犬とお姫様   作:DICEK

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こういう時、ラブコメの神様は微笑まない

「対戦?」

「そうだ。そっち全員とこっち全員でダブルスだ」

「別にあーしらがそれを受ける必要は――」

「いやなら『正式な』コートの使用許可と校則を盾に、お前らを叩き出すまでだ。それでもテニスがしたいってんなら、そこはもう俺の知ったことじゃない。どうぞ他の場所を探してくれ」

 

 取り付く島もない八幡の物言いに、優美子は苛立たしげに押し黙った。彼女はここのテニス部を見たかったのであって、テニスがしたい訳ではない。本音を言えばテニスそのものすら二の次だった。結衣や姫菜とおもしろおかしく遊ぶことができればそれで良かったのだが、八幡はあくまで『部活にまぜてやる』という姿勢を崩さなかった。何故お前が……と思った優美子だったが、耳ざとい彼女は目の前にいるのが何処の誰かということを、良く知っていた。

 

 比企谷八幡。現生徒会長である城廻めぐりとともに、先代の会長雪ノ下陽乃の政権を支えた人間だ。唯我独尊で知られた陽乃に対する忠犬っぷりから『女王様の犬』とも呼ばれる男である。生徒会活動に一年も関わっていた男だ。普通の生徒ならば校則などほとんど知らないだろうが、彼ならば校則に精通していても不思議ではない。そんな人間を相手に、生徒手帳など一度も開いたことのない優美子は、太刀打ちすることはできなかった。

 

 だが、葉山隼人はそうではなかった。将来弁護士になるつもりの彼は生徒手帳も熟読し、校則にも精通している。いつかやりあうことがあるかもと思って部活に関する規則もしっかりと読み込んでいた。それによると授業以外で学校の施設を使うためには、校庭ならば校庭の、テニスコートならばテニスコートの使用許可が必要になる。校庭などの広い場所の場合はそれ全体ではなく、半分とか四分の一とかエリアを区切って許可が出されるのだがそれはさておき、それら運動部が使用する場所については、そこを使用する部が持ち回り、あるいは場所固定で終日、かつ恒常的に許可を得ているのが普通だ。

 

 総武高校の場合、校庭ならば野球部、サッカー部、陸上部といった具合だが、テニスにしか使えないテニスコートについては、基本的にテニス部が校庭と同様の使用許可を得ているはずで、これは八幡の言う通り学校が認めた正式なものだ。

 

 そしてこの手の許可は、他の全ての生徒の都合よりも優先される。それを無視して行動した場合、校則違反として処罰の対象になる可能性があった。まさかいきなり停学などという重い処分にはなるまいが、サッカー部である隼人たちがそれを破るのは、運動部全体のパワーバランスに関わる問題になってくる。野球部もサッカー部も、もっと広いスペースを使いたいと常々思っているし、スペースについての争いは使用許可が厳密に区切られている現在でも後を断たない状況だ。

 

 ここで隼人たちがそれを無視した、という話が広まるとサッカー部以外の他の部から突き上げられかねない。最悪使用スペースの削減などという事態に陥ることも考えれば、ここで八幡の提案を突っぱねるのは得策ではない。

 

 これは従っておいた方が良さそうだ。そう判断した隼人は、八幡の提案を受け入れることにした。 

 

「テニスコートを使わせてもらえるってことで良いんですよね?」

「俺達の相手をするならな。それから、いきなり来るのはこれっきりにしてくれ。少数でも一応部活なんでな。サッカー部だって、半面空いてるからって俺らがキックターゲットで遊んでたらムカつくだろ?」

「俺なら練習サボってそっち行くかも」

 

 例え話に大笑いする三人を冷めた視線で眺めている八幡を見ながら、隼人は考えた。

 

 隼人の父は弁護士事務所を開いている。県下でも有数の企業である雪ノ下建設の顧問弁護士をしており、社長である雪乃や陽乃の父とも親しい。それ故に、雪ノ下家の個人的な案件を請け負うこともあった。雪乃の乗ったリムジンが八幡を轢いた際の示談交渉を請け負ったのは、記憶に新しい。

 

 その時、彼が陽乃の恋人であるということを知った。隼人自身は彼に縁がないこともあって見舞いにはいかなかったが、あの陽乃が毎日病院に顔を出し、献身的になっていたと聞いた時には耳を疑った。

 

 あの陽乃にそんな人間らしい面があるなど、誰が信じられるだろうか。何より驚いたのは陽乃がそうであることよりも、彼女に恋人がいて、それが学校の後輩ということだった。学校でもプライベートでも『あの』陽乃と一緒にいて、これからも一緒にいたいと思える人間。きっと菩薩のように心が広い人間か、陽乃と同じように人格が破綻しているかのどちらかだ。勝手にそう予測していたのだが今日初めて相対して、後者の方がより近いと理解した。陽乃とはまた方向性が違うが、彼は陽乃の同類である。

 

 深く淀んだ目からは、言い知れないプレッシャーを感じる。陽乃よりは控えめだが、致死量を超えた毒ならばそれがどういう種類の毒かは関係がない。これを覆すのは自分では力不足だ。それを悟った隼人は、八幡の提案を今度こそ全面的に飲むことにした。

 

「解りました。それでお願いします」

「おうよ。その代わり勝ったらその分だけ残り続けて良いぞ」

 

 マジで!? と戸部たちがその言葉に食いつく。

 

 彼らにはそれが、とても太っ腹で良い条件に思えたのだろう。実際には特に話し合いもせずに勝手に条件を追加されただけなのだが、それには気づいていないようだ。

 

 話もどんどん大きくなってきている。元々テニス部の様子を見に行こうと言い出したのは優美子で、隼人はそれに賛成しただけだ。結衣と姫菜がどういう部活に顔を出しているのか気になってはいたし、たまにはテニスをするのも良いと思ったからだ。

 

 歓迎されないということも勿論考えてはいたが、ここまでとは思っていなかった。皆で楽しく、というのが隼人の流儀である。それは多くの場合に好評で、今回もそうであると楽観していたのだが、八幡は明らかにそう思っていなかった。軽い主義の対立に、隼人は密かに気を引き締めた。簡単には負けられない。

 

 姫菜を向こう、結衣をこちらとすると、数の有利は自分たちにあるが、その利を活かせるのが全員が一定以上の腕を持っている場合だけだ。隼人以外の男子三人は、ボールを前に飛ばせるレベルの腕であり、運動そのものが得意ではない結衣も、気持ちは大分あちらに傾いている。仮に得意であったとしても、善人で情が強い結衣は、こういうグループ同士が対立する構図では十分に実力を発揮できない。戦力としてカウントできるのは、自分と優美子の二人だけだ。そう隼人が考えをまとめる直前に、八幡はさり気ないタイミングで、話を進めていた。

 

「じゃ、ローテでやろうぜ。最初、俺らは戸塚と海老名が入る」

「隼人くん、最初に俺、俺やりたいんだけど!」

 

 力強い戸部の主張に、隼人は陰鬱な気分で頷いた。経験者二人で押し切り、時間を稼ぐことはできなくなった。腕で劣る人間が入ればその分勝率が下がる。頭数で劣るが経験者が多そうなあちらは、腕に劣る人間を参加させることで勝率を上げようとしているのだろう。一回以上付き合うつもりはないという、八幡の強い意志を感じる。

 

 ならばそれに抵抗するまで。

 

 どうすればこの状況を打破できるか、考えをめぐらせている隼人を横目に見ながら、八幡は自分の企みが半ば成功したことを悟った。ルールの細かい設定を彩加に任せ日陰のベンチに下がると、やりとりを眺めていた雪乃が話しかけてくる。

 

「貴方の予想の通りになったわね」

「そうだな」

 

 ダブルス、ローテーション。こちらが飲ませた条件はそれだけだ。コートがあり、道具も揃っている。他に決めなければならないことは、それ程多くはない。こちらは姫菜と彩加が出て、あちらは男子二人が出てくる。二人ずつ出るのであれば、残り二つのチーム構成は、結衣と残りの男子、隼人と優美子というペアで決まりだ。

 

 そうこうしている内に、最初のゲームが始まる。彩加が現役のテニス部員という有利はあるが、相棒の姫菜はボールを前に飛ばせるレベルの腕である。対する男子二人は姫菜と同じレベルであるが、現役のサッカー部男子故に、体力と腕力では分があった。結果、二組の実力は均衡し、一進一退の攻防を繰り広げることとなった。

 

 あくまでレクリエーションの域を出ないやり取りに、表面上は和やかな空気となっていたが、相手方のベンチでは隼人と優美子が入念な打ち合わせをしていた。明らかに勝ちにきている。

 

 それも狙い通りだ。依頼内容は彩加の能力の向上であって、遊びにきた素人集団を叩き潰すことではない、奉仕部的にはこの勝負、勝とうが負けようがどちらでも構わないのだ。あの二人相手ならば、彩加も良い経験になるだろう。これからもふらっと現れるようになれば問題だが、それについては八幡が釘を差した。

 

 遠まわしではあるが、部活中に迷惑だと伝えたのだ。優美子はどうか知らないが、同じく運動部に所属する隼人は運動部の暗黙の了解を無視することはできない。仮に今日と同じ流れになったとしても、その時は彼が止めに入るだろう。集団の核はあの二人だが、精神的には対等とは言えない。隼人が反対すれば、優美子はきっとそれに従うという確信が八幡にはあった。この問題はそれで良い。

 

 この勝負に勝つ、というのは奉仕部というよりも八幡や雪乃の個人的な理由だったが、八幡にとってはここからが難しかった。向こうのへっぽこを引きずりだすために、ダブルスでローテというルールを持ち出したが、こちらは姫菜が戦力にならず彩加もテニス部にしては体力が少ない。雪乃はテニスの腕は期待できるが、体力については彩加以下ということが推測できた。

 

 この面子で確実に勝利を得るならば、隼人と優美子のペアが出てくる前に確定的なリードを得ることだが、人数で劣るこちらは各々の負担があちら以上だ。特に男子四人はサッカー部で、体力に自信があるのが見て取れた。少なくともこの点においては、テニス奉仕部連合に勝ち目はないだろう。

 

 勝つためには一瞬の油断もできない。それを良く理解していた雪乃のコートを見る目は、今まで見たこともないくらいに真剣だった。

 

「戸塚くんは、固定なのよね?」

「そうなるな。次は海老名とお前で入れ替えだ。できればこれで勝負を決めてほしいところだが……」

「善処はするわ。でも期待はしないで」

 

 自分の腕に絶対の自信があっても、勝負を決めきる体力がないことは雪乃本人が良く知っていた。一気に勝負を決めるつもりで畳み掛けたとしても、決めきる前に力尽きることは目に見えている。せめて彩加が固定でなければまた話も違っていたのだろうが、奉仕部の仕事は彩加のテニスの腕を向上させることであって、この勝負に勝つことではない。そもそもこの勝負は偶発的なものだ。部活のルールを持ち出した以上、自分たちがそれを侵す訳にはいかない。

 

 雪乃の態度には苛立ちが見えた。自分で決め切れない以上、勝負が次のセットに流れると思っているのだ。彩加が経験を積めるのだから、それはそれで奉仕部本来の目的と合致してはいるが、誰だって負けるのは悔しい。雪乃は特に負けず嫌いであり、八幡もそれに大いに同調した。

 

 この場で最も真摯に勝利したいと願っているのは間違いなく雪乃だ。自分で勝ちきれないことを予感した彼女は非常に苛立っており、それは隣に立つ八幡にも伝わる程だった。無言で佇んでいるだけなのに、この迫力なのだから溜まらない。性質は大きく違っても、やはり雪乃は陽乃の妹だ。

 

 八幡が俯き、にやつきそうになるのを堪えていると、コートでプレイ中の姫菜が手を挙げた。

 

 体力の限界だ。へとへとになってコートから出てくる姫菜と入れ替わり、コートに入る雪乃の背中には昔のスポ根物のような炎が燃えていた。これで勝負が決まってくれるのならば本当に楽なのだが、そう上手く話は転がらない。雪乃の体力が尽きる可能性は高く、そうなれば自分に出番が回ってくる。自分の出番を半ば確信した八幡は、ベンチから立ち上がってストレッチを始めた。

 

 雪乃の猛攻に相手もペアを交代する。二組目は大柄な男子と、結衣のペアだ。結衣は一応、奉仕部の内通者、ということになるのだろう。あくまで無理のない範囲で協力してくれるだけで構わないと説明した。授業以外でテニスをしたことがなく、加えて運動もそれ程得意ではないという彼女では、不自然でない程度に八百長するのは無理だ。下手に何かされて話がややこしくなっても困る。八幡としては遠まわしに『何もするな』と言ったつもりだったのだが、その真意は結衣には伝わっていなかった。

 

 奉仕部と友人のために役に立とうとしているのは、八幡にも理解できる。彼女なりに何かしようと考えた結果、とにかく時間を稼げばと思ったのだろう。何から何までもたもた行動する結衣は実にいじらしかったが、雪乃にとってそれは逆効果も良い所だった。きっちりと休む時間を貰えるならば助けにもなっただろうが、結衣が稼げるくらいの時間ではそれも高が知れている。

 

 テンポ良く進まないゲームに雪乃は苛立ち、それ故に体力を予定よりも早く消耗していたが、皆のためと必死になっている結衣は普段ならば真っ先に気づいていたはずの雪乃の変化にも気づかなかった。

 

 善意が空回りする好例を横目に見ながら、ストレッチを終えた八幡はベンチに腰を下ろした。その横に、姫菜がつつ、と距離を詰めてくる。眼前の試合にはまるで興味がないらしい姫菜は、ストレッチで軽く汗をかいた八幡の顔をしげしげと眺めていた。

 

「何だ。何か用か?」

「……八幡先輩、メガネとかかけてみません? 私はほら、メガネキャラですから、色々と見繕ってあげられますよ?」

 

 自他共に友達がいないと認めている八幡は、それが姫菜なりの冗談なのかと疑ったが、メガネの奥にある姫菜の澄んで淀んだ目には、冗談の色は欠片もなかった。

 

 本気ならばなお悪い。八幡は内心の呆れを隠そうともせず、胡乱な目つきで姫菜を見た。陽乃がかつて『死んだ魚のような目』と評した目にかつてあった卑屈な色はなく、その代わりに陽乃から感染したある種の自信が漲っていた。その自信と生来の淀みの融合は言い知れない迫力を生み出しており、見つめた人間に威圧感を与える程になっていたのだが、同じく内面が歪んでいる姫菜にとって、そんなものは何処吹く風だった。むしろ、その威圧感を身体に感じ、嬉しそうに身震いしている。

 

 そんな姫菜を見て、八幡は深々と溜息を漏らした。彼も自分が普通の感性をしていないと自覚していたが、姫菜も相当なものだと改めて実感したのだ。これ以上見ていても、姫菜を喜ばせるだけである。もう係わり合いになるまいと試合に視線を戻しても、姫菜はずっと八幡を見続けていた。話が決着するまで諦めないという、姫菜の強い意思を感じた八幡は、ついに根負けした。

 

「……俺は別に目は悪くない」

「いやー、八幡先輩は絶対鬼畜メガネの才能があると思うんですよね。メガネ越しの冷たい視線で隼人くんを見つめてくれたりすると、もう最高って言うかー」

「俺はお前の腐った趣味に付き合うつもりもない」

 

 何でもない風を装う八幡だったが、内心では少し驚きを覚えていた。何かの確信があった訳ではないのだろう。しかし、メガネというのは地味に的を得ていた。先日陽乃と会ったとき、伊達メガネでもしてみたらと勧められたばかりだった。そういう小癪なお洒落が肌に合わない八幡は当然難色を示したのだが、彼女が提案をしたのならば即ち、それは決定事項だ。女王様の意思の前に、犬の趣味嗜好は問題にならないのである。メガネは間違いなく、近いうちに一緒に買いに行くことになるだろう。

 

 陽乃にそう言われれば学校でもかけることにもなるだろうが、八幡はその可能性は低いと見ていた。ドSな陽乃は犬が羞恥プレイに悶える様を自分で鑑賞することを好む。逆に自分の見ていない所で勝手に何かすることを激しく嫌う。むしろ学校ではかけるな、くらいのことは言いそうだと思った。姫菜の要望には応えつつも、しかし姫菜はそれを知ることはできない。迂遠な意趣返しであるが、これはこれで気分も良い。

 

 あーでもないこーでもないと提案してくる姫菜にそっけない態度を取り続けていると、脈なしと判断した彼女は渋々と白旗を揚げた。

 

「……残念です。八幡先輩に似合うと思うんですけどね、鬼畜メガネ」

「俺はメガネに詳しくないんだが、もしかして鬼畜メガネって種類のメガネがあったりするのか?」

「八幡先輩! すごい! さいこー! そんなメガネあったら私大喜びですよ! やっぱりかけると鬼畜になるんですか!? かけてくださいよ、そのメガネ!」

「気が向いたらな」

 

 鼻息荒く詰め寄ってくる姫菜の態度に、そんなメガネは実在しないことは理解できた。余計なネタを提供してしまったようで気分が良くないが、薄い本が厚くなるくらいは我慢するのが、姫菜と上手に付き合っていくコツである。

 

「あ、雪乃くん、そろそろヤバイみたいですよ」

 

 姫菜の言葉にコートに視線を戻すと、雪乃の動きが目に見えて鈍り始めていた。あちらのチームは隼人と優美子に変わっている。スコアを見れば、僅かにあちらがリードしていた。雪乃に変わって大きく得点を重ねたはずだが、目を離していた隙に逆転されたようだ。

 

 ここから雪乃が逆転するという、少年漫画のような展開はないだろう。ベンチから八幡が交代を告げると、雪乃は素直にそれに従った。交代に不満はあるだろうが、ゲームを決めきれずにガス欠になってしまったのは事実だ。雪乃は文句を言える立場ではない。

 

「ここから勝てる?」

「善処はするが、期待はするな。だがまぁ、ここであの葉山某に負けたとなると、陽乃に何を言われるか解らないからな。死力は尽くす」

「乗馬用の鞭で叩かれたりするのかしら」

「それは良いな。その程度で良いって言うなら、俺は喜んで鞭で打たれるね」

 

 雪乃の冗談に、八幡は冗談で返したが、雪乃の方はそれを冗談とは思わなかった。路肩の動物の糞を見るような目で八幡を見ると、ささと距離を取ってベンチに走った。後輩の態度に聊か傷ついた八幡だったが、目下の問題は彼女の機嫌や好感度ではなく、目の前の試合だ。

 

 隼人がバリバリのテニス部であるならば、陽乃でも目こぼししてくれる可能性は微粒子レベルで存在する。だが彼はサッカー部だ。テニスは苦手ではないようだが、得意ではない。そこだけを見るならば、八幡と条件は一緒だ。そういう相手に負けることを、陽乃は許してはくれない。彩加からの依頼があるなしに関わらず、勝負を受けた以上比企谷八幡は勝たなければならないのだ。

 

「1ゲームも取ったことがないのよね?」

「テニスは陽乃としかやったことがないからな。授業でもやったが、その時はボールと壁だけが友達だった」

 

 陽乃と恋人になったことで八幡の視野は広がり能力的に大きく成長したが、その事実は交友関係を広げたりはしなかった。高校に入ってからできた友人は同級生の中ではめぐりのみで、教師まで含めてようやく静が増えるくらいだ。片手で数えても十分に足りる。

 

 そしてその中に、授業で一緒にテニスをやってくれる人間はいない。結果、体育で二人組になる時はいつも余る訳だが、中学生の時ほどその環境に悲しさを覚えることはなかった。心が強くなった訳ではない。心中に引かれた線が、より鮮明になったと言うべきだろうか。何が大事で、何がそうではないか。はっきりと意識した八幡は、そのくらいでは悲しいとか寂しいとか思わなくなったのだ。

 

 それだけ孤独な八幡であるから、テニスができるということはあまり知られていない。知っているのは友人として数えられる二人と陽乃。それから小町くらいのものである。実力がどの程度のものかは八幡自身にも解っていないが、隼人は少なくとも陽乃よりは弱く、動きも単調である。彼女に比べればまだ勝てる可能性はあるだろう。八幡は隼人の実力をある程度看破しているが、隼人はそうではない。その情報の差も、優位に働くはずだ。

 

 ケースから取り出したラケットには、流麗な文字で雪ノ下陽乃の名前が刻印されている。陽乃としかテニスをしたことがない八幡が持っている、唯一のラケットだ。

 

 すれ違う時、八幡のラケットに姉の名前を見た雪乃は、不満そうに眉根を寄せた。これは雪ノ下の家も姉の名前も関係なく、奉仕部として自分たちが請け負った仕事だ。ここに姉の名前を出されるのは、自分たちの仕事を横取りされたようで気分が悪いが、それを口にするのはあまりにも狭量だ。何より八幡は陽乃の恋人で、あちらよりの人間である。文句を言ったところで、聞きはしないだろう。

 

 不満を燻らせた雪乃を他所に、八幡は雪ノ下陽乃の名前と共にコートに入る。彼を出迎えたのは、葉山隼人のきらきらとした笑顔だった。人の黒々とした内面を見抜くことが得意な八幡をして、その笑顔には裏が見えなかった。心の底から微笑んでいるのだろう。尊敬できる美徳であるが、波長が合う気は全くしない。

 

 だが、それくらい合わない方が、割り切った友人付き合いができるのかもしれない。事故の件で助けてもらったこともある。自分でも意外なことに、八幡の隼人に対する評価はそんなに悪いものではなかった。

 

「改めて、葉山隼人です。良いゲームをしましょう」

「比企谷八幡だ。俺が勝っても悪く思うなよ」

 

 あくまで勝つつもりの八幡に、隼人は苦笑を浮かべる。勿論、隼人も勝つつもりであるので、その言葉には答えない。よろしく、と短く応えてパートナーのところに戻る隼人の背中を眺める八幡の隣に、彩加が駆け寄ってくる。

 

「せんぱい……」

「あと1ゲームくらいは体力は持つな? これに懲りたら、体力作りはもっときちんとしろよ」

「がんばります」

 

 疲れてはいるようだが、彩加もまだ集中は切れていなかった。関係ない素人に声をかけてでも、テニスの上達を望んだだけのことはある。そこらの女子よりもよほど少女のようで愛らしい彩加が、この中で最も純粋に闘志を燃やしていた。八幡は改めて、人は見かけに寄らないということを思い知った。

 

 ラケットを握り、ボールを持つ。ゲームカウントは5-5。タイブレークなしの1セットマッチ。つまり、これが最後のゲームだ。誂えたように、サーブ権は奉仕テニス部連合にあった。

 

 確かに隼人はテニスに強い。相方である優美子も経験者だけあって、中々の腕であり、二人とも間違いなく八幡よりも上手だ。彩加がテニス部であることを考慮に入れても、テニス奉仕部連合が勝てる見込みは少ないが、付け入る隙はいくらでも見出すことができた。

 

 相手は陽乃ではない。そのことが、八幡の心を軽くしている。

 

 必ず勝つ。八幡の心にも、炎が燃えていた。

 

 


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