よく、会長以下役員たちを『生徒会』であると勘違いする学生がいるが、彼らはあくまでその役員であって、生徒会そのものではない。その学校に通っている生徒が概ね自動的に加入させられる組織が生徒会であり、そのメンバーとなれば全校生徒のことを指す。
では、その役員たちが集まる部屋を何と呼ぶのか。そもそも所謂『生徒会』の名前も学校によって異なるため一概には言えないが、『生徒会室』と呼ぶのがおそらく、一番通りが良いだろう。総武高校のそれも元々はそういう名前だったのだが、紆余曲折の末、前の生徒会長の陽乃が『生徒会執行部室』と名称を改めた。
公式にどうなっているのか知らないが、少なくとも部屋の前にはそういうプレートが下げられており、陽乃政権の時のメンバーである八幡とめぐりは、プレートができてからの期間はこの部屋のことを執行部室と呼んでいたし、認識している。
八幡はこのプレートを見る度に、感慨深い思いにさせられる。ある日突然、陽乃からこのプレートを作れと言われ、散々リテイクを食らった挙句、最終的には彫ることになった。素人仕事が際立って安っぽく見える、というのは製作者の逆贔屓目という訳ではないだろう。陽乃からめぐりに会長の座が移動した時、八幡はこれを取り払うことを提案したのだが、新会長の鶴の一声によって使用継続が決定された。
基本的に陽乃とは違う路線の政策を行うことで、支持を集め実績を作っているめぐりにしては珍しい、陽乃路線を踏襲した部分である。
この部屋に、ノックをせずに入っていたのも今は昔のことだ。複雑な心境のままドアをノックし、待つことしばらくして、ドアが開いた。
さて、仲が良いかは別にして、八幡は現政権のメンバーを全員記憶している。結局最後まで会長を含めても三人しかいなかった陽乃政権と異なり、城廻政権は引継ぎの段階で既に全ての役職が予備人員も含めて埋まっていた。メガネ率の高い地味な集団だったと記憶しているが、ドアを開けた少女は初めて見る顔な上に、何とメガネをかけていなかった。
随所にアレンジの見える制服には、まだ真新しさがあるから一年だろう。お洒落具合は、結衣よりは堂に入っているように見え、彼女よりも幾分華やかに見えた。何というか、自分がどの程度かわいいのかを自覚しているかのような図々しさをひしひしと感じる。
八幡一人ではおそらく、友達にはしないタイプだ。なるべく視線を合わせないようにする八幡を他所に、一年女子はじっと彼の目を見つめていた。小さく溜息を吐いて、その目を見返すと、一年女子は不満そうに視線を逸らした。自分の視線を受けて動揺しない男がいるとは思ってもみなかったのだろうが、陽乃の視線を間近で受け続けてもう二年が経過している。今更年下の視線など、どうということはない。
「その腐った目……もしかして比企谷先輩ですか?」
「もしかしなくてもそうだ。城廻はいるか?」
「いるよー」
少女の肩越しに、めぐりの声が聞こえる。それを『どうぞ』という意味だと解釈した八幡は、今度は自分から少女に視線を向けた。
「……ようこそ、いらっしゃいませ」
いまいち歓迎していない様子の少女を気にするでもなく、八幡は執行部室に足を踏み入れた。
かつて陽乃の席だった会長のデスクで、めぐりは微笑んでいた。かつての同僚の急な来訪に、彼女は八幡が使っていた書記のデスクを指差すが、八幡はそれを無視してめぐりの前に立つ。
「そこはもう、俺の席じゃないだろ?」
「そうだね、ごめん。それにしても珍しい。はっちゃんがここに来るのも久しぶりだね? もしかして、引継ぎの時以来?」
「部外者が態々顔を出すようなところでもないだろ」
「うちの生徒に生徒会の部外者はいないよ。たまには顔を出してくれても良いのに」
「そのうちな」
めぐり相手は、どうも調子が狂う。このままだと押し切られそうだと感じた八幡は、定番の断り文句で強引に話を終わらせた。相変わらずな八幡の態度にめぐりは苦笑を浮かべるが、それ以上は追求してこない。どこまでならば踏み込んでも良いのか。その絶妙な距離感を理解できるのは、友達ならではである。
「それで、今日はどういう御用かな?」
「他校と部活動同士で交流するための規定について聞いておきたい」
「相手のあることだから、こっちとあっちで別の許可が必要だね。まずこっちは顧問の先生と校長先生の許可が必要だよ。それから今度はあっちの校長先生と、部活の顧問の先生の許可」
「面倒だな……」
「他所の生徒を呼んで、校内で問題とか起こされちゃうと困るからねー」
「お前の強権一つでどうにかなるか、と少しだけ期待してたんだが無理そうだな」
「ここに座ってるのがハルさんだったら何とかなったかもしれないけど、私はほら、普通の生徒会長だから」
ははは、とめぐりは笑うが、会長としての彼女の評判はそれほど悪いものではない。前任者が陽乃なので事あるごとに比較され悪し様に言われることもあるが、堅実で痒いところに手が届く実に細やかな手腕は陽乃とはまた違った良さがあった。教師からの信頼は陽乃よりも厚く、申請などをねじ込む時はめぐりを仲介すると通りやすいと、生徒の間では評判である。
勿論、何でもかんでも引き受ける訳ではないが、それが切実なもので会長として公平な判断の内に入るならば、めぐりは断ったりしない。一つの部に肩入れすることは黒に近いグレーと言えるが、その話を切り出す前に黄色信号が灯ってしまった。テニス部の先行きは暗い。
「その許可は簡単に出ると思うか?」
「顧問の先生に寄るかな。先生の方がOKなら、校長先生はOKって言うと思うよ」
「そうか……」
想定していたよりも厳しい条件に、八幡の表情が曇る。いつも以上に暗い顔をしている八幡に、今度はめぐりが問うた。
「はっちゃん、部活にでも入ったの?」
「テニス部から依頼を受けたんだよ。練習相手がいなくて困ってるから、相手をしてくれってな」
「あれ、テニス部って幽霊部員しかいないんじゃありませんでしたっけ?」
「一年の中ですらそんな認識か……」
少女の言葉に、八幡は渋面を作った。部員の勧誘が早くも暗礁に乗り上げたことに憂鬱な気分になったが、それで諦めるくらいならば、態々執行部室にまで足を運ばない。息を吐いて、気持ちを切り替える。今知りたいのは、実質部員一人のテニス部でも、他校と交流ができるかどうかだ。
「はっちゃんは知ってると思うけど、うちのテニス部は外で評判が良くないし、顧問の先生もそんなにヤル気がある方じゃないから、今のままだと難しいと思うよ」
めぐりの正直で率直な意見は想定の範囲の物だったが、ここまで芳しくない結果だといっそのこと清々しく思えた。ドマイナーなスポーツならばいざ知らず、テニスという名前の知られた競技でコートも道具も揃っているという十分な環境が整っているにも関わらず、部外の人間を頼らなければ普通の練習もできないほどに、人員がいないのだ。テニスをやりたいという人間にとってそれがどれだけ良くない環境なのか、推して知るべしである。
「粘り強く部員を集めていく方が良いんじゃないかな。幽霊だけど部員だけはいるから、今すぐ廃部ってことはないだろうし」
「このままだと部室が取り上げられる可能性が高いだろ? そうなったら部員集めにも支障が出る。次の予算編成の前には大会に出れるくらいに部員を集めて、活動してますアピールをさせときたいんだ」
「珍しく面倒見が良いけど、どうしたの? テニス部の依頼主さんがハルさんより美人だったりした?」
「確かに天使みたいだったが、それはないな」
だよねー、と同意するめぐりに、八幡も当然のように頷いた。気持ちが動いたことは事実だが、傾く程ではない。犬が簡単に他人に尻尾を振ったりはしないことを飼い主以外で最も理解しているめぐりは、即答した八幡に笑みを浮かべた。
ともあれ、これで聞きたかったことは聞いた。状況は良くないが、それでもどうにかするしかないだろう。助かった、と礼を言って踵を返した八幡に、めぐりがさも今思い出したというように声をあげた。
「はっちゃん、いろはちゃんとは初めてだよね?」
「そこのそいつのことなら、会ったことはないな、多分」
そいつという呼称にむっとした表情を浮かべた少女は、陽乃ほどではないが整った容姿をしていた。これだけ『私かわいい』オーラを出していたら、リア充の顔は覚えたくない八幡でも、流石に記憶に残る。記憶にないということは会ったことはない、と機械的に判断した故の即答だったのだが、その即答が少女の気に障ったらしい。
「はじめまして、一色いろはです。どうぞよろしくお願いします、先輩」
差し出された手を握り返すと、いろはと名乗った少女は更に渾身の力を込めた。とは言え女子の膂力である。部活に汗を流すよりも、友達と喋ることに放課後の時間を使っていそうないろはの全力は、やはり大したことはなかった。それでも年上の男子相手に『やってやった』ことに溜飲を下げたのか、当のいろはは満足そうな表情だった。
「メンバー増やしたのか? どの役職も人は足りてただろ」
「会長になりたいから生徒会活動に参加して勉強したいんだって」
「……悪いが会長とかやりたがるタイプには見えないんだが、そんなめんどくさい仕事を、どうしてまた」
「先代の会長の雪ノ下陽乃さんみたいになりたくて……」
いや、無理だろと反射的に口を突いて出そうになった言葉を、八幡はとっさに飲み込んだ。目指すかどうかは人の自由である。それに口を出す権利は、八幡にもない。
だが、犬の感性でもって言わせてもらうと、陽乃を目指す人間として見た場合のいろはは、色々と力不足に見えた。陽乃を構成する上で一番重要な、あの『人間の濃さ』がいろはからは全く感じられない。
もっとも、陽乃みたいになりたいという言葉に、内面までが含まれているとは限らない。陽乃からみれば、いろはたちは三つ下になるから中学で一緒だったということもないはずだ。下手をしたら、会話をしたこともないかもしれない。八幡からすればそれでどうして憧れることができるのかと疑問に思うばかりだが、それも人それぞれだろう。何しろ陽乃は内面の強烈さほどではないが、見た目も十分輝いているのだから。
「一色は陽乃と会ったことがあるのか?」
「去年、文化祭のライブ見ました!」
あー、と乾いた声が八幡の口から漏れる。そのライブで陽乃の横でギターを弾かされたのも、今となっては痛ましい思い出である。舞台上での良い思い出など何一つ残っていない。緊張と羞恥と戦いながら舞台の上で考えたことと言えば、演奏でトチらないことだけだ。
「ハルさんみたいになりたいって人、結構多いんだよ」
「俺が言うのも何だが、世の中趣味が悪い奴が多いな」
自分がその筆頭であることを棚にあげている八幡の物言いに、めぐりは声をあげて笑った。元々ピアノが弾けためぐりはライブではキーボードを担当し、ドラムの不在を埋めるために打ち込みもやった。あの日の成功の影の功労者であるがおそらくライブを見に来た人間で、めぐりを記憶している人間はほとんどいないに違いない。
観客は皆、陽乃だけを見ていた。舞台にいたのは陽乃たちではなく、陽乃とそのおまけである。これで皆、自己主張の強い人間であれば文句も出ただろうが、八幡と静はライブなど早く終わってくれと心の底から思っていたし、めぐりは全力で皆でバンドというのを楽しんでいたから他人の視線など二の次だった。思い返してみれば、共にバンドを組む面々としては割りと理想的だったのかもしれない。
めぐりの視線が、机の上の写真立てに移る。ライブが終わった時、陽乃に撮らされた記念写真だ。八幡にとっては黒歴史そのものの写真も、めぐりにとっては良い思い出らしい。
「……まぁ、そんな訳で人は足りてたんだけど、役員に加えることにしたんだ。はっちゃんも何か、アドバイスとかあったら言ってあげてね? ハルさんの一の子分は、間違いなくはっちゃんだし」
「子分じゃなくてそのものになりたいって奴には、俺の助言は役に立たないだろ」
他人からアドバイスを受けたくらいで陽乃になるのならば、世の中もっとスリリングになっている。高校に入ってからも色々あったに違いないが、おそらく入学する前から陽乃はああだったはずだ。それまでに培ってきたものを才能の一言で片付けるのは抵抗があるが、陽乃が陽乃であることの最大の要因はおそらく、生まれ持った感性である。
陽乃個人の能力や置かれていた環境は、他人に真似できるものではない。今から陽乃になるというのであれば、よほど劇的な環境に身を置かない限りは不可能だ。一年の時点でこれでは、卒業するまで頑張っても陽乃の影も踏めないだろう。
「……見た目は良いみたいだから、頑張れば何とかなるんじゃね」
「雑過ぎません!?」
「陽乃が増えても俺に良いことないからな」
要約するならばその一言に尽きる。雪ノ下陽乃は一人で十分だ。めぐりも雪乃も、この意見には賛成してくれるだろう。あんな内面の濃い人間が他にもいたら、周囲にいる人間はそれだけで疲れるし、何より自分と似たような存在が近くにいることを、あの陽乃が許容するとは思えない。全力で相手を潰しにかかる陽乃など想像するだけでもぞっとするが、幸いにも陽乃とキャラが被るような人間には今のところ遭遇していない。
できれば一生お目にかかりたくないものだが、万が一がないとは限らない。陽乃を目指すといういろはに、八幡はなるべく関わるまいと心に決めた。
「じゃあな。忙しいところ悪かった」
「はっちゃんなら別に良いよ。他校との交流のことは、こっちでも調べておくから」
「頼む」
「ちょ、せんぱ――」
何か言っている後輩を気にもせず、八幡は足早に執行部室を出て行き、ドアを閉めた。
おなじ後輩なのにどうしてこうも扱いの差が……
合流はもう少し先の話なので、今回は顔見せ程度のいろはすでした。