雨の匂いに、鉄錆が混じっている。
終わった時代の、終わった港町。
俺の親分は、決して多くを語らない。
負け戦でも背を見せず、傷を縫わせても眉一つ動かさない。
俺はその半歩後ろ、鉄の背中を追いかけることだけが、自分の生きる意味だった。
これは、不器用な二人の男の、最期の時間の記録。
誰にも弱みを見せなかった男が、たった一度だけ見せたかもしれない「何か」を、俺は墓場まで持っていく。
ハードボイルド・任侠・主従。
短い生涯をかけて、ひとつの背中を追い続けた男の独白。

※重複掲載先:カクヨム / アルファポリス / エブリスタ / Pixiv / ハーメルン

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第1話

  第一章 雨の港

 

 

 雨の匂いに、鉄錆が混じっとる。

 倉庫の屋根を叩く音がうるさくて、(おい)の耳はずっと鳴りよるごたった。

 

 目の前には、水たまりが広がっとる。そこに油が浮いて、虹色に滲んどった。

 その泥水の中に、城島(じょうじま)の親分が膝をついとる。

 

「終わりですね、アンタの時代も」

 

 声がした。

 若いやつやった。どこの組ん、誰かは知らん。名前なんかどうでもよか。

 そいつは銀色のオートマチックを下げて、肩で息をしとる。着とるスーツは細身で、靴もピカピカばってん、構えが軽い。重心も高か。

 それでも、立っとるのはそいつで、膝をついとるのは親分やった。

 

 親分の右腕が、だらりと垂れとる。

 グレーのスーツの袖口から、どす黒いもんが滴って、アスファルトの染みを広げよった。

 俺は、そこから五メートル離れた場所で、へたりこんどる。動こうとしても、足が鉛のごと重くて動かん。ただ、見るしかできんかった。

 

 親分は、何も言わん。

 ゆっくりと、左手で懐から煙草を取り出した。箱はショートホープ。角が潰れとる。

 一本くわえて、オイルライターを擦った。

 シュボ、という音が雨音に混じる。火はつかんかった。湿気っとるんか、オイルが切れとるんか。

 親分は二度、三度とローラーを回して、それからふうと息を吐いて、ライターと煙草を水たまりに捨てた。

 

「何も言わんとですか」

 

 若いやつが苛立ったように言うた。

 親分は、ゆっくりと顔を上げた。五分刈りの頭に、雨粒が無数についても気にも留めん。右のこめかみの白髪が、濡れて光っとる。

 

「……終わったなら、行け」

 

 親分の声は、低くて、少し嗄れとった。

 若いやつは鼻で笑うた。

「最後まで戦う気はなかとですか。敵に背を向けるとは、焼きが回りましたね」

 

 親分は、濡れたアスファルトに手をついて、立ち上がった。

 右足を引きずっとる。左肩が、いつもより下がって見える。

 それでも、親分は若いやつを見んかった。視線は、もっと遠く、海の方を見とるようやった。

 

「背中を向けるかどうかは、俺が決める」

 

 それだけ言うて、親分は若いやつに背を向けた。

 若いやつが銃口を向けたまま、引き金を引こうとして、やめた。

 親分の背中が、そこにあった。

 濡れて、汚れて、少し丸まったかもしれん。

 それでも、それは壁のごと分厚うして、向こう側の景色を全部隠してしまいそうやった。

 

 負けても、この人は背中だ。

 俺は地べたを這うようにして、その背中を追いかけた。

 

 

  第二章 手当て

 

 

「……灯り、つけろ」

 

 親分の声で、俺は我に返った。

 港近くの古アパートの一室。湿気た畳の匂いがする。

 裸電球の紐を引くと、ジジ、と音がして黄色い光が部屋を埋めた。

 

 親分は上着を脱いで、シャツを破いた。

 右の二の腕に、裂けたような傷がある。肉がめくれて、血が止まらん。

 親分は何も言わずに、救急箱を顎でしゃくった。

 

 俺は洗面器に水を汲んで、消毒液を垂らした。水が白く濁って、独特の匂いが鼻を突く。

 タオルを絞って、傷口を拭う。

 親分の筋肉が、一瞬だけピクリと固まった。

「すんません」

「……構わん」

 

 針と糸を出す。

 裁縫道具の針じゃなか。釣り用のテグスと、太めの縫い針たい。

 針の先をライターで炙る。先が赤く焼けて、また黒く戻る。

 親分は煙草をくわえて、天井を見上げとった。

 

 針を刺す。

 皮膚が硬い。指先に、ブチッ、いう感触が伝わってくる。

 震えそうになる手を、必死で抑えた。

 親分は瞬きひとつせん。ただ、くわえた煙草の灰が、少しだけ早う落ちた気がした。

 呼吸が浅い。

 肋骨が浮き出るたびに、そこにある古傷が歪む。

 

「……親分、痛かですか」

 

 俺が聞くと、親分は横目で俺を見た。

 その目は、深い井戸の底のごと暗うして、何も映しとらん。

 

「早うせえ」

 

 それだけやった。

 痛いとも、やめろとも言わん。

 この人は、説明せん。

 痛みがどこにあるんか、どれくらい辛いんか、俺には分からん。

 ただ、親分の首筋に汗が滲んで、それが一筋、ツーっと流れていくのを見ただけたい。

 

 傷を縫い終わって、ガーゼを当ててテープで固定した。

 親分は新しいシャツに着替えて、また無言で煙草に火をつけた。

 その背中は、さっきよりも少し小さく見えた気がしたばってん、ありゃあ俺の前にある壁たい。

 

 

  第三章 追う背中

 

 

 それから、どれくらいの月日が流れたか。

 俺はずっと、親分の後ろを歩いてきた。

 

 夏のアスファルトは陽炎が立って、靴底が溶けそうなほど熱かった。

 冬の路地裏は風が吹き抜けて、耳が千切れそうに冷たかった。

 それでも、親分の歩く速度は変わらん。

 歩幅は広く、迷いがない。

 

 親分の靴は、いつだってリーガルのプレーントゥやった。

 手入れは俺がしとる。クリームを塗り込んで、布で磨き上げる。

 踵の減り方を見れば、親分がどっちに体重をかけとるか分かる。

 最近は、右の外側がよう減る。

 昔の古傷が痛むんかもしれん。

 でも、親分は何も言わん。

 

 ある時、街の裏通りで揉め事があった。

 相手は十人以上おった。

 親分は懐から白鞘の短刀(ドス)を抜いた。

 鯉口を切る、カチリ、いう硬質な音が、路地に響く。

 俺もドスを抜いた。柄の滑り止めのゴムが、手汗でぬるつく。

 

 親分は振り返らんかった。

「来るな」とも「行け」とも言わん。

 ただ、背中で語りよる。

 ここにおれ、と。

 

 乱闘が終わった後、親分の白いシャツには返り血が点々と散っとった。

 俺はゼイゼイと肩で息をしよったけど、親分は呼吸ひとつ乱しとらんように見えた。

 懐中時計を取り出して、時間を確認する。

 蓋に細かい傷が無数に入った、銀色の時計たい。

 カチ、と蓋を閉める音がして、親分はまた歩き出した。

 

 俺は、親分の半歩後ろを歩く。

 この距離が、俺の居場所やった。

 親分が何を考えとるんか、どこへ行こうとしとるんか、本当のところは分からん。

 分からんまま、俺は追いかける。

 それが俺の忠誠ち思うとった。

 

 親分の背中のシミが、地図に見えることがあった。

 俺がこれから進むべき道が、そこに描かれとるような気がしてならんかった。

 

 

  第四章 役目(つとめ)

 

 

 その日は、日差しが白く眩しかった。

 港の倉庫街に、熱く乾いた風が吹き荒れとった。

 

「親分!」

 

 俺が叫んだのは、反射やった。

 物陰から、黒い影が飛び出してきたのが見えたけん。

 俺は親分の前に体を割り込ませた。

 

 熱い、と思った。

 腹の底に、焼けた鉄柱を突き刺されたような熱さが走った。

 音は聞こえんかった。

 ただ、ドスッという鈍い振動が、骨まで響いた。

 

 俺は膝をついた。

 地面のアスファルトが、急に近くに見える。

 小石のひとつひとつ、コンクリートの割れ目から生えた雑草の緑が、やけにはっきりと見えた。

 

「おい!」

 

 親分の声がした。

 あんなに慌てた声を、俺は初めて聞いた気がする。

 俺の体が、後ろから支えられた。

 親分の腕。

 煙草と、整髪料の匂いがする。

 

 親分の手が、俺の腹を押さえた。

 大きく、分厚い手たい。

 指の関節が太くて、爪は短く切り揃えられとる。

 その指の間から、俺の血が溢れ出しとるのが見えた。

 赤い。とにかく赤い。

 

 親分が何か叫んどる。

 でも、俺の耳には、水の中に潜ったごつ、ぼんやりとしか聞こえんかった。

 親分がハンカチを取り出して、傷口に当てた。

 白い木綿のハンカチが、一瞬で赤く染まる。

 

 親分の手が、止まった。

 いつもなら迷いなく動くその手が、一瞬だけ、行き場を失ったように空中で止まった。

 俺はその時、ああ、こりゃ駄目たいな、と思った。

 身体から熱が逃げていく。

 足先から、氷水に浸かったごと冷えてくる。

 

 この人にも、止まる瞬間があるったい。

 そんなことを、俺はぼんやりと考えとった。

 

 

  第五章 意地

 

 

 親分の顔が、目の前にあった。

 こんなに近い距離で見るのは、初めてかもしれん。

 

 鼻筋にある古傷が、白く浮き上がっとる。

 眉間の皺が深い。

 いつもは冷たい石像のごたる顔が、今は歪んで見えた。

 

「しっかりせえ。今、車が来る」

 

 親分の声が震えよるごつ聞こえたばってん、それは俺の耳がおかしいからかもしれん。

 俺は親分の顔を見つめた。

 視界が狭まっていく。

 黒い縁取りが迫ってくる中で、親分の目だけが見えた。

 

 親分の目が、赤かった。

 充血しとるんか、寝不足なんかもしれん。

 でも、その目の縁に、光るもんが溜まっとるのが見えた。

 水たい。

 ただの水滴かもしれん。汗かもしれん。雨かもしれん。

 でも、空は晴れとるし、風は乾いとる。

 

 その水滴が、今にも落ちそうに揺れとる。

 それを見たら、俺の胸の奥が、傷口よりも熱うなった。

 いかん。

 この人は、背中たい。

 誰にも弱みを見せちゃならん、鉄の背中なんたい。

 俺ごときのために、その鉄が溶けたらいかん。

 

 俺は、最後の力を振り絞って、口を開いた。

 喉が渇いて、張り付いて、音が出らんかと思った。

 そいでん、伝えんばいかん。

 

「親分……」

 

 自分の声が、他人の声のごと遠い。

 

「俺ごときのために……(つら)、濡らしたら、いかん」

 

 言い終わった瞬間、親分の目が大きく見開かれた気がした。

 溜まっとった水がどうなったか、俺にはもう見えんかった。

 視界が真っ暗になった。

 

 最後に感じたのは、頬に落ちた、一滴の熱いしずくの感触だけやった。

 それが何やったとか、俺は知らんことにする。

 俺は、分からんまま終わるったい。

 

 音が消える。

 感覚が消える。

 最後に残ったのは、網膜に焼きついた、あの靴だけやった。

 


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