外来人。幻想郷で、大工をする。――妖怪たちの褻(け)の日の話―― 作:ゴケット
勘定を済ませ、腰を上げると、お赤が怪訝そうに眉を寄せた。
「今日はずいぶん早いじゃないかい」
「明日も早くから仕事でね」
「仕事、ねぇ……」
お赤はどこか含みのある声で言い、ちらりと店主のほうを見る。
店主が顎で「送ってやれ」と合図すると、お赤は肩をすくめた。
「はいはい。じゃ、表までね」
のれんを押し分けて外に出ると、夜風が酒気を冷ましていく。
お赤は腕を組んだまま、店先の灯りの下で立ち止まった。
「……あんた、ほんとに心当たりないのかい。さっきの巫女のこと」
「ないよ」
道具箱の紐を締め直し、背負い直す。
「また、金を落としに来な」
「あんたの軽口が値引きしていたらな」
そう言って歩き出そうとした時だった。
わき道から、橙色の毛が混じった猫が飛び出してくる。
眉を上げて猫を見ると、猫はこちらを一目見たのち、かけ去った。
その背を見たお赤は、蛇に睨まれた小鳥のように青ざめた。
「……っ、あ、あたし戻るわ。店、閉め作業あるし」
言い訳にもならない言葉を残し、お赤はのれんを押し分けて逃げ帰った。
下宿へと戻る道すがら、寺子屋の先生の姿を見かける。
先生は小脇に抱えた籠に、耳掛け紐のついた不織布を詰め込んでいた。
「慧音先生、何だいそりゃ?」
思わず聞いてしまった。
外の世界では少し前にずいぶん世話になった代物だ。
「おお、今剛か。こんばんは」
「こんばんは、先生。で、それは?」
籠の不織布を指さすと、慧音は眉を寄せた。
「最近、里の者たちに風邪が流行っているようでな、大人はともかく、子供と年寄りはな…」
「重症にならないように、それを配っていたところかな」
言葉を引き継ぐと、人にモノを教えよう(説教)としていた慧音が口を尖らせた。
「なぜわかる…」
「なに、少し前に流行ったのさ。そいつが…」
不織布を指さすと、慧音は得心がいったというように頷いた。
「ああ、そういえば。おまえはこちらに来て間もないのだったな」
「おう、きっと喜んでいるよ。元総理は…」
「ん?」
「気にしないでくれ。こっちの話さ」
慧音は何のことかと疑問を顔にしたが、それよりも実利を優先したようだ。
「お前も一つ持っていけ、風邪を流行らせないためにもな」
「でも、それ、大人がつけるには少し小さいだろ?」
「ん、まあそうだな…」
「そいつは子供たちに配って、大人は口と鼻をこう…、手ぬぐいで覆うようにしてもらうといい」
「その方がよさそうだな」
解体作業中のように手ぬぐいで口元を覆って見せると、慧音も納得したようだが…。
(医学的に言うと足りないだろうけど…。何もしないよりましだろ…)
少しばかり後悔の念が顔に出た。
それを慧音は不安と取ったらしい。
なだめるように言ってきた。
「この件については八意達は孤露那(コロナ)と呼んでいてな。ずいぶん協力的だ。すぐに収まるだろう」
「そうあってほしいですね」
(外ではほんとに大変だったからな。それにしても。もう、忘れ去られつつあるのか…)
人の世の移り変わりの速さを噛み締める。
元総理をたたえながら、慧音と別れた。
下宿まで直帰するつもりであったが…。
裏路地から紫色の着物を着た女が手招きをしてくる。
お赤が居酒屋の看板娘なら、女は岡場所の飯盛り女の様子だった。
この裏路地の先は、そういう店が連なっている。
小さな人里と言えど、なくならない場所だ。
碌でもない目に遭いたくなければ、近寄るな――そう言われている。
わき道の暗がりから、紫色の影が、扇子でこちらを招いた。
灯りもないのに、輪郭だけが妙に浮かんで見える。
迷いのない足取りで、俺は奈落の境界へと歩を進める。
女が懐から細長い煙草を取り出した。
なれた仕草で火をつけ、紫煙をくゆらせると、吸い口をこちらへ差し出す。
心得ていたように、吸い付けたばこを受け取り、一度だけ吸って返す。
喉を通る煙は、甘く、重く、境界を曖昧にする。
表通りの喧騒は、たちまち紫煙の中に掻き消える。
面白かった、つまらなかった、正直な気持ちでもちろん大丈夫です。
感想、評価、お気に入り登録を頂けましたら、励みになります。
何卒よろしくお願い申し上げます。