地理選択のメロス   作:綿谷雫


原作:走れメロス
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メロスには政治が分からぬ。メロスは地理選択だった。

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メロスには政治が分からぬ。 ――太宰治『走れメロス』


地理選択のメロス

 メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治が分からぬ。メロスは地理選択である。もう使わぬと決めてからは、政治も現代社会も倫理も授業を聞かずに、羊と遊んで暮らして来た。けれども学んできた地理に対しては、人一倍に敏感であった。飼っている羊はメリノ種でスペイン原産、主な用途は羊毛などといった知識だけはスラスラと出てきた。

 きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた()のシラクスの市にやって来た。王もいる首位都市(プライメートシティ)である。国で最も人口の多い都市であるだけでなく、2位以下の都市との人口を大きく引き離している。政治や経済、文化などの機能が一極集中しているため、生活するうえでは非常に便利だが、機能の分散や早急なインフラシステム整備、交通問題、環境・衛生問題なども慢性的に抱えている。

 メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。いや、世帯分離をしているので、世帯構造は単独世帯が2つ、家族形態としてその他の親族と同居という感じなのだが、細かいところの呼び方は多分これでいいんだろうか。メロスは公民が分からぬ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿(はなむこ)として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。

 メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。この都市は、放射環状型の都市構造を持っている。まるでドイツのカールスルーエのように、中心から放射状に伸びる道路と、それを取り囲む環状道路が幾重にも重なっている。環状道路がない場合、異なる放射方向の移動を考えたとき、全て中央を通ることになり、中央が混雑する。これを解消するために環状道路が必要なのである。

 それはさておき、メロスには竹馬(ちくば)の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。石工――それは第二次産業に分類される職業である。第二次産業とは、第一次産業で得られた資源を加工・製造する産業であり、製造業・建設業・鉱業などが含まれる。近年では第三次産業の比率が高まり、第二次産業の就業者は減少傾向にあるが、セリヌンティウスのような職人は、地域経済の基盤を支える重要な存在である。その第二次産業の就業者の友をこれから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。

 歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。むろん、昼夜間人口比率が100を超える都市部であるから、夜になれば人は減る。けれども、なんだか、そのせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。

 老朽化した集合住宅ばかり残され、不良住宅地区(スラム)も形成されているようだ。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。インナーシティ問題ではないか。

 路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった(はず)だが、都市計画が分かる人間はどこへ消えたのかと質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。

 しばらく歩いて老爺(ろうや)に逢い、こんどは語勢を強く質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

「王様は、地理選択者を殺します。人を惑わす、というのです。地理を語れば殺されます。きょうは、六人殺されました。」

(あき)れた王だ。生かして置けぬ。」

 メロスは、単純な男で、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏(じゅんら)の警吏に捕縛された。警吏の制服は通気性と吸湿性を兼ね備えたリネン混の生地が用いられている。夏は乾燥し、冬は比較的湿潤である、シラクサの気候に適している。シラクサはケッペンの気候区分でいえばCsa、すなわち地中海性気候である。

 王の前に出されて、メロスは叫んだ。

「愚かなる王よ! 地理を捨てるとは、世界を知らぬことと同じ。気候変動の影響も、人口移動の理由も、都市の膨張も、すべて地理に根ざしているのだ!」

王は憫笑した。

「では問おう。なぜこの国の南部は過疎化している? なぜ北部の都市ばかりが栄える?」

「南部は中山間地域が多く、交通の便が悪い。若者は職を求めて都市へ流出し、限界集落が増えている。だが、地理を学べばこそ、地域資源を活かした再生の道も見える。棚田の保全、観光資源の活用、地場産業の振興……」

「黙れ! おまえのような地理選択者が、国を惑わすのだ。処刑だ。」

この国の権力は王の手に集中され、王の意思のままに政治が行われる。民主政が腐敗している、と叫ぶものもいたが、メロスにとってはどうでもよかった。メロスには政治が分からぬ。

「よかろう。だが、最後に一つ、妹の結婚式を見届けさせてくれ。三日で戻る。信じてくれぬなら、友を人質に置いていこう。」

「願いを聞いた。三日目には日没までに帰って来い。」

 セリヌンティウスは、いきなり王城に召され、縄打たれた。困惑するセリヌンティウスにメロスはただ莞爾(にっこり)と笑った。メロスには倫理が分からぬ、

 メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。夏の大三角はもちろん、二等星である北極星もカシオペヤや北斗七星の助けなしで見つけられる。メロスは地学選択ではないのでそんなことはどうでもよかった。

 

 メロスは村へ到着し妹に明日結婚式をするといった。妹は頬をあからめた。

「うれしいか。さあ、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」

 メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく眠りに落ちてしまった。

 メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、葡萄(ぶどう)の季節まで待ってくれ、と答えた。温帯で広く栽培されている果樹作物で、世界的には発酵させてワインとして消費される方が多い。乾燥させて保存性の高いレーズンに加工することもある。栽培できる作物が少ない地中海性気候の地域にとって重要な作物である。

 メロスは、どうか明日にしてくれ給え、と更に押して、婿の牧人と議論をつづけて説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。アゾレス高気圧により初夏は晴れの日が続くこの地域では珍しい大雨である。祝宴に列席していた村人たちは、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも()らえ、陽気に歌をうたい、手を()った。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。

 メロスは、一生このままここにいたい、と願ったが、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう。その頃には、雨も小降りになっていよう。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、

「おめでとう。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もう決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、地理を選択しないことと、おまえに言いたいのは、それだけだ。」

 花嫁は、夢見心地で首肯(うなず)いた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、

「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊と地理の知識だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」

 花婿は()み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会釈(えしゃく)して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

 

 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。

 村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止やみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。

 メロスは(ひたい)の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。好きな小歌をいい声で歌い出した。

 〽まるたけえびすに おしおいけ

方格設計が取り入れられた都市の通りの名の数え歌である。

 

 ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って()いた災難、きのうの豪雨で山の水源地は氾濫(はんらん)していた。地面の土砂を削り取る河川の浸食作用がこれでもかと見せつけられていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。泳ぎ切るより他に無い。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、なんのこれしきと()きわけ掻きわけ、押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来た。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。

 陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼった。

 峠を越えて、ほっとした時、眩暈(めまい)を感じ、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情けない。まさしく王の思う(つぼ)だぞ、と自分を叱ってみるのだが、やんぬる(かな)。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ下で、水が流れているらしい。

 よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく(ささ)やきながら清水が湧き出ているのである。伏流水が地上に湧き出る湧水である。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で(すく)って、一くち飲んだ。歩ける。行こう。もう扇状地の扇端まで下ってきた。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生れた。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、クチクラ層が発達した厚く硬い葉はギラギラと輝いている。

 日没までには、まだ間がある。走れ! メロス。

 メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。まだ陽は沈まぬ。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風怒涛(シュトゥルム・ウント・ドラング)の如く刑場に突入した。間に合った。

「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、(かじ)りついた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

 

「セリヌンティうっ…」

 セリヌンティウスは、すべてを察した様子とかもなく、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。とくにこれといった説明もなく身代わりにされた苛立ちがあった。

 群衆の中から、歔欷(きょき)の声が聞えた。暴君ディオニスは、静かに二人に近づき、こう言った。

「おまえらは、わしの心に勝ったのだ。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。」

「万歳、王様万歳。」

 ひとりの少女が、()のマントをメロスに捧げた。佳き第二次産業従事者は、気をきかせて教えてやった。

「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。このままでは、刑法第174条に定められた公然わいせつ罪に該当するぞ。」

「刑法……?」

メロスは法律も分からぬ。




参考文献
・太宰治『走れメロス』https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1567_14913.html

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