犬とお姫様   作:DICEK

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やっぱり、私の青春はまちがってない

 

 

 卒業式、当日。

 

 友人はいるが共に卒業を惜しむようなタイプではなかったため、自主登校期間も特別何をするでもなく過ごしていたら、気づいたら当日になっていた。

 

 学校そのものに感慨など持っていないと自覚していたつもりだったが、ここまで感慨が沸かないというのも我がことながら清々しいと八幡は一人思う。

 

 比企谷八幡にとって大体の思い出は場所よりも人物に紐づいている。思い出の中心である陽乃は一年前より物理的に遠い存在になったとは言え週末は大体一緒に過ごしているし、唯一の友人であるめぐりは平日はほぼ毎日顔を合わせていた。

 

 交友範囲もそもそも広くない。恒常的に会話をするのはめぐりを除けば奉仕部の面々くらいである。

 

 対して、誰からも愛されていためぐりは同級生から下級生から教師から色々な人間に囲まれていた。この辺りは人徳の差であるが負け惜しみでも何でもなく寂しくはない。交流のない人間に絡まれた所で鬱陶しいだけであるし……と微妙に黄昏る八幡にも、後輩二人のために足を運んだ陽乃のついでとばかりに声をかけてくる人間は少しだがあった。

 

 一応、顔も名前も覚えている。友達では決してないが知り合いではあった。悪い気分ではないが隣にいる陽乃にそれを見透かされているようでやはり気分が悪い。友達というのは数よりも質だなと考えてすぐにそれを改めた。その唯一の友達であるところのめぐりがこれ以上ないくらい調子に乗る未来が見えたからだ。

 

「はっちゃーん」

 

 知り合い友人の対応が一通り終わっためぐりが、わーと鼻水まで流しながら飛びついてくる。よくもまぁここまで泣けるものだと思ったが口には出さない。すぐそばには陽乃がいる。はっちゃんが酷いんですと泣きつかれたら心得たとばかりに陽乃が襲い掛かってくるのは目に見えていた。

 

 陽乃一人でも勝てないのにめぐりまで加勢されると手に負えない。陽乃に加勢の見込みがある場合は、めぐり相手にもなるべく下手に出るのが正しい行いなのだ。

 

「お前、何で俺にまで泣くんだよ……」

「だって卒業だよ。寂しくないの?」

「いつまでも高校生って訳にもいかないだろ」

 

 ほら、とティッシュを取り出して鼻をかんでやる。いつもお姉さんぶってマウントを取りたがるくせにたまにならばお世話をされるのは問題ないらしく、めぐりは抵抗なくそれを受け入れた。

 

 しかし冷静になってみると『公衆の面前で男性に鼻をかまれる』のはめぐりにしても恥ずかしかったようである。ああ! とわざとらしく大声をあげ、鼻をすすりながらカバンをごそごそやるめぐりはほんのり赤くなっていた。それでごまかしたつもりであるらしい。

 

「入学式は一緒に行くから良いとして、学部のオリエンテーションはその次の日だって。場所は確認してきたから一緒に行こうね」

 

 殊更卒業というものに感慨のない八幡が特にめぐり相手だと何もないのは、これからまた四年間顔を合わせることになるからだ。

 

 陽乃は学部が違うがめぐりは学部も一緒なら学科まで一緒で、更に言えばアパートはお隣さんである。このままだと選択科目まで全て一緒になりかねないのだが、陽乃が面白がってそれを推奨してくるまであった。

 

 めぐり相手ならばと浮気からの本気を全く疑っていない故の態度だろう。めぐりに対する男除けとして期待されている風でもあり、そう扱われることにも別に異論はない。

 

 お隣さんになった一番の要因は何と言っても城廻家のパパさんである。城廻のお父さんはめぐりのことが大層かわいいようで八幡が同じ大学同じ学部と聞いた時に、真っ先にうちの娘を頼めないだろうかとお願いしに来た。

 

 普通の父親であれば娘に近づく男は皆敵と考えてもおかしくはないのだが、めぐりパパとは在学中に顔を合わせたことが何度かあり、めぐりが平素から『彼はお友達でラブラブな恋人がいる』と布教しまくった結果、彼ならば大丈夫という謎の信頼感を得るに至っていた。

 

 信頼など息苦しさを覚える人種である八幡だが、めぐりは現状唯一の友達であるしパパさんとも知らない仲ではない。第一、陽乃からもよろしくしてやれと言われているので断る理由もなかった。めぐりからの要望も『いかがわしいことをする時はハルさんの部屋にいってやって』という一点のみだからお安い御用なのだった。

 

 テンションが上がっているのかあれやこれやと話しを続けるめぐりの肩を陽乃が叩く。二人で視線を向けるとそこには手番を待っている奉仕部の面々がいた。全員何やら小物を抱えているのを見れば何をしにやってきたのかは一目瞭然である。

 

 我が事のように嬉しそうな顔をしためぐりは彼女らのために道を開け、陽乃と一緒に観戦モードに入った。気を効かせて席を外すということはしないらしい。この後は久しぶりに四人で集まるということになっているから当然と言えば当然なのだが、先輩と同級生に後輩と接している所を見られるのはむず痒さを覚える八幡だった。

 

「卒業おめでとうございます、八幡先輩。私を含めた奉仕部一同から愛の籠ったささやかなプレゼントを用意したので受け取ってください。連名ってのも味気ないですから皆それぞれ用意しました。私はこれです」

 

 包装紙に包まれた細長い箱である。カバンにしまおうとした八幡を姫菜が手で制した。ここで開けろということらしい。無造作に破いたりしないようにできるだけ気を使って包装紙を開けると、

 

「ちょっとだけお高いボールペンですね。書き味が良いんですよ」

「万年筆じゃない所が泣かせるな」

 

 暗い藍色をした金属質の手触りである。八幡の感覚からすると細く感じる一色ペンだが、持ってみると意外に手に馴染んだ。普段使いにもできそうな品である。華美過ぎず、しかし奇をてらう訳でもない。それでいて普段使いにできる物を選ぶ辺りに、姫菜の自分に対する理解と歪んだ感性を感じた。

 

 あの日、たまたま通りかかった場所で見かけ声をかけた少女の瞳の奥には、未だにロクデナシな黒い何かがぐおぐおと渦巻いていた。自分を見つめる時にそのロクデナシさが増しているように見えるのは気のせいだと思いたい所である。

 

 放っておいたらとんでもないことをしそうな女であるが、自分が卒業しても奉仕部に居続けてくれそうな気配に八幡は密かに安堵していた。どうあっても感性の合わない所はあっても、共通する部分はあるものであり、それを守っていきたいと思える程度には姫菜も奉仕部の面々に『好意』を持っているようだった。

 

 それがどういう種類の『好意』なのかは気にしないことにする。いずれにせよ、自分と近い種類のロクデナシが居場所を見つけたことに、八幡はそこはかとない嬉しさを覚えた。

 

「私はこれね」

 

 雪乃が差し出したのは青く透き通ったペーパーウェイト、日本語で言うなら文鎮である。八幡のイメージではお習字の時に使う金属製の横に長い銀色の奴しかイメージがないのだが、ピアノを嗜む人間からするとそれだけでもないようで、楽譜がめくれないように抑えておくのにオシャレなものを使うこともあるのだそうだ。

 

 そういうものはチェスのコマのように縦に長く譜面台におけるくらいにコンパクトなのだが、これは普通に丸く平べったい朱肉のような形をしている。オシャレながらも実用的だ。

 

「夏に扇風機で資料を吹き飛ばしたのを思い出すな……」

「なくて困るという程ではないけれど、あれば使うものを探してみたの」

「それでいてお前らしいんだから、センスがあるってことなんだろ。ありがとう。大事に使うよ」

 

 ふん、と小さく息を漏らして雪乃は視線を逸らした。つっけんどんな態度に沙希が抗議の声を挙げようとするが、姫菜がそれを押しとどめた。雪乃くんが柄にもなく照れている。普段であればここまで守備力の低い真似はしないだろうが、卒業式の雰囲気に彼女も当てられたのだろう。何にせよ非常に貴い。薄い本が厚くなる展開に別の意味でほっこりしている姫菜の顔を見て、沙希は友人が今どういう精神状態なのかを察した。

 

 自分には理解できない類のものだと完全に割り切ることにして、後輩としての務めに戻る。

 

「気に入ってくれると良いんですが……」

 

 沙希が選んだのはシンプルなデザインのペーパーナイフだ。

 

 今の時代に、そう使うものではない。なくても困らないけど、あれば使うものとしては雪乃と同じコンセプトの選択であるが、感性の違いでここまで違うものが選ばれるのかと思うと面白い。 

 

 カバーから引き抜きナイフの切っ先を指でなぞって見ると、奉仕部メンバーの反応はキレイに分かれた。ドン引きしているのが雪乃と結衣で、プレゼントの主である沙希と姫菜は目をきらきら輝かせている。姫菜はきっと良からぬことを考えているのだろうが、沙希も最近姫菜の趣味に引きずられているのか姫菜が喜ぶようなことをすると一緒に喜ぶ傾向がある。

 

 そっちは腐沼だぞと警告したい気もするが、本人たちが幸せならばそれで良いのだろうと諦めている。実際、犬の犬と陰で呼ばれているだけあって友達は皆無と言って良かった沙希に、キワモノとは言え友達ができたのだ。元々似たような立場にいた八幡としては祝福する以外に他はない。

 

『そういうとこははっちゃんとそっくりだよね沙希ちゃん』

 

 と、めぐりにからかわれたことは忌々しいものの、友達と呼べる人間がいるというのは、存外悪くないものなのだ。救われたこともある。救われたと言ってもらったこともある。対等で、気兼ねなく、共に過ごしていて楽しいと思える貴重な存在なのだ。

 

「それで私のなんだけど……」

 

 順番的に最後になってしまった結衣の包みを開く。形から何となく想像はついていたが、シックな色合いのシステム手帳だった。女子高生が持っているようなゴテハデしたものではなく、ビジネスマン仕様の実用向けだ。

 

「あんまり予定とか見てる気配はなかったけど、その、使ってくれると嬉しいです……」

 

 表情と態度から、これを選ぶのに相当悩んだことが伺えた。表裏がないというのも痛しかゆしではあるが、結衣の場合は好ましいことだと思う。それで損することもあるだろうが、腹の中で何を考えているのか解らない人間を相手にするよりは、一緒にいて安らげるというものだ。

 

 比企谷八幡という人間のように、波乱万丈などろどろした内面を好む人間は少数派なのだから。

 

「使うよ。ありがとう」

「ありがと。それで、その、雪ノ下先輩にお話が……」

 

 緊張でがちがちになった結衣が陽乃の前に立つ。経緯が経緯だけに、結衣の方も陽乃に近寄らないようにしていたし、陽乃も結衣に自分から絡んだりはしなかった。健全とは言い難い緊張感のある関係であるものの、結衣が奉仕部に入ってからも二人の間で目に見えた問題はおきなかった。

 

 それはお互いがその領分を守っていたからだ。思う所は違っても、率先して問題を起こしたくはないという気持ちは一致していた。立場や目的や主義主張が異なっていてもある程度まで歩み寄ることはできるという良い例が二人の関係だったのだが、その関係に結衣が一石を投じた。

 

「あの時は、ごめんなさい。私がもっとしっかりしてれば、比企谷先輩は怪我しませんでした」

 

 頭を下げた結衣には見えなかったのは幸いだったろう。八幡とめぐりと、ついでに雪乃はその発言で陽乃が一瞬で沸点を突破したのを悟った。

 

 場合によっては羽交い絞めにしてでも連れ出す必要があるかもしれない。同様にその可能性に至っていたらしいめぐりと視線を交錯させる。

 

 だが陽乃は結衣の下げられた頭を見ながら、ゆっくりと息を吐き、ゆっくりと吸うことを繰り返した。時間にして数秒。陽乃にしては随分と長い時間をかけ、気息と感情を整えると、結衣に顔をあげさせる。

 

 その間に陽乃はいつもの顔に戻っていた。感情のままに振る舞うために理性を用いる。感情の化け物にしては珍しく理性的な振る舞いだった。

 

「もう良いよ。怒ってはいるけど、憎んではいないから気にしないで」

 

 許しの発言ではないけれども、結衣が望んでいた言葉ではなかっただろうけれども、世間的に見れば何も解決していないのだけれども、陽乃からの『気にしないで』の一言は、結衣の心の重しを一つ取り除いた。

 

 元より済んだ話なのだ。一番の被害者であった八幡は後遺症もなくこうして卒業式を迎えることになった。保障はされたし八幡本人は結衣に思う所はない。聊かおバカさんな所はあるが愛すべき後輩である。陽乃が結衣に害意を抱くのは彼女個人の感情の問題であって、究極的には他人がどうこう言う問題でもない。

 

 それでも態々この日に踏み込む決断をしたのは、結衣の感性故だろう。陽乃にとってはどうでも良いことでも、結衣にとっては絶対に必要なことなのだ。

 

 ふと、雪乃と視線が交錯する。それで、背中を押したのは彼女だと理解した。同時にそれに気づいた陽乃も雪乃に視線を向ける。結衣に向けた視線よりも幾分穏やかなその表情は、後にめぐりに『さっきのはっちゃんと同じ顔』と評される。

 

 友人の少なさでは雪乃も他に類を見ない。話し相手くらいは奉仕部がなくともクラスにはいるだろうが、心を砕ける友人というのは、奉仕部に入るまでいなかっただろう。結衣が最初のそれ、というのは陽乃としては複雑だろうが、愛する妹の幸福は陽乃にとっても何よりの幸福である。世界で一番かわいいのはうちの妹だというのは、基本、考えも見る方向も一致する陽乃と八幡にとって、未だに議論を呼ぶ事柄なのだ。

 

 未だに怒りは燻っていても、たったそれだけで手を出さない理由にはなる。雪ノ下雪乃の友達というのは陽乃にとってそれだけ大事なことなのだ。

 

「じゃあ、私たちはこれで失礼しますね。一応、私たち主催でお別れ会も企画してますので、顔くらいは出してくださいね」

「ああ、悪いな気を使わせて」

「いえいえ。私は気を回せる良い女なので」

 

 全く謙遜せずに悪びれず、姫菜に連れられて奉仕部の面々が去って行く。入れ替わるように――というよりもさっきから出待ちしていた静が、奉仕部組の背中を見ながらぽつりと呟く。

 

「生徒に気を使われるとは……かっこがつかんな」

「静ちゃんも意地張らないで雪乃ちゃんたちと一緒に来れば良かったのに」

「女子高生に交じってあれこれできるもんか」

 

 陽乃の言葉に静は拗ねたように唇を尖らせた。年の差二つの八幡でさえ、一緒にいるのに気おくれすることがあるのだ。十も離れていたら世代の壁の二つや三つは感じるのだろう。

 

 ん、と小さく咳払いすると、周囲にはあまり聞かせたくないことなのか、静は陽乃を含めた三人全員に手招きをした。陽乃とめぐりは笑みを浮かべて、八幡ははっきりと嫌そうにしながらそれに従う。

 

「初めて陽乃がお前を連れてきた時には長続きするもんじゃないと思ったものだ。お前も陽乃も私の目から見ても不安定で、お互いがお互いを傷つける不幸な結果になるんじゃないかと気を揉んだものだが、その後も不安定ながらも関係は続き、こうしてお前まで卒業する運びになった」

 

 「末永く幸せでいてほしいというのが偽らざる本音であるが、こればかりはどうしようもない。男女のことだからな。不安は今も尽きない訳だが、不思議と、最初にお前たちを見た時よりは安心できる。お前たちに限って言えば、この不安定さが長続きの秘訣なんじゃないかと思えるよ。まぁ、なんだ。かしこまった物言いもアレだろう。卒業おめでとう。私からは以上だ」

「……え、私には何もないんですかー?」

 

 中々良いこと言うな、と密かに感動していた八幡を他所に、めぐりが声をあげる。一緒に集められた割に何も言及されなかったのは仲間外れじゃありませんか? と先ほどの静を真似て唇を尖らせ抗議している。

 

 勿論、仲間外れにしたつもりは静にはない。ないのだが、考えれば考えるほど言いたいことが出てくる二人に対して、めぐりに対しては改めて言うようなことは良い意味で何もなかった。何の取柄もない人間に対するとりあえずの評価としての『良い人』ではなく、城廻めぐりというのは本当の意味で良い人なのだ。

 

「めぐりはそのままでいると良い。大して長くない教師生活ではあるが、お前ほど見てて安心できる生徒はいなかったよ。二人と仲良くな」

「そういうことにしておきます。あ、集合はハルさんのうちに七時ですから忘れないでくださいね」

「…………前にも言ったが、私も参加して良いものなのか?」

「私と八幡の二人じゃないなら、この四人でしょ? せっかく卒業式の日なんだから、卒業生からの誘いに注文つけないの」

「そうだな。私も腹を括る」

「あ、でもめぐりはちゃんと送って行ってね。泊まるのは八幡だけだから」

 

 何故そういうことを頼むのか、理解できない静ではない。堂々といかがわしいことをすると宣言する陽乃に苦言を言おうと口を開きかけ、止めた。八幡の籍はまだあるが、両方とも卒業したのだ。先ほどの言葉を別れの言葉とするのなら、教師と生徒としての関係はあそこで終わったのだ。

 

 これからどちらにも元がつく新しい関係が始まる。年の離れた友人というのが近い関係になるだろう。道を外さないように諭すのも人生の先達としての仕事と言えなくもないが、私事に口を挟むのははっきり言って静の流儀ではない。元より素行に関してならばまだしも、男女の関係について口を挟めるほど、真っ当な恋愛をしてきた訳でもない。

 

 恋人アリとナシの間には見えない大きな壁と深い溝があるのだ。野暮以前に墓穴を掘る羽目になると察した静は曖昧な笑みを浮かべてその場を去った。 

 

 用事は全て済んだと踵を返す八幡陽乃を他所に、めぐりはきょろきょろ辺りを見回した。

 

「いろはちゃんは?」

「俺のとこには連中が来る前にひっそりと挨拶に来たぞ。お前のとこにも来ただろ? そう言ってたし」

「来たけど……え、海老名さんたちみたいに何かもらったりとかしてない?」

「してないな。お祝いの言葉とやらだけだった」

「んー……」

 

 全く納得していないという風である。めぐりなりにいろはに対しては思うところがあったのだろう。まさかバレンタインの時に踏み込んだ告白をしてきたことまで察している訳ではあるまいが、めぐりとしてももう一つか二つ押してくるものだと思っていたのだ。

 

 あわよくばそれを目撃しようと思っていたのに予定が狂ってしまったが、まぁそういうこともあるかと思い直した。今日は卒業パーティなのだ。陽乃とめぐりで料理を作って、静を含めて四人でパーティをするのである。何を作るか何度も陽乃と相談して決めた、めぐりにとっては正真正銘、高校生活最後のイベントなのだ。今から楽しみで仕方がない。

 

 だからこそ、なのだろう。普段であれば気づいただろう視界の隅の遠くも遠くにいろはがいたことに三人の中でめぐりだけが気づかなかった。陽乃と八幡はその視線に気づいていたが、こちらから声をかけるようなことはしなかった。

 

 おそらく何か言いたいこと、したいことがあるのだろうことは想像に難くないが、それをこちらから促すのもどうかと思ったのだ。一応という風で八幡が軽く手を振り、気づいていることを伝えるといろはは一目散に駆けだしていった。

 

 逃げるにしても勢いがあり過ぎる。八幡が目を丸くしていると当のいろはからラインが飛んできた。

 

 『三分で良いのでそこで待っててくださ』

 

 急いでいるのが見て取れる文章である。文面に苦笑を浮かべた八幡は内容をそのまま伝えると、陽乃も同じく苦笑を浮かべ、どういう訳か空を見上げた。空から何かやってくるのだろうか。めぐりまで陽乃に倣って空を見上げているので、八幡も仕方なく空を見上げてみる。

 

 雲がぽつぽつとあるが天気は晴れだ。八幡にとっては特に代わり映えのしない空であるが、陽乃にとってはそうではないらしい。

 

 陽乃は特に比企谷八幡の心をざわめかせる邪悪な笑みを浮かべていた。陰謀を巡らせ自らの勝利を確信した悪役というのは、きっとこういう表情をするのだろう。それが八幡にとっては何より魅力的であったのだが、陽乃の内心とは他所に八幡は苦り切った感情を持ち始めていた。

 

 笑う陽乃の周囲で女が走っているのだ。特に自分にとって良くないことが起こる前兆に決まっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分としてはこの前の告白で決着をつけたつもりだった。言いたいことは言ったのだ。卒業なんて一区切りだし、挨拶だってさらっとしたもので良いんだ。そう思って実際にさらっとした挨拶をし、死ぬほど後悔したのはその三十秒後のことだった。

 

 まだ帰ってないよね! と走り回って八幡を見つけた時には、もう奉仕部の面々に囲まれていた。彼女らとも仲良しでない訳ではないが、少なくとも書類上いろはは奉仕部に所属している訳ではないので、あの集まりに入るのは憚られた。

 

 そうこうしている内に奉仕部の面々が去り、平塚先生もその場を去った所で、気づいていないと思っていた八幡がいろはの方を向いて小さく手を振った。どうも気づかれていたらしい。

 

 気づいてくれた。それに喜んで手を振り替えそうとした所で、別のことに気づいてしまった。

 

 八幡との関係は切れることはないだろう。このまま彼を追いかけて行けば、今のままの関係を一生続けることができる。そういう所はマメな人だ。打算的に判断して使える人間であれば自発的に関係を切るような真似はしないだろうし、露悪的な癖に情には脆い。

 

 最低限、一度身内という判断をしたらどういう状況であれ切ることには躊躇いを覚える人なのだ。最終的には切る判断をできるのが彼の強いところであり弱いところである。

 

 そんな彼への理解がいろはにこのままではダメだと告げていた。今のままじゃダメなのだ。ここよりも先に進みたいのだ。

 

 どうすれば。考えて、いろはは走っていた。自分らしくないとは思うけれど、もう他に方法はないように思えた。校舎の中を全力疾走。その最後、屋上に続く階段の踊り場で見知った、けれども全く仲良しではない人間を見つけた。

 

「んー、やっぱり来たね」

 

 相模南。文化祭の時に色々あった二年生。それから交流はほとんどないが、体育祭で実行委員長を務めたことで一応の名誉挽回を果たしている。正直これっぽっちも仲良しではないし、向こうの方にもいろはと仲良くしたいと思える所はないはずいなのだが、南の目には長年の友人に接するかのような親しみがあった。

 

 陽乃を前にした時とはまた異なる、居心地の悪さを覚える。これが八幡がたまに言う『ろくでなしのオーラ』という奴だろうが。そういう連中の目は八幡に言わせると目が非常に濁って見えるそうなのだが、いろはにそれは解らない。ただ何となく、今の南はヤバいと思える。それは文化祭の時には感じなかったものだ。

 

「何かかますとしたら今日が最後のチャンスだし、やるとしたらここしかないと思ってたよ。まぁ、友達ではないし助ける義理もないんだけど、一応縁はあった訳だから応援はするよ。個人的には、もう少しひどい目にあっても良いと思うんだよね、あのお犬様」

 

 酷い奴だと思うけれど、いろはは初めて南に親しみを覚えた。

 

「今度一緒に遊びません?」

「ウチは陽キャのつもりだけど日陰者なの」

 

 ひらひらと手を振りながら、南は去って行く。色々言いたいことはあるが、それは後でも良い。彼女はまだ在学生だが、先輩はもう卒業するのだ。籍はまだ残っていても、制服を来て学校に残るのは今日この日が最後なのだ。総武高校の後輩、一色いろはが、先輩である比企谷八幡にお互い高校生である間に何かするのは、この瞬間が最後なのだ。

 

 扉を蹴破るようにしてあけ、フェンスに飛びつく。八幡は――いた。何故か三人揃ってこちらを見上げている。最初に気づいたのは雪ノ下陽乃で、彼女はフェンスに飛びついたいろはを、真っ先に見つけた。離れた距離で視線が交錯する。一瞬で意図を見抜かれた気がして心が萎えるが、萎えた心は一瞬でまた燃え上がった。今の自分を止めるものなど、存在しないのだ。

 

 

 

 革命上等。女王様が、いつまでも、ふんぞり返っていられると、思うな!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「総武高校生徒会長、一色いろは!」

 

 

「私の好きな人には、私なんかよりもずっと素敵な恋人がいます!!」

 

 

「でも、諦めきれないから――今ここで、宣言します!」

 

 

「今まで通りじゃ、嫌です! 今よりずっと、ずっとずっと、良い女になります!」

 

 

「絶対に、絶対です! だからお願い――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――私を見てーっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 息苦しい。死にそうなくらいに荒い自分の呼吸の音が聞こえる。汗はだくだく流れていて、フェンスに寄りかかっていないと立つこともできない。スマホからは悪戯に連打したインターホンのように、着信音が鳴っている。

 

 きっとこれから一生からかわれるのだろう。自分らしくないことをしたとは自覚している。

 

 でも、あそこでやらなければ駄目だったのだ。時間を巻き戻したとしても同じことをする。やった甲斐があった……かはまだ解らないが、きっとあの人は驚いてくれただろう。

 

 これで少しは、自分のことも見てくれるだろう。不安は残るが後悔はない。

 

 そんないろはの耳に、特別な着信音が響いた。個別の着信音を設定しているのは、彼一人である。まさかもう!? と正常な判断ができなくなっていたいろはは喜び勇んでスマホを耳に当て――

 

「喧嘩売ってると解釈したよー」

 

 声にならない悲鳴を挙げてスマホを全力で放り投げた。

 

 親を拝み倒して先月買ったばかりの品であったことを思い出したのは、それが二度三度床に跳ねてからだった。複数の意味で青くなったいろはは、それがカウントダウンの始まった爆弾であるかのように、恐る恐る自分で投げたスマホに近づき、指でそっと摘み上げた。

 

 さっきの声はできることなら自分の恐怖心が生み出した幻聴とかであると良かったのだが、残念なことにスマホは通話中のままだったし、その向こうには女王様がいらっしゃった。

 

「あのですね? あれは私の決意表明をしただけというか、別に喧嘩を売ってるつもりはないというか……」

 

 あくまで未来の話であって、今の話ではない。そもそも今勝てる自信があるのであれば決意表明なんてせずにやっつけているという話だが、それは勝てる自信があれば喧嘩を売っていたということでもある。陽乃の解釈はある意味では正しいのだ。戦略的には将来敵対する可能性のある人間をそうならない内に排除しておくと言うのは理にかなったことだった。

 

 保身を考えるのであれば、決意表明などする必要はなかったのかもしれない。

 

 しかし、一色いろはに他に選択肢はなかった。今ここでやらなければ、ダメになってしまう気がしたのだ。根拠も何もないただの予感がいろはを動かしたのだ。雪ノ下陽乃に喧嘩を売るという、少しも考えるまでもなくただの自殺行為であるそれを受け入れさせるほど、その思いはいろはを突き動かしていた。

 

 あぁ、私本当に先輩のことが好きなんだ、と自覚する。それはとても幸福なことだったが、それを噛みしめるだけの精神的余裕はない。かしこい頭脳を総動員して、どうやってこの場をやり過ごすかと考えていたが、陽乃は無常にも宣告した。

 

「めぐりを迎えに行かせたから、こっちまで降りてきて。ちょっと色々とお話しようか。特別に八幡も一緒にいさせてあげる」

 

 それはいろはにとっては頼もしいことだった。電話の向こうで、八幡がしかめ面をしているのが見えるようだった。余計なことをしやがってと後で小言の二つ三つ言われるのだろうけれど、関係が切れず、これからも続いて行くことに、いろはは心の底から安堵していた。

 

 恥ずかしい、後から思い返せばベッドの上でごろごろ転がるような行いだったけれど、まぁ青春ってこういうものだよね、と無理やり自分を納得させることにした。

 

 それでも自問する。私のしたことは、間違っていたのだろうか。

 

 考えて、考えて、考えて……心の奥から出てくる答えは、ただ一つだった。

 

 

 

 やっぱり、私の青春(こい)は間違ってなんかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




一応これが最終話。

次回がエピローグ。一緒にアップする予定でしたが、まだ書きあがってないのでこちらだけアップの運びとなりました。今月中にアップの予定なので、最後までどうぞお付き合いください。

個人的なこの陽八カップルのテーマ曲は『君の中の永遠』でしたが、さてエピローグでは何を流そう……

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