地名やディテールを省いて読みやすくしたつもりが、かえって読みづらいのではと感じたためです。
2026.1.16改稿完了しました
2章-1
2章-1
昭和70年、四月。
伊勢の街は、狂ったような陽光に焼かれていた。この国の時計の針が昭和50年で一度止まり、別の歯車に噛み合ってから20年。
日本は、終わることのない高度経済成長の残り香を、過剰なまでの熱気として撒き散らしている。
倉田山(くらたやま)の高台に位置する學館大学(がっかんだいがく)のキャンパスは、その熱気の中心点の一つだった。
加藤省吾(かとうしょうご)は、神道学科(しんとうがっか)の講義で指定されたスーツに身を包み、古い石造りの講義棟の間を歩いていた。
周囲を見渡せば、昭和の美徳を絵に描いたような光景が広がっている。
短く切り揃えられた黒髪の男子学生たちが、重そうな革の鞄を手に、国防や経済、あるいは古典文学について熱っぽく議論を交わしている。
女子学生たちは、膝下まであるスカートを春風に遊ばせ、白百合のような慎ましやかな笑い声を上げていた。
かつての日本が失ったはずの、清潔で、質素で、それでいて爆発的なエネルギーに満ちた日常。
だが、省吾にとって、その輝きは網膜を焼く有害な光でしかなかった。
「……まただ」
省吾は、右目を前髪で隠すようにして俯いた。
すれ違う学生たちの反応は、いつだって同じだ。
彼が近づくと、それまで快活に響いていた会話の輪が、波が引くように不自然に途切れる。
彼らは一様に眉をひそめ、無意識のうちに省吾から数歩の距離を取る。
彼らには見えていない。
だが、本能が告げるのだ。
目の前を歩くこの少年は、自分たちと同じ「生者」ではない。
白昼の太陽の下に立つ権利を持たない、夜の底から這い出してきた「異物」なのだと。
九年前。
神社の裏山で一度絶命し、人ならざる「待ち人」の核を心臓の隣に植え付けられたその日から、省吾の体温は平均よりも二度低い。
彼の周囲には、常に薄氷のような霊的な冷気が澱んでおり、それは賑やかな「昭和」の風景にぽっかりと空いた黒い穴のように機能していた。
「加藤君。少し、足を止めてくれないかな」
背後からかけられた声は、湿り気を帯びた低いトーンだった。
省吾が足を止めると、そこには、大学の事務員という肩書きで学内に潜り込んでいる男、佐々木義人(ささきよしと)が立っていた。
しわだらけのグレーのスーツ。
不摂生を感じさせる肌。どこからどう見ても、出世街道から外れたしがない中年事務員にしか見えない。
だが、そのポケットの奥には、特殊な霊的銀を混入した弾丸を装填したガバメントが潜んでいることを、省吾は知っている。
「……佐々木さん。場所を変えましょう。ここでは『音』が多すぎる」
省吾の言葉に、佐々木は苦笑しながら頷いた。
二人は学生たちの喧騒を逃れるように、旧館の裏手、鬱蒼と茂るツツジの庭園の隅へと移動した。
そこは古びた石灯篭が並び、神宮の森から吹き下ろす冷たい風が、キャンパスの熱気をわずかに遮断してくれる場所だった。
「鳥羽での一件は、ひとまず片付いたと言っていい。内閣府の隠蔽工作班が、廃洋館の取り壊しと記憶の書き換えを済ませた。生き残った連中は、今頃『山での遭難から奇跡的に生還した』という嘘の記憶を抱えて、日常に戻っているさ」
佐々木はそう言いながら、懐からショートホープの箱を取り出したが、校内禁煙の看板を思い出して、舌打ちとともにポケットへ戻した。
「……彼らは、救われたんでしょうか」
「死ぬよりはマシだ、という話さ。だが、省吾。問題はその後だ」
佐々木の表情から、冗談めかした色が消えた。
彼は周囲に誰もいないことを確認すると、一枚のモノクロ写真を取り出した。
そこには、外宮の「火除橋」(ひよけばし)の近くで撮影された、奇妙なノイズが写っていた。
それは一見するとレンズの汚れのようにも見えるが、注視すれば、それが「人のかたちを模した影」であることがわかる。
それも、ただの影ではない。
白昼堂々、太陽の光を真っ向から受けながら、地面から立ち上がるように存在しているのだ。
「これを見てくれ。昨日、我が方の観測員が撮影したものだ。最近、伊勢周辺の霊的密度が異常な数値を示している。これまでは、待ち人が実体化するには夜の闇が必要だった。だが、この数週間で、その前提が崩れ始めているんだ」
省吾が写真に触れようと指を伸ばすと、右目が強烈な熱を持った。
網膜の裏側で、パチパチと静電気のような火花が散る。
右目が捉えているのは、写真に定着した霊的な「バグ」だ。
「……設計図が、狂っている」
「ほう、君の目にはそう見えるか」
「ええ。まるで、塗り絵の枠線が滲み出して、隣の色と混ざり合っているような……不快な感じです。これまでの待ち人は、現世という舞台の上に現れる『役者』のようなものでした。でも、これは違う。舞台そのものが、腐り始めている」
佐々木は重苦しく頷いた。
「渡良伎陶冶。あのアホな魔術師がこの世界を書き換えてから、二十年が経つ。昭和50年という『時間』を無理やり引き延ばし、昭和70年という歪な楽園を作り上げた。……だが、どれほど優れた魔術であっても、偽物は偽物だ。無理やり継ぎ足した時間は、どこかで限界を迎える」
佐々木は省吾の肩に、ごつごつとした大きな手を置いた。
「省吾。君の胸にある『核』は、その設計図の一部だ。世界が揺らげば、君の身体にも影響が出るだろう。……最近、体調はどうだ? 眠れているか?」
「……相変わらずですよ。夢の中で、ずっと猫の鳴き声が聞こえています。暗い部屋で、誰かを待ち続けている、寂しい声です」
省吾は自嘲気味に微笑んだ。
自分の心臓の隣で脈打つのは、かつて渡良伎陶冶に愛され、そして実験台として「待ち人」に変えられた黒猫の命だ。
愛羅の分身とも言えるその核は、日々、省吾の精神を侵食し、人間としての境界線を曖昧にしていく。
「あまり思い詰めるな。君が『人間』で居続けようとする限り、俺は君の味方だ。……さて、説教じみた話は終わりだ。今日の学食はB定食がトンカツだそうだぞ。少しは栄養をつけて、学生らしい顔を見せておけ。あまり不景気な面をしていると、女の子も寄り付かんぞ」
「……余計なお世話です。僕は、誰とも関わるつもりはありませんから」
「はは、冷たいねぇ。じゃあな、また何かあったら事務室に来い。茶くらいは出してやる」
佐々木はひらひらと手を振りながら、学生たちの波の中へと消えていった。
一人残された省吾は、しばらくの間、自分の右手を見つめていた。
この右手は、実体のないはずの「核」を掴み取ることができる。
待ち人を殺し、その存在をこの世から抹消するための、忌むべき牙。
昭和70年という、狂ったように明るい楽園。
その裏側で、自分はこれからも死を振りまき続ける。
省吾は深いため息を吐き、重い足取りで食堂へと向かった。
だが、その時、大学の正門の方から、地鳴りのようなざわめきが聞こえてきた。
それは学生たちが上げる驚嘆の声であり、同時に、一つの「終わり」を告げるファンファーレのようにも聞こえた。
省吾の右目が、これまでになく激しく疼く。
視線の先、正門に止まった一台の黒塗りの公用車から、この平穏な昼休みを完膚なきまでに破壊する「夜の王」が降り立つのを、彼は直感していた。