黒服の冷徹な言葉に、自分自身の価値を見失い、心を折られてしまったホシノ。 絶望の淵で契約を受け入れようとする彼女の前に、一人の大人が駆けつける。
「君が自分を否定し続けるなら、私が何度だって君を肯定する」
これは、孤独な少女の不眠を終わらせるための、先生による「責任」の物語。
砂嵐が視界を遮るアビドスの夜。疲弊しきったホシノの前に、影のようにその男は現れた。
「……またあんたか。しつこいね。何度も言ってるけど、私はお前なんかの提案には乗らない。お前は信用できないんだよ」
吐き捨てるように言い、ホシノは黒服から背を向けて立ち去ろうとする。重い足取り。砂を噛むような虚無感。それを振り切るように歩き出そうとした背中に、冷徹な声が突き刺さった。
「それで、あなたに何が出来るというのです?」
ホシノの足が、ぴたりと止まる。
「……何?」
「言葉の通りですよ、小鳥遊ホシノ。あなたはなによりも大切な人を救えなかった。そして、今現在も誰一人として救えていない。……膨大な借金を抱えて苦しんでいるアビドスの仲間達も、砂に埋もれていくこの学園も。違いますか?」
「……っ、それは……っ」
「今のあなたは、ただ『死に場所』を探しているだけだ。かつての先輩と同じように、無意味な足掻きを続け、摩耗し、最後には砂に消える。……それがあなたの望む『責任の取り方』ですか? 随分と独りよがりな贖罪だ。あなたのその盾は、今度は誰を守るためのものですか? 壊れた先輩の遺品を抱えて、死者の真似事をするのがあなたの望みですか?」
黒服はゆっくりと、逃げ場を奪うように歩み寄る。
「思い出してください。あの時、あなたがもう少し早く動いていれば。あなたがもっと強くあれば。……彼女はあんな、誰にも看取られない冷たい場所で終わる必要はなかった。彼女を殺したのは、砂漠でもカイザーでもない。あなたの『無力』だ」
「やめろ……。やめてくれ……っ」
ホシノの身体が微かに震え始める。耳を塞いでも、その声は脳髄に直接響いてくる。
「アビドスの生徒たちは優しい。だから、あなたを責めない。……けれど、それは救いですか? いいえ、逆だ。彼女たちの笑顔を見るたび、あなたは心の奥底でこう思うはずだ。『自分だけが笑っていていいはずがない』と」
黒服はホシノの耳元で、甘く、毒のような囁きを落とした。
「あなたは生きている限り、永遠に彼女への裏切りを続けることになる。……ですが、私の提案に乗ればどうでしょう? あなたという『最高の検体』を差し出せば、アビドスの負債はすべて帳消しにしましょう。あなたが消えることで、あの子たちは救われる。……死に場所を探しているのなら、これ以上ない有意義な終点だと思いませんか?」
「…………」
その瞬間、ホシノの中で何かが音を立てて崩れ去った。 視界が急激に色を失う。 握りしめていた拳から力が抜け、盾を持つ手さえもひどく重く感じられる。
(……ああ。そうだ。結局、私は。生きているだけで誰かを不幸にするなら。私がいない方が、みんなは……)
「……いいよ」
乾いた声が、砂漠の風に溶ける。 ホシノは振り返らないまま、ただ虚空を見つめて呟いた。
「私を、好きにしていい。……それで、あの子たちが救われるなら。……私は、もう……」
黒服は、静かに一枚の書類を差し出した。 そこに記された無機質な契約の条項が、アビドスの、そして一人の少女の運命を安売りするかのように横たわっている。 その顔――あるいは顔のような空洞には、勝利を確信したような不気味な余裕が漂っていた。
「先生、これは極めて合理的な提案です。彼女……小鳥遊ホシノを我々に引き渡せば、アビドスの負債はすべて帳消しにしましょう。彼女もそれを望んでいる。自分のような『価値なき残骸』が役に立つのなら、とね」
黒服はくすくすと笑いながら、先生の顔を覗き込む。粘りつくような声が、夜の静寂を侵食していく。
「あなたも『大人』なら理解できるはずだ。たった一人の生徒を切り捨てるだけで、残りの生徒全員が救われる。これほど効率の良い救済が他にあるでしょうか? さあ、賢明な判断を」
先生は、差し出された書類には目もくれなかった。ただまっすぐに、目の前の闇を見据える。 その瞳に宿る静かな怒りに、黒服の笑みがわずかに強張った。
「悪いけど、あなたの提案には微塵も興味がない」
「ほう、それはなぜ?」
「私は、生徒を切り捨てるなんてこと絶対にしない。アビドスの子達を、ホシノを、誰も見捨てたりはしない」
「くっくっく、まさに先生の鏡ですね。ですが、そんなことが出来るとお思いで? あなたに戦う力なんてない。そんなあなたに、何が出来るというのです?」
嘲笑う黒服の前で、先生は懐から『大人のカード』を取り出した。 それは、世界の理を書き換える代償として、自らの命を削る禁忌の輝き。青く冷たい光が、二人の間を真っ二つに切り裂く。
「……なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? 理解できません。いったいなぜ、あなたはたかだか一人の生徒のために、そこまでするのです?」
黒服の声に、初めて狼狽が混じる。理解不能な「不条理」を前に、怪物はその身を震わせた。
「ホシノは、私の大切な生徒だ。何があっても、私は生徒を、ホシノを絶対に助ける。それが大人としての責任だから。たとえ、いかなる代償を払うことになっても」
「……そうですか。確かに、あなたは宣言通りホシノを助けられるでしょう。ですが先生、一つ忠告を。あなたがこれから先その力を使い続ければ、あなたの命は近いうちに必ず果てる。そうなったとき、残された生徒たちはいったいどうなるのでしょうねえ」
黒服の呪詛のような問い。けれど、先生の心に迷いはなかった。
「彼女たちはあなたが思っているほど弱くない。私が死んでも、必ず自分達でまた立ち上がるさ。それに、彼女たちが卒業するまで、私は死ぬわけにはいかないんだよ」
先生はカードを強く握りしめ、言い放つ。
「私は、先生だからね」
「くっくっく、本当に眩しい方ですね、あなたは。なら私は、あなたとあなたの生徒の行く末を、ずっと見ていますよ」
闇が揺らぎ、黒服の気配が霧のように薄れていく。 残されたのは、荒い呼吸と、決意を宿した光。先生は迷うことなく、絶望の淵に沈むホシノのもとへと駆け出した。
砂塵が舞い、静まり返った廃墟の奥底。ボロボロになった盾を傍らに、すべてを諦めた瞳で座り込むホシノの元へ、一人の男が駆け寄る。
「ホシノ!」
聞き慣れた、けれど今は一番聞いてはいけないはずの声。ホシノは力なく顔を上げた。
「…先生…」
その表情には、驚きよりも深い拒絶の色があった。自分のような価値のない存在のために、なぜこの人はボロボロになりながらここまで来るのか。
「…何で来たの? 私なんか助けても、なんの意味もない。私一人がいなくなるだけで、アビドスのみんなは助かる。それって、素晴らしいことでしょ? なのに、何で…」
縋るような、それでいて突き放すようなホシノの問いに、先生は一歩も引かずに答えた。
「それだと、ホシノが救われないから」
「…!?。…何で、何でこんな私なんかに、そこまでするの?」
堰を切ったように、ホシノの口から自罰的な言葉が溢れ出す。それは黒服に植え付けられた呪いであり、彼女がずっと自分自身にかけてきた鎖だった。
「私は、何も守れなかった。あんなに大切だった人を守れなかったのに、今でも何も守れてない。昔の私と何も変わらない。私はいつまでも、何も守れない、何の価値もないクズだよ」
「それは違う。ホシノはとても仲間思いで、とても優しい女の子だ」
「……先生に、私の何がわかるの? 私のことなんて、何も知らないくせに…」
顔を伏せ、声を震わせるホシノ。その肩を包み込むように、先生の声はどこまでも穏やかに響く。
「私は知っているよ。ホシノが、ユメ先輩を守れなかったことをずっと後悔してること」
「……!?」
「二度とあの日を繰り返さないために、必死にアビドスを守ろうとしていることも」
ホシノの肩が大きく跳ねた。誰にも見せていないはずの、彼女の「夜」を先生は知っていた。
「いつも眠たそうにしているのは、ただ寝るのが好きだからじゃない。みんなが眠る夜、一人でパトロールしているからだよね? 君はそうやって、みんなを守るために自分を削りながら頑張ってきた」
「……でも、結局何も守れてない。結果が出てない努力なんて、何の意味もないでしょ?」
必死に自分を否定しようとするホシノ。しかし、先生はその震える手をそっと取り、力強く握りしめた。
「それは違う。ホシノはちゃんとアビドスのみんなを守っていた。それはホシノにとっては小さなことかもしれないけど、アビドスのみんなはホシノにとても感謝しているよ。それに、一人で出来ないなら、私がホシノの力になる。もちろん、アビドスのみんなも」
「……なんで……」
なぜ、そこまで私を信じてくれるのか。ホシノの瞳から、ついに熱いものが溢れ出す。
「……ホシノ。君が自分を否定し続けるなら、私が何度だって君を肯定する。君が自分を許せないなら、私が君の分まで君を許す。君が辛いときは私が支える。君が助けを求めているなら、いつだって、どこへだって私が駆けつける」
一歩、また一歩と距離を詰め、先生はホシノの視線を真っ直ぐに見つめた。
「もう……一人で頑張らなくていいんだよ」
「……なんで、そこまで……」
「ホシノは私の、最高に自慢の生徒だ。そして私は──君の、先生だからね」
その言葉は、ホシノの心を縛り付けていたすべての呪いを焼き切った。 長い、あまりにも長い冬が終わりを告げるように、彼女の顔に数年ぶりの、年相応な少女の涙が伝う。
「……本当に、先生には敵わないな。……こんな私でも、これからもみんなと……先生と一緒にいてもいいの?」
「当たり前でしょ。むしろいてもらわないと困るよ。ホシノがいないとみんな寂しがるし、もちろん私も」
ホシノは涙を拭い、ふっといつもの、けれどどこか「憑き物が落ちたような」柔らかい笑みを浮かべた。
「へえー。言ったね、先生。じゃあこれからも一緒にいるから、おじさんをたぶらかした責任、ちゃんととってね?」
「もちろん。じゃあ帰ろうか、ホシノ。みんな待ってるよ」
差し出された先生の手を、ホシノは今度は迷わずに握り返した。
「オッケー」
アビドスの夜風はまだ冷たい。けれど、繋いだ手のひらからは、これ以上ないほど温かな体温が伝わっていた。
部屋の隅に置かれた、色褪せた一枚の写真。 そこには、自分よりもずっと高い背丈で笑う「彼女」の姿がある。
ユメ先輩を救えなかった後悔が、消えてなくなったわけじゃない。 この先、アビドスを襲うであろう理不尽や、後輩たちに降りかかる不幸……そのすべてを、完璧に撥ね退けられる自信だって、まだない。
きっと私は、これからもこの世界のどうしようもない悪意に直面して、そのたびに立ち止まり、絶望を繰り返すんだろう。 けれど。
「……ふふ。でも、もう大丈夫だよね」
胸の奥を刺していた冷たい痛みは、もうない。 私の隣には、手を取り合ってくれる後輩たちがいる。 そして、砂を噛むような絶望 の中にいても、「君を肯定する」と言い切ってくれた、あの人がいる。
私は、もう一人じゃない。
これからは、みんなと一緒に。先生と一緒に。 迫りくる不幸の、その先にある明日へ、一緒に抗っていけばいい。
(見ててください、ユメ先輩。私は、もう……大丈夫ですから)
吸い込んだ夜の空気は、以前よりもずっと、肺の奥まで澄み渡って届いた気がした。
重い体を引きずって入る義務としての眠りではなく、明日を迎えるための休息。
ホシノはゆっくりと瞼を閉じ、吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。