2章-2
それは、學館大学が始まって以来の、もっとも美しい「異変」だった。
正門に滑り込んできたのは、漆黒の塗装が鏡のように陽光を弾き返す、重厚なフォルムの黒塗り公用車だった。
昭和70年の日本において、それは特権階級か、あるいは国家の枢密に触れる者のみが許される「権威」の象徴だ。
歩みを止めた学生たちの視線の先で、運転席から降りたスーツ姿の男が、恭しく後部座席のドアを開ける。
その瞬間、周囲の空気が一変した。
車内から伸びたのは、繊細なストラップのサンダルに包まれた、透き通るような白い足。
続いて現れたのは、紺色のワンピースをしなやかに揺らし、春の風をその身に纏ったような一人の女性だった。
進藤愛羅(しんどうあいら)。
黒髪のゆるふわなウェーブが陽光を受けて、夜の海のように深く煌めいている。
その美貌は、すれ違う者すべての思考を数秒間停止させるほどに圧倒的であり、同時に、どこかこの世のものとは思えない「完璧な造形」を誇っていた。
「あら、案外、活気があるのね。この学び舎は」
愛羅は小さく独り言を漏らすと、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
その瞬間、正門付近にいた男子学生たちの数人が、文字通り息を呑んで立ち尽くした。
昭和70年という時代が育んだ、質素で実直な若者たちにとって、彼女の存在はあまりにも劇薬すぎた。
モデルか、それともどこかの令嬢か。キャンパスは瞬く間に、蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれていく。
だが、愛羅自身はそんな狂騒など眼中にない。
彼女の金色の瞳が捉えているのは、ただ一つ。
自分の一部を胸に宿し、困惑の表情で食堂の入り口に佇んでいる、あの少年だけだ。
「……おい、嘘だろ」
省吾は、逃げ出したい衝動を必死に抑えていた。
右目が激しく熱い。
視界の端で、愛羅の足元から伸びる影が、周囲の学生たちの影を飲み込むように、どろりと蠢いているのが見える。
彼女が歩くたびに、その場の「音」が不自然に吸収され、彼女の周囲数メートルだけが、静寂の支配する「夜の領域」と化していく。
「省吾! 見つけたわ」
愛羅は、群衆を割って真っ直ぐに省吾へと歩み寄ってきた。
周囲からは
「えっ、加藤の知り合い?」
「嘘だろ、あいつあんな美人と?」
という、嫉妬と驚愕の混ざった囁き声が、さざ波のように広がっていく。
「愛羅さん……! 何を考えてるんですか。ここは大学ですよ、僕の日常なんです」
小声で抗議する省吾を、愛羅は慈しむような、それでいて獲物を見定める捕食者のような眼差しで見つめた。
彼女の手が、当然のように省吾の腕に絡められる。
柔らかな肌の感触。花の香りに似た、だがその実体は冷たい闇の匂い。
「いいじゃない。私も一度、貴方の『日常』というものを見てみたかったのよ。それに、お昼休みでしょう? 無理を言って連れてきてもらったの。お腹が空いちゃって」
「食べる必要なんてないでしょう、貴方は」
「失礼ね。形から入るのが、愛し合う男女の作法でしょう?」
愛羅はくすくすと笑いながら、省吾の腕を抱きしめるように力を込めた。
その動作一つで、周囲の視線がナイフのように省吾を突き刺す。
だが、愛羅の腕から伝わってくるのは、絶対的な拒絶を許さない強大な霊力の圧力だった。
省吾は諦めたように肩を落とし、彼女に引きずられるようにして、戦々恐々とする学生たちの中を学食へと進んだ。
その喧騒の渦から少し離れた、図書館の陰。
「……不潔な猿が」
低い、氷のような声が漏れた。
そこには、黒髪ロングの髪を冷たい風になびかせた少女・霧亜(きりあ)が立っていた。
彼女は主の気まぐれな行動に苛立ち、持っていた紙パックのオレンジジュースを、音も立てずに握りつぶしていた。
中身が飛び散ることはない。
彼女から漏れ出した紫電の火花が、漏れ出そうとした液体を瞬時に蒸発させていた。
霧亜にとって、主である愛羅は高潔な「夜の王」でなければならなかった。
それなのに、あの「核を盗んだ猿」と戯れるために、わざわざ人間の真似事をして汚らわしい学び舎に降り立つなど、屈辱以外の何物でもない。
霧亜の六本の尾の残滓が、背後の空間で苛立たしくのたうつ。
「愛羅様。貴女はいつまで、あのような紛い物の『命』に執着されるのですか……」
霧亜の呟きは、誰にも届かずに春の風に消えた。
一方、学食内はかつてない緊張感に包まれていた。
昭和70年の学生食堂は、木製の長机と丸椅子が並ぶ、質素だが活気ある場所だ。
しかし、愛羅が足を踏み入れた瞬間、その活気は「畏怖」へと塗り替えられた。
学生たちが波が引くように席を空け、省吾と愛羅のために、食堂の中央にぽっかりと不自然な空白地帯が出来上がる。
「何にする? 省吾。私はあそこの、真っ黒なタレがかかったうどんがいいわ」
「……伊勢うどんですね。わかりました。並んでくるので、ここで待っていてください」
「あら、逃げたりしない?」
「逃げられるわけないでしょう。……佐々木さんも見てるんだし」
省吾は、食券売り場の影で、わざとらしく新聞を広げてこちらを監視している佐々木に視線を送った。
佐々木は眉をひそめ、「俺だってこんなのやりたくないんだよ」と言いたげな顔で肩をすくめている。
省吾が食券を買う間、愛羅は一人、空いた席に座って周囲を見渡していた。
彼女が静かに座っているだけで、そこは宮殿の玉座のような重圧を放つ。
近くに座っていた学生たちは、彼女の美しさに目を奪われながらも、なぜか心臓が激しく脈打ち、喉が渇くような生理的な恐怖を感じていた。
彼女の存在そのものが、現世という薄い膜を破ろうとしている「深淵」そのものだからだ。
「お待たせしました」
省吾がトレイを持って戻ってくると、愛羅は子供のように顔を輝かせた。
「まあ、本当に真っ黒ね。これが伊勢の味かしら」
彼女は割り箸を割ると、器用にうどんを絡め取り、唇へと運んだ。
その動作は優雅で、非の打ち所がない。
だが、省吾は見ていた。
愛羅が一口食べるごとに、彼女の影が少しずつ濃くなり、周囲の学生たちが持っていた「熱気」が、目に見えない糸となって彼女に吸い込まれていくのを。
彼女は食事をしているのではない。
この場に満ちる「生の活力」を、その端麗な姿を通して補食しているのだ。
「……美味しいわ。でも、やっぱり、貴方の胸にある『核』の鼓動の方が、私にはご馳走かしら」
愛羅が、うどんを啜る音一つ立てずに微笑んだ。
その台詞に、隣の席で必死にカレーを口に運んでいた男子学生が、耐えきれずにむせ返った。
省吾はため息をつき、冷めたうどんを口に運ぶ。
「愛羅さん。食事を終えたら、すぐに帰ってください。僕にはまだ、午後から講義があるんです」
「あら、講義なら私も一緒に受けたいけれど。神道の歴史でしょう? 懐かしい話が聞けそうだわ。……例えば、渡良伎陶冶がこの大学のお隣さんに何を隠したか、とかね」
愛羅の声は、周囲には聞こえないほど低く、だが省吾の脳髄を直接揺らすように響いた。
省吾の右目が、鋭い痛みとともに疼く。
「……お隣さん? 徴古館のことですか」
「ふふ、察しがいいわね。貴方の右目、さっきからあっちの方を見て震えているでしょう?」
愛羅は細い指先で、食堂の大きな窓の外を指し示した。
そこには、重厚な石造りの外観を誇る神宮徴古館の屋根が見える。
「あそこには、あの方が捨てきれなかった『昭和50年の澱み』が、今も整理されずに眠っているわ。……行きましょう、省吾。デザートの代わりに、世界の真実に触れさせてあげる」
愛羅はそう言うと、残りのうどんを一気に消し去るように「補食」し、立ち上がった。
その瞬間、学食内の喧騒が再び戻ってきたが、学生たちの顔には、激しい運動をした後のような疲労困憊の色が浮かんでいた。
愛羅は省吾の手を強く握りしめる。
その手の冷たさは、これから踏み込む「時の止まった深淵」への入り口そのものだった。