亀更新かつ大した内容でもないですが気に入ったら見てあげてください。
2026.01.15 改稿
序章-1
夜の待ち人 序章-1
昭和七十年、十月。 伊勢の山々は、燃えるような紅葉に彩られていた。
だが、その美しさはどこか毒々しく、夕刻の陽光は血のような赤を地面に引きずっている。
十歳の「加藤 省吾」(かとう しょうご)にとって、その神社は格好の遊び場だった。
近所の子供たちが「あそこは出るから」と忌避する裏山。
昭和の高度経済成長がもたらした喧騒、止まらない建設の音、排気ガスの匂い。
それら全てが届かない静寂が、幼い彼には心地よかったのだ。
しかし、その日は違った。
「……あれ?」
気づけば、遊びに夢中になっていた省吾の周囲から、色彩が失われていた。
つい先ほどまで視界を焼いていた茜色は、急速に彩度を落とし、墨を流したような濃紺へと塗り替えられていく。
街の喧騒は遠ざかるどころか、まるで真空に放り出されたように一切の音が消えた。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
トクン、トクン。
その鼓動が、自分だけの特権ではないことを知ったのは、その直後だった。
背後、カサリと枯れ葉を踏む音がした。
だがそれは、足を持った者の立てる音ではない。
濡れた雑巾を地面に叩きつけ、そのまま引きずったような、粘り気のある不快な音だ。
「み、ぃ……つ、け……た……」
耳元で、湿った土を素手でこねるような声が響いた。
振り返る間もなかった。
衝撃は、痛みよりも先に「喪失」として訪れた。
少年の細い胸の中央に、黒い泥のような腕が、無造作に突き立てられていた。
それは、名もなき下級の「待ち人」(まちびと)だった。
人々の「いつか」という漠然とした期待や執着が具現化した、出来損ないの怪異。
そいつには顔がなく、ただ「何かを待っている」という飢餓感だけが、泥のような肉体を形成している。
「あ、…………」
省吾の口から、空気と一緒に赤い飛沫が漏れた。
心臓が握りつぶされる感覚。
視界が急速にセピア色へ褪せていく。
地面に伸びた自分の影が、まるで底なし沼のように溶け、自分自身を飲み込もうとしているのを、省吾は他人事のように眺めていた。
これが死か、と思った。
不思議と恐怖はなかった。
ただ、冷たい。
体温が、指先から、足先から、一気に奪われていく。
怪物は省吾の胸に手を突っ込んだまま、獲物の魂を啜ろうと、その醜悪な形を歪めた。
その時だった。
カツ、カツ、カツ。
静まり返った山道に、あまりにも場違いな、乾いた靴音が響いた。
石畳を叩くその音は、まるでメトロノームのように正確で、冷酷なまでに優雅だった。
「あら。汚い食べ方。そんな風に乱暴に突き崩したら、器(からだ)が壊れてしまうじゃない」
鈴を転がすような声。
だが、その響きには、氷のような冷たさが混じっている。
闇の向こうから現れたのは、一人の女性だった。
黒髪をゆるく巻き、夜の闇をそのまま裁断して仕立てたような、光沢のある黒いワンピース。
昭和の街並みには似つかわしくない、時代を超越した貴婦人のような佇まい。
彼女――「進藤 愛羅」(しんどう あいら)は、省吾を貫いている化け物を、道端の石ころでも見るような目で一瞥した。
「……ッ、ギ、ィ……!」
化け物が、震えた。
知性など持たないはずの下級個体が、明確な「捕食者」を前にして、本能的な恐怖に絶叫した。
愛羅は一歩、踏み出す。
それだけで、化け物の泥の体はバラバラに霧散し、悲鳴を上げることすら許されずに消滅した。
省吾の体が、重力に従って地面に倒れ込む。
どろりとした血が枯れ葉を濡らし、意識の灯火が消えかける。
その傍らに、愛羅が静かにしゃがみ込んだ。
彼女から漂うのは、清廉な花の香りと、それ以上に強い、胃の裏を撫で回されるような「死と生が混ざり合った濃密な霊力」の匂い。
「可哀想に。まだ、何も待っていないのに死んでしまうのね」
彼女の白い指先が、省吾の頬を撫でる。
その手は、死体よりも冷たく、それでいて不思議と安らぎを与えた。
彼女は自分の胸元に、細い指をそっと這わせた。
すると、服を透過して、彼女の体内から脈動する光の塊が浮き上がってきた。
それは、待ち人をこの世に繋ぎ止める「核」。
本来は形を持たない概念の結晶。
しかし、彼女が触れているそれは、心臓のように脈打ち、禍々しいほどの熱を帯びた「宝石」のように実体化していた。
「私のスペアを一つあげる。その代わり、あなたに面白い『役目』をあげるわ」
愛羅は微笑んだ。
その笑みは聖母のようであり、同時に、獲物が最も美味しくなる瞬間を待つ蜘蛛のようでもあった。
彼女は、その光り輝く核を、省吾の抉れた胸の穴へと、容赦なく押し込んだ。
「ガハッ……ッ!!!」
止まっていた肺が、燃えるような熱気を強制的に吸い込んだ。
熱い。
熱い。
熱い。
血管の一つひとつに、溶岩を流し込まれたような激痛が走る。
自分のものではない、巨大で、重く、底知れない闇のリズムを持った鼓動が、省吾の全身を駆け巡った。
死んでいたはずの細胞が、異物の力によって無理やり叩き起こされる。
苦痛に悶え、のたうち回る省吾。
視界が赤く染まる。
右目に激烈な痛みが走り、今まで見えなかった「世界の裏側」――宙を舞う霊力の糸や、大地を流れる黒い澱みが、情報の奔流となって流れ込んできた。
「あら、掴んじゃうの? 私の核を」
愛羅の声が、愉悦に震えた。
無意識に、省吾の右手が自分の胸に押し込まれた彼女の手を、強く掴んでいたのだ。
通常、待ち人の核に触れれば、人間など一瞬で霊的に汚染され、自我を失い発狂する。
しかし、省吾の指は、本来実体がないはずの核を、まるで熟れすぎた石榴(ざくろ)でも掴むかのように、ぎりりと握りしめていた。
それは、本来この世に存在してはならない「核に干渉する」異能の萌芽だった。
「いいわ。その手、大事になさい。……いつか、私を終わらせるために必要になるかもしれないから」
愛羅は、血と汗で汚れた少年の顔を愛おしそうに覗き込んだ。
彼女の背後、いつの間にかもう一人の影が立っていた。
黒髪ロングの少女――霧亜(きりあ)だ。
彼女は、主人が「ただの人間」に核を与えたという事実に、隠しようのない不快感を湛えた瞳で省吾を見下ろしている。
「愛羅様。そのような羽虫に……」
「いいのよ、霧亜。この子は、私たちが待ち続けている『いつか』を、少しだけ面白くしてくれそうだから」
愛羅の細い指が、省吾の右目の瞼を優しく閉じる。
遠のく意識の中で、省吾は最後に見た。
夜の闇そのものが巨大な黒猫の姿を取り、自分を包み込む幻想を。
これが、昭和が終わらない世界で、一人の人間が「人を辞め」、待ち人の理(ことわり)に組み込まれた夜の記録。
加藤省吾という少年が、進藤愛羅という「夜」の所有物となった、始まりの儀式。
人を辞めた」夜の記録。