犬とお姫様   作:DICEK

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そうして、彼女は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 バレンタインデーと呼ばれるその日も、八幡はいつも通り部室で参考書と格闘していた。

 

 既に進学の決まった身であるが、だからと言って学業をおろそかにして良い訳ではない。一教科のコマ数が高校よりも遥かに減るらしい大学にあっては、今までよりもずっと自分で勉強しないと身に付かないだろうことは想像に難くない。

 

 やっていることは高校の復習が中心だが、最近では予習も始めている。八幡は法政経学部の法学コースであるので、陽乃に手配してもらった教科書を中心に読み込みを進めていた。正直全く身になった気はしないものの、今のうちならばこんなものだろうと小説でも読むような軽い気持ちでページをめくる。

 

 一人だけの部室にペーパーノイズだけが響く静かな空間に、ばたばたとした足音が聞こえた。ぱたりと教科書を閉じた八幡が椅子に座りなおすと、勢いよくドアが開かれる。

 

「やっはろー!!」

 

 いつになく元気な結衣は、ちゃんと八幡がいることを確かめると、三割増しくらいに機嫌が良くなった様子で、包みを指しだした。

 

「ヒッキー先輩これ! ゆきのんと一緒に作ったよ!」

 

 結衣の料理の腕前は八幡も知っている。最近は家でも練習していると本人は言っているが、その成果の程は未知数である。雪乃に視線を送ると彼女は無言で小さく頷いた。大丈夫ということなのだろう。結衣の背後に寄りそうように立っているのを見るに、共に作ったのだと推察できる。

 

 分量や焼き時間など地味に細かい要素の多い料理であるが、ことチョコレートに関しては凝った物を作ろうとしない限り、そういう要素は少ない。基本は溶かして固めるだけだからだ。固めるまでの間に珍妙な要素をぶっこんだりしていないのであれば、そう間違ったものはできあがらないはずである。

 

「ありがとうよ」

 

 ぶっきらぼうに包みを受け取る八幡を見て、結衣は大げさにはしゃいだ。彼女に受けが悪いことは結衣も自覚しているため、それに義理立てするのであれば義理チョコでさえ受け取ってもらえない可能性まで考えていたのだ。

 

 妹である雪乃は姉はそこまで狭量ではないと何度も励ましてくれていた。友達の言葉を信じない結衣ではなかったが、実際に受け取ってもらうまでは不安だったのだ。

 

 加えて由比ヶ浜結衣は、自分の料理の腕が芳しくないことをきちんと自覚している。八幡には以前、炭化していると言っても過言ではないクッキーを完食させたことがあった。その経験を鑑みると、飲食物という時点で断られてもおかしくはない。自分が八幡と同じ立場であれば、絶対に少しはその選択肢が頭の中に出てくるだろうけれども、八幡はいつも通りの難しい顔ではあるがちゃんと受け取ってお礼まで言ってくれた。結衣的には大勝利の結果である。

 

「ゆきのんと一緒に作ったチョコだから、心配しないでね!」

「そこまで心配はしてないさ。ありがたく食べるよ」

「ありがとう! ところで今日は私たちだけなんだね」

「海老名はどうした?」

「気づいたら教室にいなかった」

「まぁ、そういう日もあるでしょう」

 

 雪乃が意味深な視線を送ってくる。結衣もそこまで深くは考えていなかったようで、そういう日もあるよね、と軽い気持ちで雪乃に同調する。

 

「サキサキは妹ちゃんと一緒にチョコ作るんだってね」

「この男は幼女にキープされているそうよ。態々受け取りに足を運ぶとか」

「幼女の部分を強調するな」

 

 事実ではあるのだが。川崎家は両親が共稼ぎである。妹御川崎京華女史のお迎えは弟の大志と交代でやっており今日は沙希の番だ。京華は当日に渡すことに最後まで拘ったようなのだが、当日までにチョコを完成できたとしても幼稚園で京華を回収してから八幡にチョコを渡すのは時間的に厳しいと沙希は判断した。年若い妹を連れ回すのも沙希は姉として不安だったのだ。

 

 そのため必ず時間を作ってもらうからと妹を説得し、そのため八幡に頭を下げることになった。伺いを立てる前に勝手に約束してしまったのだから、どういう関係であっても人付き合い的にはルール違反である。それが解っているのか土下座でもする勢いだったが、それだけ妹が大事なのだろうと思うとシスコン仲間である八幡も気分が安らいだ。どの道京華とは知らない仲ではないし、知己のある小町も京華を可愛がっている。

 

 恋人がバレンタインのチョコを他の女からもらうために時間を作ると、字面にすれば処刑案件と言っても良いが、まさか幼稚園児相手に目くじらを立てることもあるまい。一応確認は取っては見たが、逆に笑顔で怒られてしまった。総武高校の関係者では男の戸塚彩加の方が警戒されているくらいである。

 

「それじゃ私たち行くねヒッキー先輩! 今日はゆきのんとデートなんだー」

 

 嬉しそうに微笑む結衣に、今日は葉山グループは休業しているのだと察せられる。

 

 姫菜は結衣も行方を知らないような状態であり、隼人はバレンタインであるからこそ他人と関わり合いにならないように振る舞っている。優美子はそんな隼人を追いかけ回しているため、時間の空いている人間は六人中三人しかいない。

 

 『葉山とその友達の集団』とは葉山グループを指す際に一年の間に言われる陰口のようなもので、八幡としても中々的を得た表現であると思っている。グループの女子は三人でもつるむことがあるが、隼人を介さない状態だと残り二人の男子は女子と交流が皆無になるようなのだ。

 

 良くも悪くも隼人を中心とした集団であり、特に男子はその傾向が強かった。

 

 結衣がじゃあ三人で遊ぼうか、と考えもしない辺りに悪気のない交流の薄さが垣間見える。悪く思っている訳ではないだろうが、大して仲良くない男子を二人も相手にするくらいなら、仲良しの同性と一緒にいたいと考えるのが普通だろう。

 

 せめて姫菜が付き合ってくれるのならば考えもしたのだろうが、その姫菜は行方不明だ。男子二人が寂しくバレンタインを過ごすことが決定してしまった瞬間である。

 

 しかし、バレンタインの日に女二人というのも怪しい目で見られないか聊か不安ではある。二人とも見た目は良いのだ。女をひっかけようという悪い男に絡まれないかという心配が顔に出ていたのだろう。ゆきのんゆきのんと早くも楽しそうな結衣を構いつつ、雪乃は八幡を見て微笑を浮かべた。

 

「人通りの多い場所と道を通って、明るい内に帰るわ。そんなお父さんみたいな目しないでちょうだい」

 

 苦笑というにはあまりに優しい表情をしている。怜悧な風貌をしているのに、こういう時は年相応にみえた。自分で美少女とのたまうだけあって本当に非の打ちどころのない美少女なのだが、その美少女っぷりを異性相手に使う機会は今の所なさそうである。

 

 名前を憶えている同年代の男性が下手をしたら隼人一人ということもありかねないが、本人が満足なら他人が口を出すようなことでもないだろう。

 

 大体、交友関係の狭さで言えば八幡も似たようなものだ。友達扱いしないとどこまでも拗ねるめぐりの顔を思い浮かべつつ、バレンタインの日に女二人で上機嫌な二人の背中を見送る。

 

 二人の足音が遠ざかると、完全に部室の中で『一人きり』になると八幡は深々と溜息を漏らした。

 

「俺も大概変人な自覚はあるが、お前も相当だよな」

「変人って言い方は酷いんじゃありません?」

 

 部室の隅、ロッカーの中に潜んでいた姫菜が顔を出す。埃を払う仕草をするとパイプ椅子を引っ張り八幡の前に腰を下ろした。眼鏡の奥には相変わらずどんよりとした目がある。いつもと違うのは彼女の手にはきっちり包装されたチョコがあることだ。

 

「バレンタインのチョコです。受け取ってください」

 

 差し出されるのは手のひらに収まるくらいの小さな包みだ、きちんと包装もしてあるが、箱の大きさはリングケースと同じくらいか、それよりも少し小さい。チョコ、と言う言葉に嘘はないはずだ。チョコそのものを直接包んでいるのでなければ、中身はこれよりも小さいはずで、沢山あるとも思えない。

 

 今までの人生、チョコを沢山もらっていた訳ではないが、あまりある方法ではないと思う。

 

「材料があまり手に入らなかったのと、私の手際が悪かったので、これだけになりました。味は保障しますので大丈夫です。ちなみに陰毛とか体液とか、そういう怪しいものも入ってません――ほんとですよ! 投げ捨てないでください。作るの時間かかったんですから」

 

 ごみ箱に向かって腕を振りかぶった八幡を姫菜が慌てて止める。姫菜の性格を考えると油断はできないが、海老名姫菜という人間は基本的には嘘を吐かない。ここまで慌てるのなら大丈夫だろう、と後輩を信じることにして、貰ったチョコをカバンにいれる。

 

 時間差で八幡が投げ捨てないことに安心した姫菜はようやく警戒を解いて八幡の正面に腰を下ろした。

 

「それにしても何で隠れてたんだお前」

「陽乃さんはともかく結衣に変な心配させるのも嫌ですしね」

 

 自分が義理チョコを渡すくらいだ。八幡にただ好意を示すくらいならば、結衣もそれ程抵抗を持っていない。でも少しでも本気かなというそぶりを見せると血相を変えてくる。

 

 普通の感性をしているのであれば当然であるが、どうも陽乃にかなりの苦手意識を持っているらしく、友人がそれに深い意味で関わろうとすることにも強い抵抗を覚えるようなのだ。目に見えた地雷原に突撃しようとする人間がいたら、誰だって一度くらいは警告するだろう。それこそネジの外れた感性をしている海老名姫菜が、友人で居続けたいと思えるくらいには良い子なのだ。

 

「だからって部室に隠れることもないと思うが……」

「ここが一番安全なんですよ。サキサキはもう帰りましたし、結衣が校内に残るとしたら教室かここしかありません。雪乃くんとデートに行ったならもう戻ってこないでしょう。私はこれから帰ります。いいですか? ちゃんと帰ります。学校に残ったりはしません」

「……やけに念を押すな?」

「私は陽乃さんの友達のつもりですが、どちらの味方をするかと言われたら八幡先輩の味方です」

 

 普段の意趣返しなのかもしれない。解ってますよ、という顔をする姫菜に八幡は視線を逸らした。何かやましいことをあると言っているようなものだが多少の弱みならば見せても良いと思うくらいには、八幡は姫菜のことを信頼している。

 

 居心地の悪そうにしている八幡を見て、姫菜はますます相好を崩した。この気難しいお犬様が僅かとは言え自分に心を許してくれている。それを実感できるのがたまらなく嬉しいのだ。

 

「そんなことしてると今よりずっと好きになっちゃいますよ。何ならここで深い関係になるんでも、私は全然構いませんけど」

「……お前、平気でそういう冗談をぶっこんでくるよな」

「軽い気持ちではありますけど、冗談ではありませんよ。それに前にも誘ったじゃないですか。私はいつでも良いですよ? 無意味で退廃的で完全に快楽目的なセックスがしたくなったら、お声がけください。何でもしますから」

 

 言葉だけを見るならば好感度は高いと判断するのだろう。この一番上にあるのは好意ではない気がする。少なからず好意があるのは自覚できるが、姫菜が興味があるのは無意味で退廃的という部分だ。自分と相手がそういう状況になることに、たまらなく背筋がゾクゾクするのだろう。

 

 多少なりとも自分と通ずる部分はある。姫菜がそこで興奮するというのも解らないではない。自分で思っている以上に姫菜とは相性が良いのだろうが、比企谷八幡がここで手を出せるような人間なら、海老名姫菜という少女はここで声をかけたりはしない。

 

 歪んだ信頼があればこそだ。だからこそ『そうなった時』を想像して楽しめるし、言葉を発するだけでぞくぞくする。いつか来ると確信しているその時を思うだけで、海老名姫菜は今を楽しめる。

 

「楽しくありません? 処女の女子高生を開発するの。二度目なら慣れたものでしょう」

「下世話な話で恐縮だけどな、俺は開発された側だ」

「あぁ、そうでしたねごめんなさい。え、それじゃあ、私が八幡先輩を開発しても!?」

「余地があるとは思えんがね……そんなキラキラした目を向けるなよ。怖いから」

 

 鼻息荒く詰め寄ってくる姫菜に、八幡は深々を溜息を漏らした。

 

 陽乃の開発と姫菜の開発は明らかに傾向が違う。陽乃のものは受け入れることができても、姫菜のものは受け入れられそうにない。何というか想像もできない道具を持ち出して、想像もできないことをしてきかねない危うさがある。いざそういうことになっても、絶対に主導権を渡してはいけない相手だ。

 

「それじゃあ私はこれで。たった今天啓が降りてきたので、早い所形にしないといけないので」

「お手柔らかにな……」

 

 絶対に姫菜の作品は見ないようにしようと心に決めるのは何度目のことだろうか。ひらひらと手を振る姫菜にやる気なく手を振り返しつつ、部室に一人になった八幡はポケットの中の便せんを取り上げた。

 

 女子が使うには簡素な便せんに書かれているのは、会いたいという旨と場所と時間。一人で来てくれと言う希望と、最後は本人の名前で結ばれている。

 

 一色いろは。

 

 今日がどんな日なのかを考えれば、これがどういう手紙なのかは比企谷八幡でも想像できる。三年前なら狂喜乱舞しただろうその手紙の文字を眺めながら、八幡の胸にあったのは葛藤だった。

 

「さて、どうしたもんかね……」

 

 その独り言に応えてくれる人間が誰もいない。その事実に八幡は、そっと安堵の溜息を漏らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 指定されたのは執行部室である。相変わらず手彫りの看板の掲げられたドアをくぐると、八幡の正面。かつて陽乃の座っていた席にいろははいた。いつになく緊張した面持ちである。前髪で隠れて視線は見えない。

 

「来てくれてありがとうございます」

「まあ、呼ばれたからな……」

 

呼ばれたからと言って、誰でも呼び出されてやる八幡ではない。陽乃に見いだされたばかりの時は陽乃の見ていないところで様々な嫌がらせをされそうになったものだが、その全てを回避してきた。

 

 学校で一人になる時間が極端に少なかったというのもあるが、陽乃の意向に逆らえばどうなるのか、理解できない程度の危機意識しかないようなら、巻き込まれるとこちらが危ない。半分は相手とは関係ない自衛の意味でそういう輩を避けるようになり……それが習慣となったことが友達が私しかいない原因なんだよ! と言葉の内容とは裏腹に、学校で唯一の友達は、その事実を、嬉しそうに語る。

 

 一色いろはというのは、八幡にとっては呼び出される価値のある人間であり……平易な言葉を使うのであればそれなりに気に入っている相手だ。

 

 うつむき、顔を見せないまま会長席から立ちあがったいろはは八幡の前に立った。二度、三度、さらにもう一度深呼吸して、後ろ手に隠していた包みをぐい、と差し出す。

 

「好きです」

 

 顔は見えない。差し出されたのは手作りと思しきチョコ。いつもけらけらと笑っているリア充の代表のような女が、青春ラブコメよろしく耳まで真っ赤にしている。一体俺は何を見ているのだろう。表情に出ていないだけで、八幡は混乱していた。今まさに体験しているにも関わらず、自分の身に起こっていることが全く信じられなかったのだ。

 

「実はこれ、本命です。気づいていないかもしれないのではっきり言いますけど、私は先輩のこと、本当に好きです」

 

 恋人がいる。それが誰かも知っている。その上で踏み込むのはその相手への宣戦布告に他ならない。手加減してくれるような相手でないことは良く解っているが……それでも、この思いを告げる気持ちを、偽ることはできなかった。

 

「返事は、言わなくて良いです。というか、聞きたくありません。一方的な物言いで恐縮ですが、私の気持ちを知ってほしかっただけなんです」

 

 並んで一緒に歩けると思っている訳ではない。夢想くらいはしたけれども。彼女がいる場所に自分がたち、幸せそうに笑っている姿を想像するだけで、どうしようもなく涙が溢れてくる。

 

(本当、何でこんな人好きになっちゃったんだろう……)

 

 顔は悪くない。好みの解れる顔だちではあるが美形だと思う。身長も別に低くはない。モデルのように高くはないが、自分の身長がそれなりなことを考えると及第点は超えているだろう。性格は大分尖っているしはっきり言って意地悪だ。無意味にいじめられたことも何度もあるが、その空気はいろはにとって心地よいものだったし、本当に踏み込んでほしくないことには踏み込まない配慮はできる。

 

 それを優しいと言えなくもないが、他人に対して無関心であるとも思わない。気にはしている。それは他人には解りにくい形ではあるが、配慮しようとしているのだ。自分がしてほしくないことは、他人にはしない。最低限の配慮は怖いくらいに行き届いている。

 

 ただ、激しく露悪的で一緒にいて気持ちが安らぐという人ではない。まず自分をすり減らす所から考えを始めるせいで、負わなくても良い傷まで負ってしまう。デキる人間とは誰もが思っているだろうが、良い人だと評価を下す人間はそう多くはない。

 

 そんな比企谷八幡という男性を、友達であるところのめぐりは笑いながら、一言で片づける。

 

 めんどくさい。

 

 良い子だけど男の人としてはごめんなさいかな、というのが彼女の八幡評である。はっちゃんを好きになるのはハルさんくらいのキワモノとも言っていた。その時は皆と一緒に爆笑したものだけれども、自分も気づけばキワモノの一人になっていたのだから始末に負えない。

 

「チョコはちゃんと手作りです。奇をてらったりとか、気持ちの籠った手紙とか、色々、本当に色々考えたんですけど、途中で挫けそうになって雪ノ下さんとかと一緒に作ろうとか考えちゃいましたけど、結局、私一人で、そのせいでとてもシンプルなチョコになりました。味は良い、と思います。私にしてはですけど……」

 

 八幡が動かないのを見て、うつむいたままのいろははチョコを強引に押し付けた。そこで初めて顔をあげる。耳まで赤いのはそのままだ。視線が交錯した。何を言おうとしたのだろう。後になって思い返しても、自分のことであるのに良く解らない。否定的な言葉ではなかったろうことは想像できるが、それは八幡本人であるからだ。

 

 ようやく八幡が動き出したことに、いろはが感じたのは不安であったらしく、混乱からある程度立ち直った八幡が口を開くよりも早く、全力で手を突き出し、

 

「返事は聞きたくないですごめんなさい勝手ですけど今まで通りの今まで以上でお願いしますさよなら!」

 

 ぱたぱたと足音を立てて去って行くいろはの背中を八幡はただ見送ることしかできなかった。手にはいろはからもらったばかりのチョコ。手作りらしい。まさか作り立てということはあるまいが、そのチョコはいろはの熱が乗り移ったかのように暖かかった。

 

「どうすりゃいいんだ、これ……」

 

 なかったことにはできない。そうすることをいろはは許さないだろうし、比企谷八幡の気持ちとしてもいろはを傷つけることは本意ではなかった。

 

 報告するしかないのだ。しなければより深刻なことになる。それは解っているのだが、こういう時、そこそこ明晰であると自負している頭は、何も有効そうな答えを出してはくれなかった。

 

 自分の進歩のなさに呆れながら、八幡は歩みを進めた。今日はバレンタインデー。女王に全てを捧げる日である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い部屋の中で水音が響く。

 

 陽乃のマンション。その寝室である。自ら選りすぐったチョコの詰め合わせを渡すのもそこそこに、自分で包装紙を破った陽乃はそのままチョコを頬張ると、それを口移した。甘い味に気が乗った八幡はお返しにと、適当にチョコを摘み、同じようにチョコを口移す。

 

 そこからは、いつも通りの退廃的な行いの応酬である。荒い息遣いと、時折甲高い女の声。自分の胸の谷間に鼻を突っ込む男の姿を見て、陽乃は背筋がぞくぞくするのを感じた。

 

「犬みたい」

「ブタみたい、と言わないだけ陽乃の配慮を感じますね」

「豚って感じじゃないじゃない八幡。クイデはなさそうだし」

「食べる所は少ないだろうな、というのは自分でも感じます」

 

 ははは、と笑いながらも八幡は心の奥底でどうやって切り出したものかと考えていた。

 

 退廃的な行為はこれから翌日の朝まで続くのだろうが、自分のことであるだけに悟ることもあった。ここで切り出さないと機会を逃す。必ず言うつもりなのだから隠している訳ではないが、それは男側の都合の良い言い訳であることは良く解っていた。結果として伏せていたのであれば女から見れば同じことだ。その間に八幡を介さずにバレることがあれば、八幡だけでなく当事者の片割れであるいろはもひどい目にあいかねない。

 

 被害を受けるならばせめて自分だけにしておいた方が良いだろう。決意を固める八幡を前に、陽乃は自分で選んだブランド物のチョコを一片、口に放り込みながら何気ない口調で言った。

 

「いろはすちゃん。どうだった? 場所は執行部室だと思うけど」

 

 言葉は人を殺しうるのだという事実を八幡は身をもって体験した。驚きで呼吸が止まり、せき込む八幡の背中を陽乃が優しくさすってくる。せき込みながら疑問と恐れを目を向けると、何でもないと言うように陽乃は答えた。

 

「私に言いにくいことがある。今日はバレンタイン。本命チョコを貰った。私の知ってる子。めぐりは今更。ガハマちゃんならもっと隠そうとする。姫菜なら気にしない。雪乃ちゃんが実行に移すとも思えない。沙希ちゃんかいろはすちゃんのどっちかだと思った訳だけど、今日の八幡から妹ちゃんの気配はしない。妹ちゃんより先に自分でってこと、シスコンの沙希ちゃんならしないでしょ?」

「できればその……穏便にお願いできればと」

「なあに? 私がいろはすちゃんを殺すとか思ってる?」

 

 思ってない、とは言えなかった。眼前の美女はやると言えばそれがどんなことでも必ずやる。倫理がどうとか人道がうんたらとか、そういうことは全く関係がないのだ。感情を理性で抑制する八幡とは対象的に理性で感情を補強するのが陽乃である。何より重要なのは陽乃本人がどう思い、どうしたいかなのだ。

 

 であるから、究極的には他人の進言というのは意味がない。考えの足しくらいにはしてくれるが最終的には自分の意思を優先する。陽乃の性質を良く解っている八幡がそれでも進言をするのは、陽乃に関わる人間としてせめて予防くらいはしておいた方が良いという半ば義務感に突き動かされてのものだ。

 

「心配性な八幡。私は寛容な女だから、気持ちが浮つくくらいのことはいくらでも許してあげる。でもね――」

 

 首に回された指に深刻に力がこもる。気道が閉められぼんやりと意識が遠のくが、視線は陽乃から外れない。純然とした怒りとそれを支える狂気。想像しただけで理性を宿したまま怒り狂っているらしい陽乃の言葉はどこまでも熱があり、どこまでも冷え切っていた。

 

「本気になった時は覚悟してね。その時は、その子を八幡の目の前で殺した後に八幡のことも殺して、最後に私も死んでやるから」

 

 この人に殺されるなら良いかもな、と考えてしまう自分がいる。後先考えないのならばそれも魅力的ではあるのだが、その実現のためには根本的な問題があることに八幡は気づいた。

 

「その心配は必要ありませんよ。貴女から気が移ろうなんてありえませんから」

 

 ここまで強烈な個性を持った女性を恋人にして、気が移ろうなど現実的ではない。八幡にすればそれは真理で当たり前のことだったのだが、陽乃にとってはそうではなかったらしい。どこまでも淀み、濁った瞳は八幡を見つめて二度、三度瞬きすると、急に彩りを取り戻した。

 

 その後の表情の変転を何とすれば良いのだろうか。まるで色恋に黄色い声を挙げる年頃の少女のような朱の咲いた頬を誰からも隠すように、陽乃はそっと八幡の胸に飛びこんだ。意味のないうめき声を散々漏らした後、他に言葉が見つからないというようにぽつりと、それを漏らす。

 

「…………………………………………大好き」

 

 俺もですよ、と返すと陽乃から返ってきたのは無言の力強い抱擁だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




↑に投稿した文章と同じくらいの文章を書いて思いました。
改定前のものはなぜか全員外で待ち伏せしてたのです。果たしてそれはどうなのかということで変えましたがそしたら今度は全員が学校内でコトを起こしました。

おかげでけーちゃんの出番が『けーちゃん、ちゅーしちゃった!!』という喜びのセリフと共に見送られてしまいましたが、ちゅーそのものは後日渡されたチョコと共に実行されたんじゃないかと思います。

季節外れのバレンタインの話でしたが、次回卒業式とエピローグの予定。最後までよろしくお付き合いください。

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