幕間1-3
翌朝、昭和70年の陽光は、活気という名の狂気を孕んで街を照らしていた。
街中にある駅へ向かう坂道。学生服を崩して歩く加藤省吾の後ろ姿を、霧亜は数百メートル後方のビルの屋上から見下ろしていた。
人の視線から外れる術など、六尾の狐にとっては造作もない。
「……また、変わったわね」
霧亜は舌打ち混じりに呟いた。
省吾の歩調、肩の揺れ、そして周囲の「待ち人」の気配に対する反応。
詩乃の核を砕いてから、彼の身体に流れる愛羅の霊力は、より深い階層へと馴染み始めている。
かつては無理やり核を押し込まれた「生ける屍」に過ぎなかった。
だが今は違う。
彼は自ら、その禍々しい力を飼い慣らし始めている。
(あいつの右目……。さっき、わざと視線を外したわね)
省吾は霧亜の追跡に気づいている。
気づいた上で、あえて無視しているのだ。
かつて霧亜の霊圧に震え、不浄な猿と罵られて俯いていたガキの面影は、もうどこにもない。
「愛羅様の牙、か」
佐々木がそう呼んだとき、霧亜は鼻で笑った。
だが、今の省吾から漂うのは、捕食者としての静かな毒だ。
彼は核を「掴み取る」たびに、人間としての情緒を摩耗させ、代わりに待ち人としての純度を上げている。
それは愛羅のスペアとして完成に近づくことを意味すると同時に、霧亜にとっては愛羅の「過去」という聖域を侵食されることに他ならない。
ふと、省吾が信号待ちで立ち止まり、懐から使い古された手帳を取り出した。
そこには、佐々木から共有された「渡良伎陶冶」に関する断片的な調査記録が記されているはずだ。
霧亜の瞳が黄金に燃える。
もし、省吾が本当にあの男——渡良伎陶冶を見つけ出したら。
愛羅は、自らを待ち人に変えた男と再会し、何を願うのか。
感謝か、復讐か。
あるいは、あの洋館で過ごしていた「ただの黒猫」に戻ることを願うのか。
(……そんなことは、させない)
霧亜の背後で六本の尾が逆立ち、周囲の空間がジリジリと歪んだ。
もし、愛羅様が人間としての未練に戻ろうとするならば。
もし、あいつがその手助けをしようとするならば。
「その時は、加藤省吾。貴様の右目ごと、その胸の核を私が食いちぎってやる」
それは、嫉妬を超えた、霧亜なりの絶対的な忠誠だった。
例え愛羅に憎まれようとも、彼女を「夜の待ち人」という高潔な孤独の中に留め置く。
それが、行き場のない狐を拾ってくれた主への、唯一の恩返しだと信じている。
駅のホームへ消えていく省吾の背中に向かって、霧亜はそっと指先を向け、空を裂くように振り下ろした。
目には見えない紫電の残滓が、アスファルトをかすかに焦がす。
「精々、立派な牙におなりなさい。……噛み砕き甲斐があるというものよ」
霧亜は翻り、昼の喧騒の中へと姿を消した。
主の待つ、あの停滞した昭和の香りが漂う屋敷へと。
二人の心臓(核)が共鳴し、一人の魔術師を追い求める「終わらない夜」は、さらに深く、暗く、加速していく。