ウマ娘競バ史   作:geko

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第9話:光る海、阪神の直線 ※若葉ステークス

 1971年、3月4週。

 阪神レース場の空は低く垂れ込めた雲に覆われ、湿った風がターフの芝を鈍く揺らしている。

 皐月賞への最終関門、若葉ステークス。

 コンディションは稍重(ややおも)。だが、不安はない。あの雨の芝を踏んだ今の彼女の足なら、今日は“敵”が少ない。

 

 ゲート裏。冬の名残を孕んだ風が、真珠色の前髪を乱暴に煽る。

 俺は検量室近くのモニターに視線を固定し、時折だけ遠く霞むゲートへ目をやった。

 

 オペラローリン。

 画面越しでも、彼女の重心がすでに“掴む”形に入っているのが分かる。

 俺が彼女に授けた作戦は、京成杯の再現だった。先団に入り、他人の背中を風除けにして、最後の直線まで脚を温存する。

 

◆若葉ステークス(L・阪神芝2000m)

 

 だが、ゲートが弾けた瞬間、俺たちの計算は若さという荒波に飲み込まれた。

 

 内のウマ娘たちが激しくぶつかり合い、ポジションを奪い合う。

 バ群に入り込もうとしたローリンの細い肩が、他者の圧力に弾き飛ばされるのが見えた。

 音は聞こえない。だが、バランスを崩したその動きから、鈍い衝撃が脳裏に響く。

 

(……まずいな)

 

 彼女は集団に潜り込むどころか、濁流のようなうねりから大きく外側へと押し出されてしまった。

 大外。遮るものなど何一つない、孤独な航路。

 正面からまともに受ける、湿った風。脚元は稍重――踏み込むたびに、芝が吸い付く。

 

 俺の心臓が嫌な音を立てる。精神的に脆い彼女が、この不測のノイズにパニックを起こして自滅するのではないか。

 だが目を凝らした俺の視界に、意外な真実が映った。

 

 大外を一人、泥を跳ね上げて走るローリンの重心は、驚くほど安定している。

 足の裏全体で、滑る地面を鷲掴みにしているのだ。

 泥を敵にするな。地面を掴め――あの時、俺が言った言葉が、彼女の芯に残っている。  雨の特訓で掴んだ感覚が、この阪神の泥濘の中で、彼女の身体を支えていた。

 

(……いいぞ、ローリン。そのまま行け!)

 

 そうか。誰かの陰に隠れることだけが正解じゃない。

 今の彼女には、自分の速度で、自分の呼吸で走るための「広さ」が必要だったのだ。

 

◆阪神の急坂、突き抜ける真珠色

 

 第4コーナー。

 大外を回り、スピードに乗った真珠色の影が、爆発的な勢いで集団の横を捲り上がっていく。

 泥を裂いて伸びる、白い閃光みたいに。

 

「……行け! ローリン!」

 

 俺の叫びを置き去りにして、最後の直線が開ける。

 そこから先に、阪神名物の急坂が立ちはだかる。

 中山のような断崖じゃない。けれど、脚が尽きかけた瞬間に、容赦なく心を折りにくる坂だ。

 だが、あの泥を噛んで登り切った彼女は、そこで止まらない。

 内側でもがき、足を取られて失速していくライバルたち。

 それを尻目に、大外から一気に突き抜ける真珠色の翼。

 

 ――雲の切れ間から、一筋の光が射した。

 濡れたターフが、陽光を浴びてキラキラと輝き出す。

 その光る海の上を、彼女は誰よりも速く駆け抜けていった。

 

 時計が、思ったより速い。――そういう走り方だった。

 2分3秒3。

 掲示板の一番上に、彼女の名が躍り出た。

 ゴールを駆け抜けた彼女は、もはや怯えて縮こまるローリンじゃなかった。

 

◆二人だけの、新しい季節

 

 検量室前。

 白い息を上げ、肩で激しく呼吸する彼女の元へ、俺は転がるように駆け寄った。

 泥だらけの体操服に、乱れた真珠色の髪。

 けれど、俺の姿を見つけた彼女の瞳には、かつて見たこともないような、澄み渡った誇らしさが宿っている。

 

「……トレーナー、さん」

 

 いつものように右袖へ伸びた指が、途中で止まる。

 宙を彷徨った指先が、次の瞬間――俺の胸元を掴んだ。

 心臓に近い場所を、確かめるように。

 

「……勝った。私、本当に……勝ったんだ」

「ああ。最高だったよ、ローリン」

 

 俺がそう言うと、彼女は顔を上げ、俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 涙が頬の泥を洗い流し、その真珠色の瞳に小さな勇気が灯る。

 そして、彼女は小さく唇を動かした。

 

「……あすか、さん」

 

 初めて呼ばれた名。

 その呼び方だけで、胸の奥が熱くなる。

 トレーナーさんじゃない。それは、契約書上の関係を超えた、共犯者としての響きだった。

 

「……あすかさんが、信じてくれたから。私、もう一度、春が見たくなったんです」

 

 彼女の背後、雲が完全に晴れ渡り、阪神のターフが一面の光に包まれていく。

 

 1971年、春。

 若葉ステークス、優勝。

 皐月賞への切符をその手に掴み、俺たちの物語は、ついにクラシックという名の、本当の戦場へと足を踏み入れた。

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