犬とお姫様   作:DICEK

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雪ノ下雪乃は、未来に思いを馳せる

 

 

 

 

 

 

 

 

そうしてゆっくりと――過去を振り返る。

 

 全員に変化を促した切っ掛けはやはり、八幡たちの卒業式の日、いろはの行動だった。元より気づけば雪ノ下陽乃という恋人がいた時点で、他の全員は出遅れていた。今時愛が永遠などと信じる人間はいない。別れるのを待つというのも選択肢に一つだっただろう。消極的ではあるがそれも戦いだ。

 

 しかし、愛が永遠だと少しでも信じる人間からすれば、待つのは悪手であるとも思えた。行動を起こさなければ何も変わらない。それを確信して行動に移したのがいろはであり、彼女に奮起を促される形で思いをそのまま抱き続ける人間もいた。

 

 その逆、その筆頭が結衣だった。

 

 彼女にも恋心はあった。それは彼が怪我をした事故の一因であるという自責の念から来るものであったのかもしれないが、八幡に異性として惹かれていたのも嘘ではなかったはずだ。

 

 だがいろはの宣言を見て、結衣は知ってしまった。自分にここまでのことをすることはできない。気持ちは本物でも、それに心がついていかなかったのだ。気持ちはここに置いて行くと、高校を卒業する頃には気持ちも吹っ切れたらしく、その後の結衣は真っ当に恋をして真っ当に結婚し、子宝にも恵まれ幸せな家庭を築いている。

 

 意図的に八幡とは距離を置こうとしているため、奉仕部の中で今も交流があるのは雪乃だけであるが、雪乃の目から見て結衣はとても幸せそうに見えた。

 

 それを逃避とか妥協とか馬鹿にはできるはずもない。結衣は自分の意思で幸福を掴んだのだから。

 

 ふと、会場の空気が変わったのを肌で感じた雪乃が入り口を見ると、ちょうど入ってきたいろはと目が合った。雪乃の視線に気づいたいろはは、満面の笑みを浮かべる。鏡に向かって毎日練習しているという笑顔は女性の目から見ても非常に魅力的で、同性である雪乃の心さえもざわつかせた。

 

 自分が容姿に恵まれていることを十分に自覚しているいろはは、結衣以外の奉仕部とその関係者たちと同様に千葉大に進学。総武高校と一緒で二年程八幡の後輩をした後に卒業。高い倍率を潜り抜けてキー局の女子アナになった。

 

 洗練された容姿と話術は瞬く間に世間の男性を虜にし、一年目からフリーに転身するまでの八年もの間ずっと、女子アナ好感度ランキングという下世話な投票でトップを取り続けた。

 

 固いニュースも読むには読んだが、露出のほとんどはバラエティであったため、フリー転身の話が出た時世間はてっきりそのままタレントにでもなるものだと思っていたのだが、転身後は一転してジャーナリストの顔を見せるようになった。

 

 その転身に世間が混乱している間に、世界中西へ東へ飛び回り、数々の大物の独占インタビューに成功。国内外で精力的に活動を始め、一年もする頃にはジャーナリストとしての立場を不動のものとした。

 

 また学生時代からの縁で比企谷陽乃とも交流が深いことで知られている。単独でのインタビューを受けたりはしない陽乃が、いろはからの申し出だけは断らないというのだからその繋がりの深さが伺える。

 

 陽乃に繋ぎを取りたい時は彼女の事務所に電話するよりも、いろはに連絡を取った方が話が早いとまで言われており、英語を始め、スペイン語、アラビア語、ロシア語、ドイツ語などを話し、現在も勉強中と語学に非常に強いことから、国内外の独自のパイプも含めて後の比企谷政権の外務大臣とまで言われている。

 

 パーティの出席者の中ではいろはも最上位の有名人である。彼女と関係を持ちたい人間も腐るほどいたが、まっすぐ主催者である陽乃の元へ歩いて行くのであれば、それを妨げる訳にもいかない。割れた人の波から現れたいろはを、陽乃は満面の笑みを浮かべて出迎えた。

 

「おかえりいろは。海外はどうだった?」

「おいしいもの沢山食べてきましたよー。しばらくダイエットしないと」

 

 軽口を叩きあいながら、二人は軽いハグを交わす。一緒に仕事もするが、長年の友人である。軽い触れあいなど別におかしなことではないのだが、

 

「皆さん提案を飲むそうですよ。詳しいことはまた後で」

「ん。ご苦労様」

 

 これである。正式に事務所に籍を置いている訳ではなくとも、彼女も一人の関係者なのだった。何も聞いていませんという風を装っていた八幡が、陽乃に呼び寄せられる。パーティの出席者として不味いものを見ないように陽乃から視線を逸らしていた関係者が、八幡が呼び寄せられると色めき立った。

 

 八幡にとっては毎度のことであるのだが、どうにも慣れないことである。肝は太くなっても人目を好きになった訳ではない彼は居心地悪そうにしているが、ある意味それが商売であるいろははむしろ周囲の視線にテンションが上がった。

 

 満面の笑みを浮かべて、八幡に向かって両腕を広げる。既婚者の男性に対しその配偶者が隣にいるにも関わらず、未婚の女性がそうしているのだ。普通であればありえないことであるが、八幡も、そして陽乃もいろはも普通ではない。

 

 加えて、これは女王様の決定であるため、犬の八幡には拒否権などない。あの日、女王様相手に宣言をしたいろはは、あろうことか女王様と結託して八幡を苦しめるようになっていた。

 

 心底嫌そうな顔をした八幡がいろはを抱きしめると、周囲から歓声が沸いた。八幡は渋面を作っているが、いろはは至福そのものと言った顔で状況を楽しんでいる。倫理的には問題であるかもしれないが、陽乃の周囲にあっては毎度の光景だ。

 

 最初こそフラッシュまでたかれたものの、公の場では三か月ぶり三十八回目の光景である。興奮はしても物珍しくはない。

 

 それくらいに、一色いろはの事情は世間に知れ渡っている。総武高校での宣言は途中からではあるものの、いろはが有名になると世間に広まるようになり、素敵な恋人がいる好きな人というのも、彼女の行動によって誰か明らかになった。

 

 既婚者に懸想をしているという事実だけを見れば非難の一つもされようが、一色いろはは比企谷陽乃の大のお気に入りであり、少なくとも耳目を集めるような場所では、懸想の相手である所の八幡との接触も健全という言葉の範囲に収められている。いろはのキャラもあるのだろう。

 

 いずれにせよ、世間的には一色いろはは比企谷陽乃の一味と思われており、大抵のじゃれあいは許される立場にあった。ひとしきり八幡を堪能するといろははさっさと距離を取った。ホストである陽乃と八幡はまだまだ挨拶回りに忙しかったのだ。

 

 コネの一つも作ろうと話しかけるタイミングを伺っている連中の視線を1ダースほど感じていたいろはは、誰か盾になってくれる人はいないかと周囲を見回し、雪乃と陽華を見つけた。雪乃は面倒に巻き込まれると渋面を作り、陽華はにっこり笑って手招きする。この幼女は八幡周辺の女性とは大抵仲良しなのだ。

 

「雪乃久しぶり。陽華ちゃん、相変わらず美少女だね」

「こんばんは。いろはさんは八幡くんの匂いがして素敵よ」

「うん。今とっても幸せな気分。ところでめぐりさんはまだ育休中?」

「そろそろ復帰の予定よ。お留守番の留美さんが喜んでいたわ」

 

 あー、といろはは苦笑を浮かべた。いろははスタッフではないが一味ではあるため、彼女らの人員の少なさについては良く知っている。

 

 陽乃は議員に立候補する前から地元で事務所を立ち上げた。その時の創設メンバーの二人が創設当時からの秘書で現在は夫でもある八幡と、当時は事務員の一人だっためぐりである。陽乃が目出度く代議士となりスタッフも増えると息のかかったメンバーへとゆっくりと入れ替えるようになり、現在の少数精鋭のスタッフへと落ち着いた。

 

 その構成は非常に特殊であり、その全員が陽乃の地元の出身者で母校である総武高校と千葉大を卒業している。学部学科こそ異なるが基本的には皆同じ経歴であり、ある種の地域密着と言える。

 

 めぐりは地元事務所のスタッフ代表であるが、一年前に第二子となる女の子を出産。現在は主夫である旦那様とそのご実家で暮らしている。

 

 旦那様は大学在学中に出会い悪い虫がついてはならぬと陽乃と八幡とついでにいろはがしつこいくらいに面接したのだが、人物評価の辛いこの三人をして、非の打ちどころのない善人という評価を下さなければならない程の善人だった。おまけに料理が得意で非常に穏やかな性格をしている。めぐりの旦那様と聞けば誰もが納得する男性だ。

 

 めぐりが働き旦那様が主夫をするとなった時には主にめぐりの方が突っかかって少し揉めたものの、めぐちゃんのしたいことをしてよという旦那様の一言により現在に至っている。その代わりという訳ではないのだろうが、めぐりからの提案でめぐり夫婦は旦那様のご実家で暮らすことになった。

 

 息子がお嫁さんを貰った立場とは言え、まさか孫と一緒に暮らせると思っていなかった義理のご両親はこの判断を大いに歓迎しており、めぐりとの関係も大変良好である。

 

 めぐり本人は早期の復帰を希望しているものの、子供とゆっくりしたら良いという陽乃の配慮で、余裕を持った育休期間を設けていたのだが、その育休期間がそろそろ開けるのである。めぐりの部下であり現在彼女の代理をしている留美の喜びようは言葉では言い表せない程だった。

 

 それくらいに激務ではあるのだが、めぐりが取り仕切っていることもあり議員事務所とは思えないくらいアットホームな職場だ。女性の雇用機会だ社会進出だパワハラだモラハラだのが叫ばれる中、事務所の女性比率は驚異の百パーセント。ここまで来ると逆な差別なのではと圧倒的少数派の男性である八幡などは思うそうだが、女性に有利な分には文句が出てこないのが今の世の中である。

 

 前例のないことであっても、まぁ陽乃ならということで世間を納得させることもできる。良い意味でも悪い意味でも他人のやらないことをやるのが、比企谷陽乃という人間だ。

 

 そんな比企谷陽乃には現在秘書が五人いる。公設秘書が二人に私設秘書が三人だ。

 

 秘書の代表は陽乃がいつも連れ回している八幡だが、配偶者は公設秘書になれない規定のため私設秘書となっている。第一秘書は二人の後輩である川崎沙希であり、八幡が結婚する時にその役職を引き継いだ。

 

 これに主に地元で仕事をする私設秘書二人を加えて長らく四人で活動していたのだが、ここ最近彼らに一人後輩が加わった。

 

 第一秘書である川崎沙希の妹、川崎京華である。

 

 比企谷陽乃と同様、総武高校出身者であり生徒会長経験者。千葉大に進学し優秀な成績で卒業した。法曹関係で将来を嘱望されていたのだが本人の兼ねてからの希望の通りに陽乃の秘書となった。現在は第二秘書として姉の沙希の下で仕事を学んでいる。

 

 八幡は挨拶回りをする陽乃について回っているが、第一第二の秘書である川崎姉妹は、それとは別に会場を動き回っていた。雪乃と視線が合うと、京華はにっこり笑みを浮かべて小さく手を振ってくる。

 

 それに小さく手を振り返していると、陽華がぽつりと呟いた。

 

「あれは間違いなく八幡くんの愛人狙いね」

「小学生があまりそういうことを言うものじゃないわよ、陽華さん。いろはさんも頷かない」

「雪乃さんだって解るでしょ? あれは絶対恋する女の目よ。八幡くんが夢中になるなんてことは絶対ないけど、気持ちが浮つくくらいのことはあると思うの」

 

 ねー、と陽華といろはが声を合わせて笑いあう。親と子程も年が離れているのにこの二人はとても仲良しなのだ。いろはが、というよりも陽華の価値基準は概ね家族に寄っているので自分の好きな人を『ちゃんと』好きな人に対しては、結構無条件に愛情を注ぐのである。

 

「もう少しお父さんのことは信じてあげなさい」

「だって、京華さん魅力的でしょう? 私が男の子だったらきっと夢中になってしまうわ」

 

 陽華の京華に対する評価は非常に高いようである。無理もないと雪乃は思った。

 

 沙希の妹だけあって京華はとても美人だ。姉が男性よりも女性にモテる怜悧な風貌をしているのに対して、京華は春の日差しのような穏やかな表情をしていることが多く、両方を知る人間からは良く対比される。

 

 誰にも分け隔てなく接することから学生時代から大層男性にモテたそうだが『昔からず~っと大好きな人がいるんです』といつも同じ文言でお断りしているそうだ。

 

 その好きな人が誰なのかは関係者の間では公然の秘密となっている。

 

 良くも悪くも有名になってしまったあの八幡を『はーちゃん』などと気軽に呼べるのは世界中でも彼女だけだろう。その近すぎる距離感には流石の姉も警戒するのではと思いきや、大分年の離れた後輩のことは留美ともどもお気に入りなようで学生時代から目をかけていたという。いまだにどういう人間が良くてどういう人間が悪いのか、その判断基準がつかめない雪乃である。

 

 髪型は現在は姉と同じポニーテールだ。高校を卒業するまでは幼い頃と同じ飾り気のない二つ縛りだったのだが、大学デビューでお洒落したいということで姉と同じ髪型をするに至った。真似をされた形の沙希が喜びとある種の恥ずかしさのあまりかなりの長期間挙動不審になったのは言うまでもない。

 

「雪乃くん」

 

 先輩の愛人には誰が一番相応しいかという多分に願望の入った持論を当の娘に展開する友人の姿を横目に見ていると、声をかけられた。雪ノ下雪乃をそう呼ぶのはこの世で一人しかいない。

 

「姫菜さん。来てたのね」

「雪乃くんの晴れ舞台だって陽華ちゃんに聞いてね」

 

 何を勝手に、と姫菜の言葉に陽華を見ると、黒髪の美少女は両耳を塞いで可愛く首を横に振っていた。隣でいろはも真似している。身内には口の軽い二人のことだ。きっとあることないこと言いふらしたのだろうと深々と溜息を吐く雪乃の横を、姫菜に手を引かれていた天使が通り過ぎる。

 

 そうして、何故か何もないところで足をもつれさせたその天使を、陽華が慌てて支えに入った。普段の二人の関係が見えるようで、雪乃の顔にも苦笑が浮かぶ。

 

「……うぅ、ありがとう陽華ちゃん」

「私を差し置いて世界一の美少女なんだから、もっとちゃんとしなさい」

「僕男の子だよ……」

 

 その言葉に、たまたま近くを通り過ぎようとしていた招待客が目をむいていた。

 

 天使の名前は比企谷彩歌(あやか)。八幡の実妹である比企谷小町と、その旦那の比企谷彩加の()()であり、雪乃から見ると聊か表現に困る続柄の少年である。

 

 すれ違う人はまず彩歌のとびぬけた容姿に驚き、次いで半ズボンから除く白い膝に驚く。一目で男の子と解るような恰好をしていないとまず性別を誤解されるからで、こういうパーティに連れ出される時には大抵半ズボンをはいている。

 

 しかし本人や家族の趣味はもう少し中性的な服装であるようで、私生活においては性別を間違われることはそれこそ日常茶飯事だった。彩歌が学校でトイレに入ろうとすると、先に入っていた男子が身も世もない悲鳴を挙げる光景が散見されている。

 

 八幡の周辺に起こった出来事で一番周囲を驚かせたのが、彼の妹である比企谷小町と戸塚彩加の結婚である。小町を生まれた時から知っており彩加とも知らない仲ではない八幡でさえ、二人が交際していたという事実を、婚約したと当の妹から聞かされた時に初めて知ったのだと言う。

 

 しかも小町が嫁に行くのかと思えば彩加の方が婿入りしてきたこともまた周囲を驚かせた。それが決まるまでに二人の間でどういうやり取りがあったのか他人が知る由もないことであるが、雪乃の目から見ても二人は仲睦まじい。

 

 だがしかし、陽乃に現在最も警戒されているのがよりによって男性である彩加だった。少女と見まごうばかりだった高校時代は十年以上も昔。今では普通の恰好をしていれば流石に女性と間違われることはなくなったのだが、年を経ることで身に着けた不思議な色香は八幡だけでなく周囲を惑わせている。

 

 この色香は主に後援会や地元の調整に役立っており、地元での折衝は主に彩加が行っていた。老若男女全てを手玉に取るその手腕は魔性と呼ぶに相応しく、陽乃の地盤を盤石にするのに一役も二役も買っている。

 

 小町は彩加の補佐という役回りだ。全スタッフの中で陽乃の次に演説が――打算的な言い方をすると相手をその気にさせるのが抜群に上手い小町は普段はスタッフ間の調整から人を集める時は会場のセッティングをし、司会進行までこなす。

 

 まさに比企谷一族一丸となった運営だ。大きく見れば同じ仕事をしてるのだから家は近い方が良いということで、陽乃が千葉に邸宅を建する時に最初からもう一棟余分に立てられるように広めの土地を購入した。敷地一つに家は二つ。でも表札は比企谷一つだ。二家族は頻繁に家を行き来しており、特に子供同士は学校が同じこともあって家にいる時にはいつも一緒に過ごしている。

 

 絵に描いたような仲良し一族であるが、その全てが手放しで仲良しという訳でもない。義理の姉弟の関係である陽乃と彩加は微妙に仲が悪い。それも彩加が事あるごとに自分の息子を巻き込んでまで八幡の背中を流そうと風呂に突撃してくるからなのだが、義姉弟で言い合っている内に、兄妹がそれぞれの配偶者を連れ去り、巻き込まれた息子は娘が連れて行って話が終わる。

 

 それを眺めてげらげら笑うのが皆で比企谷家に集まっている時の姫菜の仕事だ。

 

 海老名姫菜は作家になった。繊細な性の問題の第一人者として作品を精力的に発表し続け、本人もバイセクシャルであると告白し話題を呼んだ。そのお相手というのが川崎姉妹の姉の方、川崎沙希である。

 

 大学に合格が決まった沙希が何とか生活費を節約しようと考えていた所、じゃあルームシェアしない? と姫菜の方から持ち掛けたのが関係の始まりで、その関係が卒業後も続いている。

 

 もっとも、深い関係には違いないが額面通りの関係という訳でもない。姫菜はどろりと濁った眼で微笑みを浮かべて言うのだ。独り身でいることに突っ込まれない、これ以上に合理的な理由はないでしょ?

 

 二人の部屋は現在都内にある。姫菜は作家という住む場所を選ばない仕事であるが、逆に沙希は代議士の秘書という割と住む場所を限定される仕事であるため、泊まりになることも多い。どうせ部屋は余っているのだからと比企谷邸の客間の一つが沙希のために割り当てられるようになり、そこに姫菜も泊まるようになった。

 

 その部屋の扉には学生時代の八幡を真似て陽華が彫った名札が『沙希×姫菜』という風に下げられていたのだが、その名札を初めて見た姫菜は小さく苦笑を浮かべて名前の順番を『姫菜×沙希』に直したのだった。姫菜さんが攻めらしいわ! と陽華が大喜びしたのは言うまでもない。

 

「それで、私の晴れ舞台って?」

「今日八幡先輩に告白するんでしょ? 陽乃さんの許可も取ってるって聞いたけど」

 

 聞いていない。じっとりとした視線を向けると、陽華はわざとらしく悲鳴を挙げて彩歌の陰に隠れた。雪乃の視線に晒された彩歌は慌てて陽華の背に隠れようとするが、陽華の方が足が速い。自分の周りでぐるぐるやりだす天使二人にほっこりするいろはを他所に、姫菜は持論を展開していく。

 

「まぁ、これで家庭崩壊するなんてことは絶対にないから安心だし、今より前に進むってだけで別に何か変わる訳じゃないでしょ? 絶対に子供ほしいって言うなら、今から私も協力しなきゃだけど」

「子供の前でそういう話は――」

「沢山お姉ちゃんになれるのは歓迎よ!」

 

 その場の追いかけっこで勝利した陽華は、羽交い絞めにした彩歌の頬をむにむにしながら言う。前から妹や弟を可愛がりたいのだと両親にアピールしていた将来の姉は、弟妹ができる見込みとなった今でもその願望は継続中だ。あの二人の子供と思えない程真っ当にかわいいのだが、あの二人の子供だけあって壊滅的に倫理観がズレているところがある。

 

 誰も彼も雪乃の味方だと言うが、見方を変えれば敵である。この会場に足を踏み入れた時点で、雪乃の負けは決まっていたのだろう。はめられたと言い換えても良い。遊びの風を装っているが、絶対に逃がさないという姉の意思が確かに感じられた。

 

 時計を見る。パーティの終了時刻まで、後三十分。

 

 それが雪乃に残された最後の時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰もいなくなったパーティ会場。テーブルは端に寄せられ、食器類は既に片づけられている。

 

 結局、何をするでもなくパーティは終了した。招待客は帰され、会場には誰一人残っていない。人払いは万全だ。このホールは会場施設の奥まった場所にあり、出入りする通路は全て陽乃の関係者で固められている。この場に誰もいないことは入念に確認済だ。

 

 その場所に一人、雪乃は残されている。頑張ってね、と出ていく全員から励ましの言葉を受けた。当日まで何も知らされていなかったのは当事者である自分と彼だけというのが、陽乃らしい仕込みであると思う。悪質であることに目を瞑れば、とても素晴らしいサプライズだ。

 

「全く、会う奴会う奴皆に励まされたよ。いつから仕込んでたんだ全く……」

「言っておくけれど、私の仕込みじゃないわよ?」

「解ってるよ。雪乃なら言いたいことあったらすぐに直接言うだろ」

 

 その信頼が心地よくもあるが歯痒い。解ってくれるのは嬉しいことだが、何も解っていない。貴方の目の前にいる女は、その言いたいことを十五年以上も言わなかった女なのだ。

 

 言うべきことは解っているのに、身体の中から出てこない。今までだって機会はあったが、ここまで誰かがお膳立てをしてくれたことはない。肌身に感じて解っている。皆がここまでしてくれるのはきっと、これが最後の機会なのだ。

 

 脳裏に浮かぶのは、あの日のいろはのことだ。彼女は誰の手も借りずに自分で一歩を踏み出した。今なお輝きを失わない彼女の去り際に問うてみた。あの時の選択を後悔したことはないのかと。

 

 一色いろははいまだに独り身だ。対して八幡には子供も生まれ、振り向いてくれる気配は全くと言って良い程ない。意識してくれてはいるのだろう。ともすれば女性として見てくれてもいるのだろうが、一線を越えてくることは決してない。

 

 それが解っているはずなのに、いろはは今も輝きを失わないでいる。それが雪乃には不思議だった。振り向いてくれない相手を思い続けることが、苦しくはないのか。

 

 問うた雪乃に、いろはは笑った。

 

『全然! あの日、屋上のドアを開ける前の私に声をかけられるとしても、私はこう言うの』

 

『十五年後の一色いろはは、まだまだ燃えるような恋に生きて、幸せなんだって。貴方は間違ってなんかない。全力で行きなさいって』

 

 長い時間、ふらふらしていた気持ちがふと固まった。八幡の前に立つ。ずっと、ずっとずっと、言いたかったことがある。ただ一言。聞いてほしかった言葉があった。

 

 痛いくらいに心臓が鳴っている。頬が熱い。ようやく、気持ちと身体が一つになった。燃えるような恋といういろはの言葉が、本当の意味で理解できた。

 

 

 

 

 

 私は、今確かに、燃えるような恋をしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「貴方に伝えたいことがあったの。ずっと……ずっと、前から」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「比企谷くんは鈍いから気づいてもいなかったんでしょうけど……私、貴方のこと――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――好きよ」

 

 

 

 






バレンタインやクリスマスなどの一話完結の短編の追加はあるかもしれませんが、本編はこれで完結になります。
前作投稿開始からすると七年半という長い時間がかかってしまいましたが、最後までお付き合いありがとうございました。


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