犬とお姫様   作:DICEK
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やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる

 

 一人で通学路を行くのは、比企谷八幡にとって珍しいことではなかった。

 

 通学を供にするくらいに付き合いのある人間は過去一年遡っても二人しかおらず、その内一人――雪ノ下陽乃は気が向いた時、いきなりリムジンを家の横につけることがあるくらいで、それは多くても一月に一度くらいのものだった。

 

 残りの一人は城廻めぐりである。八幡にとっては生徒会活動を供にした、陽乃以外では唯一友人と呼べる付き合いのある人間だったが、彼女の家は学校を挟んで比企谷家と反対側にあるため、登校はおろか下校も一緒にしたことはほとんどなかった。

 

 生徒会の用事で、あるいは陽乃に巻き込まれて一緒に出かけたこともあるにはあるが、それも比企谷家とは離れた場所に集合し、解散することが多かった。住所くらいは知っているはずだが、家の正確な場所は知らないはずである。

 

 そして、現在。

 

 二人しかいない貴重な友人の内一人は、先月総武高校を卒業して大学生になった。今は実家から県内の国立大学に通っている。一度は一人暮らしをしたいと言っていたので、いずれは部屋を買って――借りて、ではない――大学の近くで一人暮らしをすることになっている。

 

 そうしたら呼んであげるね、と色々と含みのある笑顔で言っていたのを思い出す。

 

 自分の城を持った彼女の家に一人で行くなど、何をされたものか解ったものではない。男としての期待は大いにあるが、それ以上に恐怖を感じて仕方がなかった。その恐怖こそ望むところではあるのだが……

 

 ともあれ、現在同じ学校に通っている人間で、辛うじて友達と呼べる人間は、めぐり一人しかいなかった。他の人間がどの程度友達がいるのか知らないし興味もないが、一人というのは間違いなく、少ない部類に入るだろう。

 

 そのめぐりは現在、生徒会長をしている。陽乃は誰も公認しなかったので自力で勝ち取ったようなものだが、彼女から会長職を引き継ぐ形で生徒会長に就任した。その際、はっちゃんもどう? とメンバーに誘ってはくれたが、それは丁重に辞退している。

 

 雪ノ下陽乃という強力な後ろ盾があったからこそ、ぼっちの比企谷八幡でも生徒会にいることができたのだ。めぐりの就任時点では陽乃はまだ学校にいたが、三月の卒業は避けようのないことだった。

 

 めぐりが生徒会長になった年から、会長選挙の日程が後ろに伸び、めぐりの代だけ任期が長期化することになった。その任期の後半には陽乃はいない。彼女の手先となって色々やった八幡には敵が多く、庇護のない環境では攻撃をされるだろうことは想像に難くなかった。

 

 手先になっていたのはめぐりも同様だったが、彼女は彼女なりに自分の支持層を増やしていて、根強い陽乃アンチ派だった真面目層も取り込んでいた。彼ら彼女らに『女王様の犬』は受けが非常に悪い。一緒に苦労をした。そのめぐりを助けてあげたい気持ちがないではない。一緒にいて手伝えることは色々とあったろうが、ダメージの方が多いことは疑いようがなかった。

 

 そんなことを一から十まで説明したりはしなかったが、陽乃の下で一緒に働いた仲間である。八幡の辞退にどういう配慮があったのかは、言葉に出さずとも理解はしてくれただろう。『しょうがないね』と寂しそうに笑っためぐりの顔を思い出す。自分にもっと力があれば、とでも考えていたのだろう。それを慰めるような気の利いた言葉は、八幡には思い浮かばなかった。

 

 八幡も、それはしょうがないことだと思った。

 

 何でも自分のしたいことを通すことのできる、陽乃のような人間が特別なのだ。大体の人間は何かを成すのに力が足りないし、それに悔しい思いをするものである。近くでそれを見てきた八幡は、それを嫌というほど思い知った。

 

 そんな絶対者である陽乃も、今はいない。

 

 個人的な関係は、今もしっかりと続いている。卒業したくらいで、彼女は犬に飽きたりはしなかった。連絡は一日に一度は絶対に来るし、顔を見て話せるようにと八幡の部屋にも比較的高スペックのパソコンが設置された。環境が変わる時こそばたばたしていたが、今では彼女の顔も結構な頻度で見ている。

 

 正直そんなに離れたという気がしないのだ。

 

 だからこそ、学校に行っても陽乃がいないという環境が、八幡にはピンとこなかった。彼女に連れまわされるようなことが学校ではもうないのだと思うと、無性に寂しくなってくる。

 

 人間強度が下がったとでも言えば良いのだろうか。依存しているつもりはあったが、ここまでとは思わなかった。それこそ中学を卒業したばかりの時、もう家族以外の人間を信じるものかと思っていた頃の自分が見たら、絶句するだろう。その依存する相手が性格以外およそ欠点のない美人だとしたら、夢だと思うに違いない。

 

 赤信号で、足を止める。

 

 通学には少し早い時間だ。何がある、という訳ではないがこの時間に目が覚めてしまったのだ。学校に行っても生徒会の仕事がある訳ではないし、陽乃に連れ回されることもない。陽乃がいないと本当に暇なのだな、と思いながらカバンの中を確かめる。参考書くらいは入っている。学生の本分は勉強だ。図書室辺りで勉強するのも、悪いことではないだろう。

 

 陽乃が進学した国立大学は、彼女の学力からすれば大分余裕を持った進学先である。八幡の第一志望もそこだった。静からはもう少し上を目指したらと言われたが、八幡に他に選択肢はなかった。陽乃がそこにいるのだから、比企谷八幡に他に選択肢はない。八幡も三年生で、進学先を本格的に考える時期である。陽乃からは不自然なほどに進学先に関する質問はなかったが、彼女の方も当然同じ場所に来ると思っているのだろう。

 

 そうであると嬉しい、と思いながら道の反対側を見た。犬を連れた、いや、犬に引きずられた少女が走らされている。あれではどちらが散歩しているのか解ったものではない。犬は大変だな、と思いながらぼんやり眺めていると、その犬と目があった。見るからに単純そうなそのアホ犬は八幡をロックオンすると、一目散に駆けてくる。

 

 おいおい、と思うと同時に右からリムジンが来た。直撃コースだ。そう判断するよりも先に八幡はカバンから手を放し、駆け出していた。柄にもないことをしてるな、と考えながら、横目でリムジンを見る。何度か乗ったこともある。雪ノ下のリムジンだ。ナンバーが一緒だから間違いがない。

 

 もしかして陽乃が? と思い運転席を見れば、そこにいるのは見覚えのない中年の男性。飛び出してきた犬と、それを目指す人間に目をむいて急ブレーキを踏んだ。耳を劈く急ブレーキの音。それでも、リムジンは止まらない。間に合え、と念じながらアホ犬に手を伸ばし、腕に抱え込む。

 

 八幡にできたのはそこまでだった。

 

 その一瞬後、想像以上の衝撃が八幡とアホ犬を襲い、一人と一匹を容赦なく吹き飛ばした。

 

 アスファルトの上を転がりながら、それでもアホ犬だけは放すまいと腕に力を込める。

 

 ぱたり、と倒れた八幡の腕は、役目は果たしたとばかりに力なくアルファルトの上に落ちた。何が起きたのか理解していないのだろう。アホ犬はのんきに八幡の顔をぺろぺろと舐めている。顔にはぬめっとした感触がある。頭を打って血を流したのだろう。人間の血というのは、犬に大丈夫なのだろうか。痛みに耐えながら考えたのは、そんなことだった。

 

 人の声が聞こえる。意味まではとれない。朦朧とした意識と激痛の中、眼球を動かして空を見上げると、そこに『陽乃』がいた。真新しい総武高校の制服を着込んだ『陽乃』が、八幡を覗き込んでいた。

 

 勝手に一人で卒業したくせに。

 決して口には出さず、心の奥に押し込んでいた文句が八幡の中で渦巻いたが、それを口には出さなかった。卒業したところで関係は変わらない。比企谷八幡は雪ノ下陽乃の犬なのだから。

 

「じっとしてなさい」

 

 いつも余裕に満ちていた『陽乃』の声には、隠し切れない不安の色がある。態度にも余裕がなく、声もどこか幼い気がする。

 

 それではいけない、と八幡は思った。

 

 それではただの美少女だ。雪ノ下陽乃は女王であり、完全で完璧でなければならない。犬一匹が怪我をしたくらいで心を乱すようでは、女王失格だ。余裕たっぷりに笑いながら、つま先で小突くくらいのイカれっぷりがなければ、らしいとは言えない。

 

 だが、らしくないというのなら、それは犬も同じだった。女王の許しなく怪我をするようでは、女王の犬とは言えない。身体はバラバラになりそうなほど痛いが、多分死ぬほどではない。血こそ出ているが、自分は死ぬかな、と考える程度の余裕はあった。

 

 それくらいなら、おそらくではあるが、大丈夫だろう。見た目ほど重症ではないということは、見た目はそれなりに危なく見えるということでもある。それが陽乃の不安に繋がっているというのなら、犬としてはそれを取り除かなければならない。

 

 気をしっかり持つと、何だか死なないような気がしてきた。ここで死んだら容赦なく陽乃は、比企谷八幡と言う人間を過去のものにするだろう。それは絶対に、嫌だった。

 

 絶対に、死んでやるもんか。無事に回復したら、文句や嫌味の一つも言ってやる。犬だって、タダで尻尾を振っている訳じゃないのだ。一人で勝手に卒業したのだから、それくらいの報復はあっても良いだろう。

 

 あぁ、でも。

 

 もう見ることのないと思っていた、陽乃の制服姿を見ることができたのは、幸運だった。何を着ていても美人だが、出会った時、彼女が着ていたこの服が一番、八幡の心に残っていた。

 

 

 

 絶対に、死なない。犬の矜持を胸に、八幡は意識を失った。

 

 

 

 




冒頭部分だけですが思いのほか早く完成したのでアップしました。
犬の方が姫様よりも前に来ている辺り、原作よりもヒッキーの立場が向上しているのがうかがえますが、どんな関係になるのかは次話以降をお待ちください。

日本語で姫様を複数形にしたかったのですが、上手い言葉が浮かばなかったのでこのような形になりました。
途中でタイトルが微妙に変わる可能性がありますが、ご容赦ください。




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