▶・高校を卒業したら町を出る
―楓side―
僕と結翔くんが結ばれてから、十年が経った。
高校卒業後、僕たちは町を出た。在学中にバイトで貯金を作ってあったので、引っ越しから初任給が出るまでの間も比較的余裕があった。
進学してアルバイトしながら……ということも考えたが、学費と生活を考えると厳しいものがある。結局、結翔くんも僕も、高校卒業と同時に就職した。
母には置き手紙だけ残した。失踪などと大事になってほしくはなかったし、自分の意志で母のもとを去ったのだという意思表示は必要だと思ったからだ。
ここまで育ててもらった感謝と別れの言葉をしたため、母が仕事のタイミングで荷物を纏めた。
兄も同じように家を出ているので、今更ショックも受けないのではないだろうか。
母が今どうしているかは、知る由もない。
今年の冬は例年より冷え込む、と言われてはいたが。ここまで寒くなるのも珍しい。
厚着していたつもりだが、自宅付近に戻る頃にはすっかり体が冷えていた。
階段を登って廊下を歩く。突き当りの部屋が、僕たちの住処だ。
それを示すかのように、表札には筆書き風のフォントで〈鳴海〉としっかり書かれていた。
「ただいま」
パートを終えて家に帰る。駅から徒歩十五分の場所にあるアパートは、家賃のわりに綺麗な作りをしていた。
三人だと少し手狭だが、あと数年は暮らせるだろう。
「おかえり、楓ちゃん。今日もお疲れ様」
「お義母さん。いつもありがとうございます」
結翔くんは、家を出ることをしっかりと家族に相談した。
許可はあっさり出て、僕との関係も認められたので、同棲前にご挨拶も済ませた。結果的に、それが功を奏した。
「ほら、雛菊ちゃん。ママが帰ってきましたよ~」
お義母さんが抱えている女の子──雛菊(ひなぎく)は、僕と結翔くんの子どもだ。
まだ一歳半なので、僕がパートに出ている間はこうしてお義母さんが面倒を見てくれている。
もし結翔くんまで親と決別するような形で去っていたら。僕たちの生活はもう少しゆとりのないものになっていただろう。
お義母さんには頭が上がらない。
「よっ……と。雛菊、ただいまー」
僕が抱き上げると、雛菊はケタケタと笑った。
丸く膨らんだ頬はなめらかで柔らかく、見ているだけでこちらの口角も上がってしまう。
短い手で必死にこちらを掴む様子は、まさに目に入れても痛くないという言葉が相応しい。
わが子というのは、これほど可愛いのか。想像もしていなかった。
「じゃあ、私は帰るわね」
「本当にいつもすみません。ありがとうございます」
「いいのよ。毎日孫の顔が見れるなんて、幸せなことだわ。楓ちゃんも身体に気を付けて、何かあったらすぐに連絡してね」
お義母さんは僕がパートの日は毎日来てくれている。
車で一時間ほどかかるにも関わらず、本当にありがたいことだ。
玄関から出ていくお義母さんを、頭を下げながら見送った。
―結翔side―
五連勤を乗り切った週末。営業回りの疲労を引きずり、満身創痍で帰宅する。
時刻は二十一時になろうとしていた。
「ただいま~……」
扉を開けると、醤油のいい匂いがした。
帰ってきたらおいしい料理が待っているとは、なんと贅沢なことだろう。
玄関でコートを脱いでいると、奥から楓と雛菊が歩いてきた。
「おかえり。今日もお疲れ様」
「ただいま。楓もお疲れ様。夕飯の支度までありがとな」
挨拶を終えると、そっと楓の唇に自分の唇を重ねる。
同棲直後は恥ずかしかったが、今となっては自然な流れになっていた。
そして楓の足元に視線を向けると、そこには小さく可愛い天使の姿。
「ひな~! ただいま~! いい子にしてたか~?」
妻と娘のお出迎え。一日の疲れなど、一瞬で消し飛んだ。
俺は雛菊のまるまるとした頬に自分の頬を重ねようとして──
「やー!」
と、俺の顔に手を伸ばし、全力で距離を取っていた。
「ひ、ひな~……もう反抗期なのか……?」
「あはは。パパのおヒゲが痛くていやなんだよねー、雛菊?」
楓がしゃがむと、雛菊は一目散に楓へと飛び込んでいった。
「さ、今日は肉巻きごぼうだよ。温めちゃうね」
「やったぜ! あれ美味いよなぁ……」
楓の料理スキルは、元々かなりずば抜けていた。それが一緒に過ごす内に俺の好みを把握していったらしく、今では苦手な食材を使われても美味いと感じるものしか出てこない。
おかげで、楓と付き合い始めた頃と比べると十キロも太ってしまった。このままではいかんぞ。
「お酒飲む?」
「いや、やめとくよ。さあ雛菊、こっちにおいでー」
勤務時間の都合で、楓が家事のほとんどを担ってくれている。せめて家にいる時間くらいは、できることはやっておきたかった。
それに、酒も好きという程ではない。雛菊が産まれる前には、たまに楓と二人で飲んだりもしていたが。最近はさっぱりだ。
楓の足元にいる雛菊に呼びかけてお気に入りのボールを転がすと、雛菊は目を輝かせて追いかけ始めた。
体は仕事で疲れているのだろうが、子どもと遊んでいる時はまったく気にならないのだから不思議なものだ。
「そろそろ保育園の申し込みも進めないとね」
楓がそう言いながら、温めた料理を運んできてくれた。
俺は引き続き雛菊の注意を引き付ける。
「空きがあるかなぁ……この近くってそんなに保育園多くないんだよな」
「うーん。でも駅チカに二つくらい隣接してるから、そこらへんも狙えばなんとかなるかも?」
話しているうちに、机の上には食事が並べられていた。
肉巻きごぼうと、豆腐とわかめの味噌汁、そしてレタスとブロッコリーのサラダ。添えられているゆで卵は黄身がわずかにトロけている絶妙な具合だ。
ベビーチェアの前には、やわらかめのごはんと薄めた味噌汁、かぼちゃなどが並んでいる。これは雛菊用だ。
「さあ、ひなー。ごはんだよー」
ベビーチェアに座らせると、雛菊は即座にスプーンを握った。
少し前までは自分で食べるなど到底できない様子だったのに、気づけば自ら食事を口に運ぶようになったのだ。
小さな手でしっかりと握ったスプーンを、勢いよくかぼちゃに向けて振り下ろした。かぼちゃはスプーンの衝撃に耐え切れず、皿から飛び出て机の上に転がる。
しっかりと口まで運べるのは、数回に一回だ。そのうち飽きて手づかみで食べ始めるし、口の周りはべちゃべちゃになる。
「雛菊、そーっとだよ。そーっと」
楓がかぼちゃを皿に戻し、スプーンをゆっくり下ろす仕草を雛菊に見せる。
雛菊はそれに倣い、ゆっくりとスプーンを差し込むと、今度は綺麗に口まで運ぶことができた。
「上手だねー」
「ひなー! 天才だ! えらいぞー!」
俺たちが褒めると、雛菊は満面の笑みを浮かべ、再びカボチャにスプーンを差し込んだ。
しばらくは大人しく食事をするだろう。これで俺たちも夕飯を食べ始めることができる。
「「いただきます」」
楓の食事を少しずつ味わって食べたいが、雛菊のことを考えるとそうも言ってられない。
気持ち早めに食事を進めていく。
「美味い! いつ食べても楓の料理は最高だな」
「ありがとう。毎日そう言ってもらえると、こっちも作り甲斐があるよ」
時折雛菊の口元をぬぐいながら自分のごはんを食べ進める。
テレビはバラエティ番組を映し出しているが、特に興味もない。楓も見ている様子はなかったので、ニュースに変えさせてもらう。
《続いてはアビカニュースです。先日優勝しましたプロAリーグの燎千夏選手が、子ども向けのアビカ教室の支援を発表。本大会の賞金全てを寄付することを宣言しました。国外で活躍を続ける久遠白栞選手の動向にも注目が集まっており、昨年の賞金総額は五億円を超えるなど……》
画面に、幼馴染の姿が映し出された。
もう七年ほど会っていない二人は、すっかり大人になっている。
とはいえ、見かける機会は多いのだ。テレビや新聞、ネットニュースを見ていれば頻繁にその姿を目にする。
千夏はプロになってスポンサーもついたためか、あの頃と比べると髪もしっかり整えられている。メイクも施され、活発な高校生から少し強気そうな大人の女性になっていた。
正直、これを千夏がやれるとは思えないので、おそらく専任のメイクさんが付いてるのだろう。メディアに露出するタイミングでは毎回華やかだ。
容姿と実力、そしてプレイヤーとしての在り方が多くのファンを魅了。先日、ついに努力が実を結び、プロリーグで優勝。晴れて日本一となった。
最近じゃ、プロリーグの男性選手と熱愛発覚なんて記事があった。後日、徹夜でアビカの練習に付き合わされていただけだと男性側から発表があったのだが。
俺も含め、ファンの反応は同じ。「そんなことだろうと思った」だった。
白栞は……あの後、ほとんど学校に来なくなった。
インフルエンサーの活動も辞めて、連絡もつかない状態に。
後日知ったことだが、海外へ渡航しアビカの大会に参戦。また、有名選手に片っ端から勝負を挑み続けていたらしい。当時は海外では〈Tujigiri〉なんて異名が付いていた。
その後開催された世界大会で優勝し、多数のスポンサーを獲得。プロリーグにも登録されて高校生でありながらプロになると、一度帰国し日本のプロに片っ端から勝負を挑み、全員をなぎ倒した。
それを、各国を回って繰り返している。
腰まで伸びた黒髪は乱れ、前髪の僅かな隙間から除く眼には光を感じられない。対峙した選手は悉く畏怖の念を抱くその様相は。
今や、〈修羅〉と呼ばれていた。
実は、世界一になったタイミングで一度だけ連絡がきた。
おめでとうとだけ返したのだが、それっきり連絡は無い。
「いやあ、こうして見てると凄いね。元クラスメートが二人もプロなんて」
「ほんとにな。でも、楓もあのまま続けてたらこうなってたかもしれないぜ」
それだけ、あの頃の楓の成長曲線は凄まじいものだった。もしかしたら、プロにだってなれたかもしれない。
結局バイトのために結構な時間を使ってしまって、アビカは辞めてしまったのだが。
かく言う俺も同様で、十年続けたアビカを辞めて、バイトや楓との時間に充てていた。
今じゃたまに見る配信くらいしか、アビカに触れる機会はない。
「うーん。確かにこの賞金は魅力的だけどね」
「賞金かよ……」
「これだけ稼げるなら、お夕飯ももっと豪華にできるし。将来的に雛菊の学費だって余裕になるからね」
リアルな話だった。まあ、それはそうか。
夢の先に伸びている道だって、踏みしめているならそこは現実なのだから。
「とはいえ、後悔してるわけでもないよ。僕は『こうなれなかった』んじゃない。『こうならないことを選んだ』んだ。今いるこの場所は、僕が選んだ。君との未来を選んだ」
生涯を君と共に過ごすことを選んだ。それは、俺も同じことだ。
だから──
「だから、僕は幸せだよ」
──二人が選び取った未来を、同じ道を歩める幸せを。
楓ルート END1
【あなたと同じ気持ちで】
これで一旦の完結となります。
初めて小説を書いて、想像以上の難しさに頭を抱えました。
今見返すと序盤の拙さとか、2ルート同時に進めていくのはかなり無理があるなとか、色々思うところはありますが。
何ならコミティアで頒布したセリアルートも同時進行だった上に、執筆期間中に結婚して、家も買って、車に轢かれて……と人生のイベントてんこ盛りでした。
次回作の構想もあるし、千夏ルートも完結させないとだし、まだまだやることは多いのですがこれからも何かしら書き続けていきたいと思います。
改めて、最後までお付き合いいただいた方には本当に感謝してもしきれません。ありがとうございました。
楓ルートのもう一つのエンディングは構想自体はあり、そう遠くない内に書きたいと思っています。