた瞬間、タイムは2分27秒3。

 2着ハートトウショウに4バ身差をつける圧勝だった。

 

◆姉と妹の呼び名

 

 二冠達成。

 ウイニングランを終え、検量室前に戻ってきたチグサの元へ、一人の女性が駆け寄ってきた。

 儚げな美しさを纏った、2年前の桜の女王。姉のナスノカオリだ。

 

「おめでとう、風星ちゃん!」

 

 ナスノカオリは満面の笑みで、妹を抱きしめた。

 その瞬間、いつもクールな彼女の表情が崩れ落ちた。

 

「ね、姉様っ!? 人前でその呼び方は止めてくださいと、あれほど……!」

 

 おそらく家の中でだけ呼ばれてきた、幼い頃の名なのだろう。

 チグサの顔が、勝負服の桃色よりも赤く染まる。

 

「あら、いいじゃない。貴女は私たちの誇り高い『星』になったんですもの」

 

 ナスノカオリは悪びれる様子もなく、愛おしそうに妹の頭を撫でた。

 現役時代、そのデリケートな体質ゆえに多くの苦難を乗り越えてきた姉。そんな彼女にとって、妹の頑健さと強さは、何よりの希望なのだ。

 

「うぅ……。姉様には敵いませんわ……」

 

「ふふっ。……本当におめでとう、チグサ」

 

「……はい。ありがとうございます、姉様」

 

 照れ隠しで少し怒ったふりをしながらも、チグサは姉の手を握り返した。

 論理と計算で武装した妹が、唯一計算外の表情を見せる瞬間。

 春の陽だまりのような姉妹の姿を、俺は少し離れた場所から温かく見守っていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。