1971年、3月4週。
阪神レース場の空は低く垂れ込めた雲に覆われ、湿った風がターフの芝を鈍く揺らしている。
皐月賞への最終関門、若葉ステークス。
コンディションは稍重(ややおも)。だが、不安はない。あの雨の芝を踏んだ今の彼女の足なら、今日は“敵”が少ない。
ゲート裏。冬の名残を孕んだ風が、真珠色の前髪を乱暴に煽る。
俺は検量室近くのモニターに視線を固定し、時折だけ遠く霞むゲートへ目をやった。
オペラローリン。
画面越しでも、彼女の重心がすでに“掴む”形に入っているのが分かる。
俺が彼女に授けた作戦は、京成杯の再現だった。先団に入り、他人の背中を風除けにして、最後の直線まで脚を温存する。
◆若葉ステークス(L・阪神芝2000m)
だが、ゲートが弾けた瞬間、俺たちの計算は若さという荒波に飲み込まれた。
内のウマ娘たちが激しくぶつかり合い、ポジションを奪い合う。
バ群に入り込もうとしたローリンの細い肩が、他者の圧力に弾き飛ばされるのが見えた。
音は聞こえない。だが、バランスを崩したその動きから、鈍い衝撃が脳裏に響く。
(……まずいな)
彼女は集団に潜り込むどころか、濁流のようなうねりから大きく外側へと押し出されてしまった。
大外。遮るものなど何一つない、孤独な航路。
正面からまともに受ける、湿った風。脚元は稍重――踏み込むたびに、芝が吸い付く。
俺の心臓が嫌な音を立てる。精神的に脆い彼女が、この不測のノイズにパニックを起こして自滅するのではないか。
だが目を凝らした俺の視界に、意外な真実が映った。
大外を一人、泥を跳ね上げて走るローリンの重心は、驚くほど安定している。
足の裏全体で、滑る地面を鷲掴みにしているのだ。
泥を敵にするな。地面を掴め――あの時、俺が言った言葉が、彼女の芯に残っている。 雨の特訓で掴んだ感覚が、この阪神の泥濘の中で、彼女の身体を支えていた。
(……いいぞ、ローリン。そのまま行け!)
そうか。誰かの陰に隠れることだけが正解じゃない。
今の彼女には、自分の速度で、自分の呼吸で走るための「広さ」が必要だったのだ。
◆阪神の急坂、突き抜ける真珠色
第4コーナー。
大外を回り、スピードに乗った真珠色の影が、爆発的な勢いで集団の横を捲り上がっていく。
泥を裂いて伸びる、白い閃光みたいに。
「……行け! ローリン!」
俺の叫びを置き去りにして、最後の直線が開ける。
そこから先に、阪神名物の急坂が立ちはだかる。
中山のような断崖じゃない。けれど、脚が尽きかけた瞬間に、容赦なく心を折りにくる坂だ。
だが、あの泥を噛んで登り切った彼女は、そこで止まらない。
内側でもがき、足を取られて失速していくライバルたち。
それを尻目に、大外から一気に突き抜ける真珠色の翼。
――雲の切れ間から、一筋の光が射した。
濡れたターフが、陽光を浴びてキラキラと輝き出す。
その光る海の上を、彼女は誰よりも速く駆け抜けていった。
時計が、思ったより速い。――そういう走り方だった。
2分3秒3。
掲示板の一番上に、彼女の名が躍り出た。
ゴールを駆け抜けた彼女は、もはや怯えて縮こまるローリンじゃなかった。
◆二人だけの、新しい季節
検量室前。
白い息を上げ、肩で激しく呼吸する彼女の元へ、俺は転がるように駆け寄った。
泥だらけの体操服に、乱れた真珠色の髪。
けれど、俺の姿を見つけた彼女の瞳には、かつて見たこともないような、澄み渡った誇らしさが宿っている。
「……トレーナー、さん」
いつものように右袖へ伸びた指が、途中で止まる。
宙を彷徨った指先が、次の瞬間――俺の胸元を掴んだ。
心臓に近い場所を、確かめるように。
「……勝った。私、本当に……勝ったんだ」
「ああ。最高だったよ、ローリン」
俺がそう言うと、彼女は顔を上げ、俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。
涙が頬の泥を洗い流し、その真珠色の瞳に小さな勇気が灯る。
そして、彼女は小さく唇を動かした。
「……あすか、さん」
初めて呼ばれた名。
その呼び方だけで、胸の奥が熱くなる。
トレーナーさんじゃない。それは、契約書上の関係を超えた、共犯者としての響きだった。
「……あすかさんが、信じてくれたから。私、もう一度、春が見たくなったんです」
彼女の背後、雲が完全に晴れ渡り、阪神のターフが一面の光に包まれていく。
1971年、春。
若葉ステークス、優勝。
皐月賞への切符をその手に掴み、俺たちの物語は、ついにクラシックという名の、本当の戦場へと足を踏み入れた。