犬とお姫様   作:DICEK

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誰も彼も、クリスマスは楽しく過ごす

 

 

 

 

12/24 AM 06:30

 

 

 いつもより一時間早く起床した八幡はこの時点で身繕いを終えていた。暗色を中心とした余所行きの格好は年齢を考えると背伸びし過ぎな気がしないでもない。八幡本人も『俺がこんな格好して大丈夫なのか』と着る度に心配になるのだが、公平に評価するのであれば好悪は分かれても『整っている』と一致する顔立ちにその服は似合ってはいた。本人ではなく恋人が選んだからだろうというのは周囲の談である。

 

 では完璧な美男子であるかと言えばそうでもなく、手堅く纏まっている容姿の中でもやはりその目が他人の目を引く。かつて死んだ魚のような目と評され自分でもそう思っていた目は、存在感そのものが増したことで改善はされたが、悪印象は別の方向で開花することになった。総武の一年生で何も知らない生徒が八幡を見ても気持ち悪いと言う人間はもういないだろう。今は単純に見た目が怖い。

 

 だがそれも気を張っている時の話だ。自宅におり課題や勉強と向き合っていない時の八幡は比較的リラックスした表情をしており、目つきの悪さも控え目になっている。その比較的に穏やかな顔をした余所行きの八幡はというと、妹の部屋の前で立ち尽くしていた。

 

 元よりこの時間に行くとは昨日の時点で言ってある。別に気にしなくても良いと小町は言っていたがそういう問題ではないのだということは兄も妹も理解していた。今日がどういう日であるのか。それを知っている人間たちの間では、どう行動するかが大事なのだ。言葉で気にしないでと言ったとしてもそうされて嬉しくない訳ではない。気持ちの問題と過去も今もよく言われるが、日々の何気ないやり取りの中にもそういうものが沢山あることが最近、八幡にも漸く感じ取れるようになってきた。

 

 深々と息を吐いてドアをノックする。いいよー、という小町の軽い声が聞こえると八幡はドアを開けた。

 

 ベッドの上にパジャマ姿のままで小町は腰かけていた。後ろ手に隠していたプレゼントを差し出し、恥ずかしさの隠せない声音で言う。

 

「……メリークリスマス」

「ありがと。小町は嬉しいよ」

 

 ベッドから立ち上がった小町は照れくさそうに笑みを浮かべてそれを受け取る。ここで開ける、ということはしない。時間があまりないことは小町も理解しているからだ。お返しとばかりに小町も同じように後ろ手に隠していたプレゼントを渡す。花の咲くような笑顔を浮かべて、こちらは堂々と。

 

「メリークリスマス! お兄ちゃん」

「ありがとう。つっても、確認すんの戻ってからになるが……」

「いいのいいの。ていうかクリスマスに恋人より妹を優先する兄とか普通に気持ち悪いから。陽乃さん待たせるのも悪いから、ほら行った行った!」

「悪いな」

 

 そそくさと八幡は妹の言葉に急かされて家を出た。最愛の妹には悪いが気持ちも急いていたのだ。窓から急ぎ足で歩く兄の背中が見えなくなるまで見送ってから、小町はいそいそとプレゼントを途中まで開けた。

 

 プレゼントの箱よりも先に手にしたのは手書きのクリスマスカードだ。物ももちろん大事だけれども小町が一番欲しかったのはコレなのだった。兄の生真面目だけど不器用な、兄の性格を表した文字で日頃の感謝が簡潔に綴られている。

 

 昔から自分の気持ちを表すのが苦手な人だったけれども恋人ができてから大分改善されてきた。世間が思う恋人関係とはちょっとどころか大分違う二人だけども、お互いを本当に必要としているのが小町の目から見ても解る。

 

 お似合いとはお世辞にも言えないだろう。幸せそうと表現するには世の恋人たちに悪い。

 

 でも悪くないんじゃないかな、とは皆が思うはずだ。少なくとも兄と一緒にいる陽乃は本当に楽しそうであるし、兄はそれで苦になっていないようだ。収まるまるべき所に全てが収まっている。恋人がいたことなどないからそれがどの程度なのかは分からないし、自分がいざそうなった時、そうありたいとは欠片も思わないけれども。兄は昔に比べばよく笑うようになった。

 

 できればとても長くこの関係が続いてくれればと妹として思う。もしかして本当に、陽乃さんのことを義姉ちゃんとか呼ぶ日が来るかもしれない。

 

 大きく息を吐いた。流石に考えすぎか。兄からもらったカードを枕の下に入れた小町は布団をかぶり直した。贅沢にも二度寝の方向である。これから良い夢が見られそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12/24 AM 07:15

 

 大学にスムーズに通うためという建前で陽乃に与えられたマンションは雪乃が暮らすマンションよりも一回り大きいものだった。一人で暮らすには大きいんじゃないかと思うのは生まれが庶民のせいという訳ではないはずである。

 

 これを自分に与えられたとしたら絶対にもて余すという確信が持てる八幡だが、生まれがハイソな陽乃は数ある部屋にも使い道が見いだせるようで持て余している様子はなかった。あればあるだけ有効に使えるという自信があるのだろう。ならば広ければ広い方が良いのかと言えばそうでもないらしく、曰く自分だけの空間なんだから自分で掃除しないとでしょ? だそうだ。

 

 快適とそれを自分だけで維持する手間を秤にかけた結果、その限界点がこの広さであるという。何となれば休日の少なくない時間を部屋の環境維持に当てていそうではあるが、陽乃はその手間を楽しんでいる風さえあった。比企谷八幡にはない感性である。

 

 陽乃に伺いをたてて、エントランスのオートロックを解除。早朝にも関わらずもはや顔馴染みになってしまった管理人さんと窓ごしに目があったが、微妙にめかし込んだ装いと小脇に抱えたプレゼントを見て彼は全ての事情を察してくれた。生暖かい視線には気恥ずかしさを覚える。

 

 どきどきしながらエレベータに乗りいつもの階に到達する。顔馴染みになった管理人さんと異なり、このフロアの住人と顔を合わせたことは実のところ全くない。同じマンションに住んでいるからと言って必ずしも付き合いがある訳ではないのだろう。陽乃に聞いてもほとんど知らないとのことだったが唯一、向いの部屋にはいかにもデキる女といった風の独身と思われる三十代女性が住んでいるそうだ。

 

 周囲にどんな人間がいるのか解らないと考えると不気味に思えるかもしれないが、どこまで行っても過度の干渉をされないと考えれば適度なセレブ暮らしというのも憧れる。快適な環境でプライベートまで煩わしい人間関係に巻き込まれたくないという人間にとって、ここは最高の物件と言える。

 

 さて、と居住まいを正してインターホンを鳴らして部屋に入った八幡が見たのは、カーテンを閉め切り全く照明のついていない薄暗い廊下で体育座りをしている陽乃だった。奇をてらってくると予想はしていたのだがダウナー系は完全な予想外だ。普通にびびってばくばくしている心臓の鼓動を悟られないようにしながら近づくと、陽乃は八幡に向かって両手を差し出した。

 

 運べという意図なのは何となく分かった。横抱きにしようとすると頭突きを喰らう。ならばとおんぶしようとすると首を絞められ一瞬で意識が落ちかけた。連続で不正解を引いたことに軽くいら立ちを覚えている陽乃はとんとん八幡の胸を拳で突いてくる。次に間違えたら心臓を止めてやるという宣告だと理解した。この二つが潰された以上正解は一つしかない。ヤル気だな……と心中で確信しつつ八幡は陽乃を正面から抱っこした。所謂駅弁スタイルである。

 

 陽乃の腕は首に足は腰に回されている。元々身体能力の高い彼女であるのでこの状態で安定感は問題ないのだが、念には念をということで八幡も陽乃の腰に手を回して強く抱きしめる。

 

 本来の大正解は腰ではなく尻に手を回すことで、それをやったこともある。陽乃も半分くらいはそれを期待していたのだろうが、大正解が本当に今ここですべきこととは限らない。今すぐヤリたいのであればもっと直接的なことをしてくるだろう。押しつぶされる胸の感触から下着を着ていないということはなさそうであるし。

 

 陽乃を抱きしめたまま持ってきたプレゼントをテーブルに置き腕の中の陽乃に目を向ける。視線で示されたのは寝室だ。やはりヤリたいのだろうか。自分が不正解を引いた可能性に思い至った八幡は不安になった。

 

 廊下に限らずリビングも寝室も電気はついていない。陽乃を抱きしめているのである。暗いというのは安全の面でも不安だったのだが、カーテンから洩れる光で何とか状況を把握することができた。奥にはウォークインクローゼット。それ以外に物は少ない。勉強なり映画鑑賞なりをするのは別の部屋なので、ここは本当に寝るかヤリたいことをするための部屋である。

 

 本来ベッドしかないはずの部屋の隅に口の開いた段ボールがある。中身はペットボトル。形からして水だろう。スポーツドリンクだと『味が濁る』というのが陽乃の弁である。それが1ケースとは随分念の入ったことだ。一体何時間この部屋で粘るつもりなのだろうか。予定は全く聞かされていない。今日と明日の時間は全て陽乃に捧げるつもりで空けてきたし、何をするのでも従うつもりでいた。

 

 おそらく部屋から出ないとは思っていたのだがその予想は当たりそうだ。もっと狭義の意味でこの寝室から出ないまである。ベッドに下ろすと早速といった様子で陽乃は唇を重ね舌を差し込んでくる。くちゅくちゅという水音と、荒い息遣いだけが部屋に響く。

 

 相変わらず言葉はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12/24 PM 05:30

 

「…………満足」

 

 陽乃がようやく言葉を発したのはそれからしばらくしてからだった。ぼんやりとした頭で水を呷るようにして飲む。寝室に入ってからヤッていたのは舌を絡ませることと水分補給のみである。熱で茹だった頭でぼんやりとベッドの脇に放り投げたスマホを取り上げて時間を確認すると、

 

「十時間もヤッてたのか……」

 

 直接的な行為には何一つ及ばず、舌を絡ませては水分補給をするだけ。その水分補給にしても直接口移しをしてみたり、他にも色々な方法を試したせいで口回りは元より上半身はかなり濡れている。

 

 のそのそとベッドの上を動いた陽乃が照明のスイッチを入れる。ぼんやりとした照明に照らされるとようやく陽乃の姿が鮮明になってきた。上半身の輪郭がはっきりと見える。十時間も絡んでいた間に熱くなったせいで上の服はひっかけている程度だ。当然下着も自分で脱いでいる。

 

 そういう経験のない人間でもこれからおっぱじめるというのは理解できる状態だが、犬としての八幡はまだお預け状態なのを理解していた。どれだけ欲望を持て余しても耐えられるのか。それを測って楽しむような所が陽乃にはある。この女王様は全くもって見た目通りのドSなのだ。

 

「そろそろ何か腹に入れますか?」

「んーん。今日は水だけ」

 

 俺はいつから修行僧になったのだろうか。ぼんやりした頭でスマホを見る。日付はクリスマスイブで間違いない。真面目なキリスト教徒はこの日は恋人たちのセックスデイになっていることに憤慨しているという話を聞かないでもない。

 

 無神論者である所の八幡にはリア充たちの見解には特に異論はない。何しろその恩恵に預かっている身である。客観的に見ても日々色々な苦労をしょい込んでいることを考えれば、今日のこの日は実に解りやすく肉欲と食欲の恩恵に預かれる日と言って良いだろう。お預けがいつまで続くかは犬には解らないことであるが。

 

 ともあれ八幡も十代の男性として少なからず食欲も満たすつもりでいた。子供趣味と言うなかれだ。クリスマスと言えばごちそうというのが八幡の偽らざるイメージである。豪勢とは言わないまでも何か凄い食事が用意されていると思っていたのだが。

 

「ああ、ごはんは用意してあるよ。持って帰れるようにしてあるから帰りに持って行って小町ちゃんに渡してもらえる?」

「俺の分はないと言ってるように聞こえるんですが……」

「もう。そんなにしょんぼりしないの。ちゃんと比企谷さんち全員分あるから安心して」

 

 けらけらと陽乃は笑う。今日は水だけというのは冗談ではないらしい。十代男性だからまだまだ美味しいものにはロマンを覚えるのだ。三大欲求と持ち上げられるだけのことはある。どれだけ気持ちが高ぶっていたとしても、食欲には性欲と同等の価値があるのだ。

 

「さて。お互い色々な意味でぐっしょりしたしシャワーでも浴びよっか。洗いっこね? まずは八幡から」

 

 思わず男の本能で濡れた胸元に伸びた手を陽乃が優しく包み込む。そのまま胸に導いてくれるのかと期待すれば陽乃が微笑みと共に行ったのは指の関節を極めることだった。待てのできない犬をご主人様は許してくれないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12/24 PM 06:00

 

 

「メリークリスマスゆきのん!」

「メリークリスマス。由比ヶ浜さん」

 

 世の恋人たちが二人で過ごすその日に雪乃は寂しく同性の友人二人を部屋に迎え入れていた。同性のみで過ごす寂しい集まりである。外でやるという案もないではなかったのだが、カップルばかりの所に女ばかりというのは流石に居た堪れない。結局、泊まれてある程度の広さがあって由比ヶ浜家のご両親から泊まりの許可が下りそうな場所が雪乃の部屋しかなかったのだ。

 

 本当は奉仕部全員で参加というのが結衣の目標だったのだが、沙希と姫菜は都合が悪いと断られてしまった。

 

 沙希は家族でクリスマスをすることを優先した。共働きの両親もこの日は必ず休むそうで終日家族で料理を作ったりして過ごすのだと言う。羨ましいことだと雪乃は心の底から思った。少なくとも寂しく同性のみでパーティをするよりは恰好がつく。

 

 姫菜は元々は参加の予定だったのだが何でも年末のイベントとやらに参加するための原稿作成が押しているのだそうだ。ネット上で公開している小説に書き下ろしを加えて製本して販売するのだとか。詳しくは知らないが『その筋』には好評であるらしく、中でも特に好評な『ハチユキ』シリーズに新キャラの小悪魔系後輩の『ヒロハシ』とやらを登場させるとかで気合が入っている。

 

 ハチユキが何を意味するのかは知らないしヒロハシとやらにも興味はないが、自分の才能を活かせるのは良いことだと思う。

 

「メリークリスマス! 雪乃ちゃん」

「メリークリスマス、一色さん」

 

 その二人がダメなのであれば結衣と二人きりで過ごすのかと思えばそうでもない。雪乃の前に立っているのは総武高校生徒会長の一色いろはだ。少なくとも入部届が受理された記憶はないので、書類の上では奉仕部員ではないのだが、対外的には既に一味と目されている。

 

 元々いろははめぐりの子分のようなものでありめぐりは八幡と昵懇である。そもいろは本人に八幡に付きまとう傾向があり総武高校の生徒たちの認識では、執行部はともかく会長であるいろはは奉仕部と一括りにされている。

 

 普段は生徒会の仕事があるために部室に顔を出すことは少ないが、結衣とは波長が合うらしくたまに遊んでいるらしい。優美子とはさっぱり合わないとかで葉山グループには合流していないそうだ。

 

 正直なことを言えば雪乃は別に彼女と仲良しではない――正確には結衣ほどお互いを知ってはいない。友達かと言われると微妙なところだしそれは相手も同じだろう。

 

 だが雪乃にとっては不思議なことに世の人間は友達でなくてもパーティくらいはするらしい。他人の感性に付き合わされるのは面倒くさいと心底思うものの、それを理由に断るには一色いろはというのは知らない仲ではなかった。友達というには微妙だが知り合いというには親しい。良く話す同級生というのが一番近いかもしれない。

 

「先輩も来ればよかったのにね」

「彼女いる人にそれは無理じゃないかな……」

「そうだけど……」

 

 元々は奉仕部でという括りだったのだから、そこには当然八幡も含まれる。結衣の本心としては彼も誘いたかったのだが、彼には結衣も見知った恋人がいる。間の悪いことに年度の始めに八幡が大怪我をした経緯から、結衣はあまり陽乃に好ましく思われておらず、それは結衣本人も感じている。

 

 流石の結衣も声をかけられなかったとかで、沙希と姫菜に断られた時点で三人での開催となった。

 

 あの姉のことだからこの日に予定を空けないということは両親絡みでもない限りないだろう。用心深いあの人はそうならないように普段から入念に根回しを行っている。成人して社会に出た後ならばいざ知らず学生の内は両親も五月蝿くは言わない方針のようだ。

 

 今日もその恩恵に預かってマンションに男を連れ込んでいるはずである。具体的に今何をしているのか。興味がない訳ではないが以前メールで事後の様子を知らされた経験もある。電話ならば真っ最中ということもあるだろう。興味がない訳ではないのだが……それを友人二人に告げて共犯にするのは気が引けた。

 

 何はともかくいつものグループから人員が欠けているというこの状況が結衣にとっては不満なのだろう。結衣は葉山組にも所属しているがあちらはリーダーである所の隼人が家のクリスマス行事に参加するためにグループとしての開催はなし。

 

 奉仕部でも開催はできたがメンバーは欠けている。一体感というのはいつでもどこでも求めるものではないと思うが、考え方は人それぞれだ。自分がそうでないからと言って他人もそれに同調を求めるのはいかにも心が狭い。結衣はそう感じるのだ。ならばそれをどうにかするのが友人というものだろう。

 

 何やら励ましているいろはごしに結衣を見ながら、雪乃はさてこういう時友達ならばどうするのかと考えていた。

 

 

 

 

 

 

12/24 PM 06:30

 

 

 風呂場から陽乃が先に出ていく。二人でシャワーを浴びる時の習慣のようなものだ。風呂場に一人残されるのは室内の熱さに反して寒々しいものがあったが外に出れば陽乃が待っているというその事実は、既に風呂場で色々やった後の八幡でも興奮するものがあった。

 

 だがそこで飛びついてはいけない。こういうことはセッティングが大事なのだと陽乃本人に説教されたことがないではないが、どうにもがっつかれることは彼女の好みには合わないらしい。全く興味がないのは問題外であるらしいので、さじ加減が重要なのだろう。

 

 その辺りの機微がまだ八幡には理解できないのだが……ともあれ、この場で胸の高まりを覚えることそのものは陽乃相手の正解であると、恋人の端くれとしては信じたい所である。

 

 気持ち程度に気持ちを落ち着けて、最低限の身繕いをしてから部屋を出る。全裸もしくはバスタオル一つで出て行ったら大笑いされるのがオチだ。獣のようにが正解だったこともあるにはあるが、基本は自分で色々するのを陽乃は好む。裸では脱がすものがないのだ。

 

 下着は下だけ。大き目のワイシャツを軽く羽織った陽乃はベッドに腰かけて自分の髪を梳いている。鼻歌交じりで機嫌が良い。普通の恋人であれば隣に座り、肩でも抱き寄せるのが正解なのだろうがこういう時は少しだけ距離を取り、大人しく待っているのが正解だ。

 

 髪を梳き終わった陽乃はうん、と小さく頷くと徐に八幡の頭を胸元に抱き寄せた。お互いシャワーを浴びたばかりで体温が高い。陽乃の大きく柔らかい胸の向こうにいつもより少しだけ早い鼓動が聞こえる。このまま死んでも良いんじゃないかという多幸感に包まれている八幡の耳元に、陽乃がそっと囁いた。

 

「一つだけ八幡の願い事を叶えてあげるけど…………何してほしい?」

 

 即物的な欲求が色々と思い浮かんだがそれは口を突いて出なかった。それから特に思考せず八幡が口にしたのは、酷く単純なもので、

 

「もう少しこのままお願いできますか?」

「いいよー」

 

 相手がいれば他に何もいらないと。錯覚でも思い込みでも本当にそんなことを思う日が来たことに、小さく感動する。まさか相手はそんなことは思うまいが。恋人二人は()()()そんなことを思いながら相手に見えないのを幸いに小さく苦笑を浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12/24 PM07:30

 

 

 女だけのささやかなパーティを楽しんだ後は、一人ずつシャワーを浴びてパジャマパーティとやらだ。気分の沈んでいた結衣もごはんを食べてお話をしたらいつもの調子を取り戻していた。おかげで一緒に入ろうよと強く主張してくる始末である。

 

 お泊りが初めてではない彼女は風呂が複数人で入れるくらいに広いことを知っていた。

 

 仲良しならそれくらいやると思ってのある種子供っぽい思いから来るものだったが、当面最強の攻撃力を持つ無自覚な上から目線の攻撃に、戦力で劣る二人は即席であるが強固な連合を組んで対抗した。弁の立つ二人に抵抗されては結衣もあきらめざるを得ず、渋々という様子で一番風呂を味わいに旅立った。

 

 しかし結衣の去った後に組み合わせの妙があった。雪ノ下雪乃と一色いろは。二人きりになることはそうあることではない。知り合い以上友人未満である二人はお互いを相手に二人きりになりたいと思ったことなど一度もなかったし、誰かいる状態でしか会ったことがないために他の奉仕部のメンバーが知っているくらいのことしかお互いを知らない。

 

 早い話会話がないのだ。陽キャを自認しているいろはが何か話そうと頭を捻るが、どういう話題が刺さるのかも良く解らない。

 

 聞きたいことは山ほどある。例えば彼女の姉である雪ノ下陽乃のことだ。めぐりから聞けることはほとんど聞いた。その際にはこう締めくくられている。総武で一番陽乃について詳しいのは八幡だと。恋人なんだから当たり前かと話を聞きに行けば、彼はとても口が固い。

 

 それはそれで好感が持てる。口の軽い男というのは何より信用ならない。口が固いからと男を信用する女はもっと信用ならないのだがそれはともかく。口の堅い八幡から聞けた話は、めぐりから聞いた話とそう大差なかった。

 

 解ったことは彼があまり恋人について話したがらないということくらいだ。

 

 であれば、その妹からならば話を聞けるんじゃないかと考えたのも最初の方だけ。決して仲は悪くないはずなのだが、雪乃は姉のことについては八幡以上に話したがらなかった。と言っても八幡とは微妙にトーンが違う。八幡は単純に恋人の話をするという行為に嫌悪を抱いているようだった。そうしている自分に違和感を覚えているとでも言うか、話すことそのものを忌避している様子である。

 

 対して雪乃はそこまでではない。単純な照れくささが見て取れる。八幡に比べると凄く純粋だ。口は悪いというか、物を正直に言う傾向があるためアイドル扱いされている国際教養科以外ではあまり友人がいないようである。人付き合いもそこまで得意ではない。単純に不器用なのだ。人前で姉のことを話すのが照れ臭いのだ。

 

 そう考えるとこのへそ曲がりのこともかわいく思えてきた。私たちは友達と、結衣のようなノリで踏み込むと嫌な顔をするだろうが、それでもめげないのがこの少女と付き合う上での正解なように思う。攻略法が決まったら話は早い。

 

「私ね。実は先輩のこと好きなんだけど――」

「私は何も聞かなかった。貴女も何も言わなかった。そういうことにしてちょうだい」

「えー。恋バナしようよー」

「血なま臭い話に私を巻き込まないでくれるかしら。私はまだ死にたくないのだけれど」

「妹さんにこういう話するのも何だけどさ。学生の時の彼氏とそのまま結婚するケースってどのくらいあると思う?」

「それなりにいるんじゃないかしら」

 

 お話としては結構聞く方ではあると思う。そのまま続くというケースはそこまで多くはないだろうが、続いたのであればそのままゴールインした方が面倒はないのだろうと思う。どんな形であれ一から関係を構築するのは疲れるものだ。

 

「じゃあ、初めての彼氏が旦那さんってケースは?」

「……別れるまで待つつもり? それはちょっと不毛じゃないかしら」

 

 異性とお付き合いをしたことのない自分が他人の恋愛環境についてとやかく言える筋合いはない。一応という形で言ってはみたが雪乃の立場はいろはも理解している。雪乃自身が思っている以上に、いろはは説得力を感じていなかった。

 

 懸想をしている相手の今カノが自分の姉であること、雪乃自身の性格を考えるとここまでしつこく警告じみたことをしてくれるのは愛情の表れのように思える。友人の多いいろはであるが、雪乃とはそこまで仲良しである認識はなかった。心中では邪魔に思っているのだろうとさえ思っていたのだが、これを見ると雪乃の評価は悪くないように思える。

 

「自分の気持ちが切れるまで女を磨こうかな。仮に冷めちゃっても無駄じゃないでしょ? 振り向いてくれるのを待つだけなら、そこまでちょっかいをかけているとは思われないだろうし」

「私の姉はそこまで甘くないわ……」

 

 悪意なり敵意なりを向けてきた相手全てにその大小に関わらずその全てに報復をしていたら、特に波風のたち易い陽乃の周囲には人間がいなくなってしまう。感情を制御して理性的に振る舞う八幡と対照的に、あの人は理性を制御して感情的に振る舞うのに長けている。表面上はいくらでも自分さえも騙せる人なのだ。

 

 つまりどういうことなのかと言うと他人には臨界点が非常に解りにくい。一瞬前までにこにこしていても、次の瞬間にはいきなり刺してくるなんてことが陽乃相手には考えられるのだ。大丈夫だと思ってやったことが初動の段階で臨界点を超えていた、ということもないではない。特にキャラが陽乃に近い所のあるいろはは雪乃の目から見て非常に危険だ。

 

 既に骨の髄まで調教されていても、一時の迷いということは十分にありえる。現にいろはの笑顔に動きが止まっている所を、雪乃でさえ目撃するくらいなのだ。八幡の意思の強さはそれなりに信頼が置けるけれども、いろはが相手ではそれもあまり信用できない。

 

 既に知らない仲ではないのだ。ある日突然死体が三つ並ぶようなことになったら、死んでも死にきれない。

 

「というか、雪ノ下さんも一口のらない? 一緒に女を磨こうよ」

「私は今でも十分美少女なのだけど」

「……その自信満々な顔にちょっとムカついた」

 

 そんな訳で! と襲い掛かったいろははそのまま雪乃を押し倒した。姉のついでに合気道を嗜んでいる雪乃はそこらの女子高生よりは強いのだが、身体能力そのものは高くてもそれを支える体力は人並み以下であまり活かせる場面がない。

 

 不意を打たれてマウントを取られるというのは雪乃の立場からするとかなり不味いもので、冷静になるべしという当たり前の心構えも忘れてばたばたと抵抗を始める。

 

 こうなるといろはも何より楽しくなってくる。あの雪乃が顔を真っ赤にしてばたばた手を振り回して必死に抵抗している。女相手に如何わしいことをしようという男はこういう視点でコトに及ぶのかーと危ないことを考えつつ、とにかくマウントだけは維持しつつ腕を捌いているといつの間にかたっぷり時間は過ぎており、

 

「ただいまー。お風呂空いたし……」

 

 ほっかほかになった結衣の目に移ったのはベッドの傍らでいろはに押し倒されている雪乃の姿だった。取っ組み合いをした後なので衣服は微妙に乱れており、抵抗した時の手が結衣の位置からでは雪乃がいろはの胸を揉んでいるようにも見えた。一言で言えば真っ最中である。

 

 幸か不幸か自分が仲間外れにされているというのを結衣は考えなかった。自分が離れている間に『準備』をしていたのだとすれば全ての説明がつくと、彼女のピンク色の脳細胞は導き出していた。本人はノンケのつもりでいるが、この二人相手なら別に良いかな……という思いが少なからずあった。そもそも女の子相手ならばノーカンであるし、興味もない訳ではない。

 

「…………わ、私も混ざった方が良いの……かな?」

 

 真っ赤になった結衣の顔を見て雪乃といろはは強い危機感を覚えた。何がヤバいって全然満更でもなさそうな所と、何よりそんな結衣を見てこの娘なら相手が女の子でも良いんじゃないかなと一瞬でも思ってしまった所だ。この雰囲気に流されると話がややこしくなる。そう直感した二人は素早く起き上がると衣服をただした。

 

「ただの事故。私はちゃんとノンケだから!」

「誤解とかしないでちょうだいね由比ヶ浜さん」

「でも……」

 

 急に取り繕われたように思える。そうなれば自分一人が仲間外れだ。別にこの二人なら良い。二人の危機感を他所に結衣の不安が募っていく。それを敏感に察したいろははここで手を打つべきだと即座に判断した。あまり広めるつもりはなかったのだが背に腹は代えられない。

 

「実は私先輩が好きなんだって告白したら、雪乃ちゃんとちょっと熱くなっちゃって――」

「マジで!?」

 

 不安も吹っ飛び食いついてくる。普通の女子高生である結衣は恋バナが大好きなのだ。まして結衣本人も憎からず思っている先輩相手のことなのだから興味がないはずはない。不安にかられていたのも何のその。急にぐいぐいくる結衣に、雪乃の方も覚悟を決めた。小さく嘆息すると着替えをまとめて風呂場に足を向ける。

 

「改まって話すのはお風呂をいただいてからで良いかしら? その間、一色さんから根ほり葉ほり聞いておいてちょうだい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12/25 AM 00:25

 

 

 風呂場でベッドの上で数々の戦いを潜り抜けた八幡は、そのベッドの上で荒い息を吐いていた。快楽を得られる行為だとしても、その間幸福に満ちていても、少しでも冷静になってしまうとそれは苦行だった。世に言う賢者モードの別バージョンとでも言うべきか。虚しさよりも先に肉体的な疲労が襲い掛かってくるそれは、陽乃と夜を過ごす時の定番のようなものだった。

 

 片方が大学生になったとは言え、泊まりで時間を取れる機会は少ない。八幡に至ってはまだ高校生の実家暮らしだ。流石に比企谷家に呼んでおいて一晩ズコバコというのは――理解は得られるだろうが体面的にはよろしくない。週末はなるべく時間を作るようにしているが、陽乃の方に予定が入ることもある。

 

 クリスマスやどちらかの誕生日など特別なイベントの時には時間を作るようにしているが、泊まりで過ごすのは陽乃が進学してからは月に多くても二回といった所だ。

 

 一緒の高校に通っていた時からすれば顔を合わせる時間は減ったが、泊まりがないだけで普通に時間は作っているから疎外感というのはない。むしろ時間の使い方をお互いが考えるようになった分、お互いが高校生だった時よりもその濃度は上がったように思う。

 

「ねえ」

「何ですか?」

「子供ってできるのかな」

「そりゃあ、やることやってればできるでしょうよ」

「そっか。そうだよね」

 

 何を当たり前な、とスルーしそうになった八幡の脳裏に言葉の意味が染み込んでくるとそれと同時に血の気が引いて行った。

 

 曰く、避妊具というのは完璧ではないらしい。究極的には完全な避妊というのは存在せず、もし可能性を0にしたいのであればそもそも行為をするべきではないという当たり前の結論に到達するという。究極護身を完成させたいのであれば男は一生童貞でいるしかないのだ。

 

 道具は万全ではありえないし人間の注意力というのも完璧ではありえない。八幡自身は注意してきたつもりだったが相手は何しろ陽乃だ。思いつきでそういうことをする可能性もないではない。

 

 恐る恐る陽乃を見上げると、彼女は面白そうに笑っていた。

 

「別にできてないって」

 

 反射的に安堵の溜息を漏らそうとした八幡は、同じく反射的に呼吸を止めた。陽乃の左手が首に右手は股間に伸びている。その事実に安心したという態度を見えたら即座に報復されていただろう。疲労困憊の時にそれはキツい。悪い意味で表情のくるくる変わる犬を見て満足したのか、陽乃は機嫌良さそうに八幡の頭を抱えた。柔らかい胸の奥に、心臓の鼓動の音が聞こえる。穏やかなその音と疲労が重なり、眠気が襲ってきた。先に寝る訳には――無理やり意識を繋ぎとめようとする八幡の耳に、陽乃の声が届いた。

 

「ん。そろそろ二人で寝よっか。大満足したし、起きたら小さなパーティでもして小町ちゃんに会いに行こう」

 

 それは楽しそうだ。陽乃に抱えられながら八幡は静かに意識を手放した。やぶにらみの目を閉じて穏やかに眠る犬の頭を撫でながら、陽乃も静かに目を閉じた。

 

 

 

 

「メリークリスマス」

 

 

 

 

 

 




次回バレンタイン編。
その後、卒業式編とエンディングになります。

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