1973年、5月5週日曜日。東京レース場。
日本ダービー。
その熱狂の渦中に、俺たちチーム・ルミナスの姿があった。
「あー! やっぱ生は違うね! この空気、最高!」
関係者席の最前列で、キョウエイグリーンがはしゃいでいる。
実はこれ、彼女がヴィクトリアマイルの勝利後に突きつけてきた「ご褒美の権利」を行使したものだ。
この異常な混雑の中、全員分の関係者席を確保するのは至難の業だったが……。
「……叔父様に感謝ですね。無理を言って申し訳なかったのですが、『あのおてんば娘が、またわがままを言ったのか』と、呆れながらも手配してくれました」
由衣さんが苦笑しながら言った。
彼女の叔父――黒田剛志トレーナー。
かつて自身のチーム方針とグリーンの相性の悪さを案じ、頭を下げてグリーンと由衣さんを俺に託してくれた恩人だ。
厳格な彼だが、手放した後もこうしてグリーンのことを気にかけてくれているのだと思うと、胸が熱くなる。
グリーンが身を乗り出して尋ねる。
「ねえねえ、今日もやるんだよね? ウイニングライブ!」
彼女の目当ては、完全にそっちだった。だが、由衣さんは申し訳なさそうに資料を取り出した。
「それなんですが……昨日、運営から告知がありました。『勝者がハイセイコーさん以外の場合、ライブは行われない』そうです」
「ええーっ!? なんでよ! ケチ!」
「あのアポなしライブは、アイドルだったハイセイコーさんだからこそ成立したパフォーマンスです。歌やダンスの訓練を受けていない他のウマ娘さんには、物理的に不可能……という判断ですね」
由衣さんの説明に、グリーンは頬を膨らませてブー垂れた。
だが、俺はふと思ったことを口にした。
「……逆に言えば、これからは『それ』も求められる時代になるってことか」
「あすかさん?」
「ハイセイコーが新しい可能性を示したんだ。ファンがそれを望むなら、今後は学園のトレーニングに『ダンス』や『歌』が導入されるかもしれないな」
その言葉に、グリーンの表情がパッと明るくなった。
「マジ!? じゃあアタシ、最先端行ってるじゃん! ダンスの練習しとこ!」
「けっ。あたしは走れりゃそれでいいけどな」
タイフウが呆れたように鼻を鳴らす。
「ふふ。応援してくださった方のために何かお返しができるのであれば、私はそれでも良いと思います」
「……ダンスの練習は、空間把握能力の向上には役立つかもしれませんね」
ローリンとチグサは、満更でもなさそうだ。
◆日本ダービー(GⅠ・東京 芝 2400m 左 晴 良)
そんな会話をしているうちに、ファンファーレが鳴り響いた。
圧倒的1番人気はハイセイコー。
だが、枠順は不運な8枠17番。
スタート直後から、その影響がモロに出た。
「……内に入れないですね」
ローリンが呟く。
外枠のハイセイコーは、内のウマ娘たちに壁を作られ、コースの最外周を回らされ続けている。距離ロスが激しい。
そして、その背後には。
「……マークされています。あの赤と黄の勝負服……タケホープさんですね」
チグサが目を細めた。
皐月賞で9バ身ちぎられたはずのタケホープが、今日は不気味なほど冷静に、ハイセイコーの直後、死角に張り付いている。
第4コーナーから直線へ。
距離ロスを承知で、ハイセイコーが早めにスパートをかける。
「いけぇっ! 怪物チャン!」
グリーンの声援が飛ぶ。
ハイセイコーが先頭に立つ。観客のボルテージが最高潮に達した、その瞬間だった。
影の中から、刃物が抜かれたような切れ味。
ハイセイコーを風除けにしていたタケホープが、外から一気に襲いかかったのだ。
ハイセイコーが粘ろうとする。
だが、ずっと外を回らされた疲労と、完璧なマーク屋の末脚の差は歴然だった。
かわされた。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、タイムは2分27秒3。
勝ったのはタケホープ。
ハイセイコーは必死に粘ったものの、3バ身差をつけられての2着に敗れた。
◆ライブなき午後
レースが決着した瞬間、東京レース場を包んだのは、歓声ではなく「悲鳴」と「静寂」だった。
怪物が負けた。
その事実を飲み込めない観衆は、勝者であるタケホープに拍手を送ることさえ忘れていた。
タケホープが掲げた手に応える声は、あまりにまばらだ。
「……ひどい空気だ」
俺はスタンドを見渡して呟いた。
勝ったのに、まるで悪役のような扱い。
それどころか、あちこちから露骨な不満の声が漏れ聞こえてきた。
「あーあ、負けちまったよ」
「ライブなしかよ、しらけるなあ」
「なんだよタケホープって……空気読めよな。帰ろうぜ」
勝者を称えるのではなく、「ショーが見られなかったこと」への不満。
その身勝手な熱狂の冷め方を目の当たりにして、グリーンからさっきまでの笑顔が消えた。
「……残酷だね。勝った子が報われないなんて、ズルいよ」
彼女はポツリと呟いた。その瞳には、真剣な色が宿っていた。
「お客さんは『強いウマ娘』が見たかったんじゃない。『勝って歌うアイドル』が見たかっただけなんだ……。勝った子が、あんなに無視されるなんて」
「……悔しいか、グリーン」
「うん。なんか……すごく嫌だ」
彼女は唇を噛み締め、静まり返るスタンドを睨みつけた。
勝者が称えられない世界なんて、間違っている。
そんな彼女の純粋な怒りを受け止め、俺は彼女の肩に手を置いた。
「なら、お前が変えてやれ。勝つだけの強さと、誰も無視できない輝き。その両方を持ったウマ娘に……お前がなるんだ」
「あすかさん……」
「実力でねじ伏せて、その上で全員を熱狂させる。……これからの時代を作るのは、きっとそういうウマ娘だ」
喝采なき勝者と、去っていく観客の背中を見下ろしながら。
チーム・ルミナスは、来たるべき新しい時代に向けて、静かに闘志を燃やしていた。