外来人。幻想郷で、大工をする。――妖怪たちの褻(け)の日の話―― 作:ゴケット
人里に続く道。
どこからか、われの身を縛る足拍子が響いてくる。
身を固め、悪しきを拒む――あの反閇の響き。
それにとっては、甘露のような毒。
それは、われがまだ恐れられている証だ。
人里から離れた窪地で、四方をかがり火に囲まれた者が一人、足拍子を刻んでいる。
境界が、わずかに開いた。
それは、自身を見下ろす隙間に気づいていなかった。
顔も肌も膿疱と瘡蓋に覆われ、表情は失われている。
体は熱に歪み、腹を抱えたまま前屈みに歩く。
動くたび、周囲の空気だけが、じっとりと熱を帯びた。
腫れ上がった瞼の奥、半ば閉じた目が、虚ろに男を見上げている。
それは唸り声を上げた。
かつて五畿七道を震撼させたその声も、
今は夜気を震わせる細い羽音を残すばかりだ。
その動きには、歓喜にも似た焦燥があった。
それはふらつくように、しかし迷いなく、窪地へと身を投じる。
男は半裸で肌をさらしていた。
肩まわりの肉は柔らかく、いつでも弾けそうな、静かな張りがある。
踏みしめる足取りごとに、地へ伝わる熱気が増していく。
胸と腹の上下は深く、熱を含んだ落ち着いた呼吸。
汗は、立ち昇る覇気へと変わってゆく。
男は、それを見た。
足拍子とともに走らせていた拳を止める。
「来いよ。名もなき怪物。人間が相手をしてやる」
虎皮の手甲に覆われた拳を握り直す。
その目には、昂りも恐れもなかった。
それが男に飛びかかる。
互いの肉を打つ音は、しばしの時も続かなかった。
拳に、確かな手応え。
(じゃあな、名もなき怪物……また一つ…。終わりだ)
指を折って数えるほどの間を待ったが、それが起き上がることはなかった。
音もなく、その体が崩れ始める。
まるで、元からそこに何もなかったかのように。
口元から漏れた、深く熱い霧は、いともたやすく夜霧に紛れた。
拳を解き、額を拭う。
早くも冷たくなり始めた雫の中に、粘り気のある熱が混じっている。
世界が回り、しりもちをついた。
熱が混じっているのは、額だけではなかった。
夜風に、鉄錆の匂いが混じる。
見上げると、月と、それに浮かぶ影。
紫色の着物の女が立っていた。
女は、それのことを語り出した。
ずいぶん昔から知っていたらしい。
しかし、いくら耳を澄ましても、それはまるで虫の声。
夜霧を震わせるその響きは、別れの宣告か、弔いの情か――
意味は端から崩れていく。
女の頬を伝う声が、止まるまで。
ぶるりと体が震えた。
虫の声も止んでいる。
改めて見上げると、女は口元を扇子で覆っていた。
夜よりも深い瞳が、暗くこちらを見下ろしている。
「……で、そろそろ帰っていいかい。明日も仕事なんだ」
扇子の向こうで、女が三日月のように笑ったのを悟る。
ぼんやりとした頭で瞼を開けると、出迎えたのは鋭い痛みだった。
布団から腕を出す。
利き手は問題なく使える。
服も……着ているな。
(これなら仕事はできるな)
そう思っていると、囲炉裏のそばにいた人物が、銀の髪をなびかせて振り返った。
「お前には、不織布よりも包帯を配るべきだったかな」
顔は笑っているが、声は笑っていない。
説教が長くなりそうだ、と顔を引きつらせながら、助けはないかと左右を見る。
肌寒さと、窓の隙間から差し込む日差しがない。
まだ夜明け前だろう。
あまり大きくはない、小さな小屋のような建物だ。
「どこだ、ここ?」
「妹紅の家だ」
聞き覚えのない名前だった。
「……?」
首をひねっていると、慧音が補足する。
「焼き鳥屋の妹紅。竹林の近くの……」
「ああ、竹屋の護衛か」
「ああ。(大工にとっては)そちらの方が馴染みがあったか」
「聞いたことがあるだけだけどな」
見渡すが、その本人の気配はない。
礼の一つも言っておくべきだろう。
布団から這い出し、慧音に尋ねる。
「その本人は?」
「真夜中に、“お前が倒れている”と連絡を入れに来たかと思ったら……」
そこまで言って、慧音は眉間に皺を寄せた。
「そのまま、“竹林の姫に呼ばれている”と言って、飛んで行ってしまった」
指で額を押さえながら、慧音がぼやく。
「まったく、危ないことはするなと言っているのに……」
(護衛の仕事じゃあ、仕方ないんじゃないか?)
なぜか慧音は、竹林の姫の護衛の仕事を快く思っていないらしい。
(もしかして、元教え子とかかな?)
卒業した教え子を、いつまでも子ども扱いしてしまうタイプなのかもしれない。
(妹紅って名前で女だと思っていたが、小野妹子みたいに男だったりして)
布団を畳みながら、そんなことを思う。
傷の痛みも大したことはない。
仕事に支障はないだろう。
問題は――
説教が長く、怒らせると頭突きが飛んでくる、と噂の慧音が、唇を薄く引き結んでいることだ。
「で、どうして里の外なんて出ていたんだ」
青筋を立てて、慧音が言った。
「いや~、すごい美人の客引きについていったら、そこから先の記憶が……」
曖昧に答える。
慧音は心底心配しているが、同時に呆れたように、深く溜息をついた。
「いいか。
目に映る美しさや、その場の同情だけで物事を判断するな。
本質を見抜く目を持たなければ、
歴史に名を残す以前に、
自分の生き方そのものを、簡単に他人に書き換えられてしまう」
(あ、長いな、これ)
説教を聞いているふりをしながら、横目で道具箱を探す。
(よかった。土間の方に置いてある)
重心を移し、説教の切れ目を探る。
こちらの身じろぎに気づいたのか、慧音が眉を跳ね上げた。
「聞いているのか、今剛!」
「おう、今度から気をつけるよ! 先生!」
言い終わる前に、駆け出す。
幸い靴は、側面にジッパーのついた履きやすいものだった。
足をねじ込み、道具箱を掴む。
「こら! 待て! まだ話は――」
慧音も腰を上げたが、囲炉裏の火の始末を思い出し、視線を往復させた。
(計算通り)
内心でほくそ笑み、妹紅の家を飛び出した。
「先生ー! 手当ありがとうー! 妹紅さんにも伝えておいてくれー!」
「ばかものー!」
怒声が飛んでくる。
次に顔を合わせた時、倍の説教か頭突きが待っているかもしれないが――
それはその時の自分に頑張ってもらおう。
ふと空を見上げる。
白んでいた空は東雲の様相へと変わり、有明の月が力を失いつつあった。
薄れていく月に、人影を幻視する。
扇で隠し忘れた、あの女の顔。
(……いや、見間違いだろ)
今日の仕事を思い出し、道具箱を背負い直す。
わずかな動きが、傷にしみた。
「人間は、妖怪を畏れていればいい」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
大きな事件や派手な戦いではなく、
妖怪や神々の“褻(け)の日”のすぐそばで起きる出来事を、
人間の視点から描いていくつもりです。
読後に残った印象や、引っかかった場面があれば、感想として残してもらえると嬉しいです。
次回も、幻想郷の片隅からお付き合いいただければ幸いです。