2章-3
學館大学の学生食堂は、本来、この学び舎で最も世俗的で、最も「生」の活気に満ちた場所であるはずだった。
安価なカレーのスパイスの匂い、麺を啜る音、将来の不安や昨夜の野球の結果を論じる若者たちの熱量。
昭和70年という時代が、無理やり継ぎ足された時間の上に築いた、ささやかで強固な日常の象徴。
だが、その平穏な秩序は、進藤愛羅という「極彩色の闇」が席に座った瞬間、音を立てて崩壊し始めた。
食堂の中央、不自然に人が遠ざかった一角で、加藤省吾は愛羅と向かい合っていた。
二人の間には、トレイに乗せられた伊勢うどんが置かれている。
真っ黒なタレを纏った太い麺が、愛羅の端麗な指先に握られた割り箸によって、緩やかに持ち上げられた。
「……愛羅さん。その一口が、どれだけの注目を浴びているか自覚してください」
省吾の声は、押し殺した響きを帯びていた。
周囲の学生たちの視線は、もはや好奇心を超えて、一つの儀式を見守るような病的な執着に変わっている。
彼らは自分の食事が喉を通らなくなっていることにさえ気づかず、ただ愛羅の唇の動きを凝視していた。
「あら、食事というものは、見られてこそ艶(つや)が出るものでしょう? 省吾」
愛羅は、完璧な人間を模した仕草で麺を口に運んだ。
その瞬間、省吾の右目が強烈な「不協和音」を捉えた。
愛羅の喉を通るうどんは、咀嚼(そしゃく)されるのと同時に、物理的な質量を失っていた。
それは彼女の体内で霊的なエネルギーへと瞬時に分解され、虚無へと吸い込まれていく。
同時に、食堂内の「温度」が数度下がったような錯覚を省吾は覚えた。
愛羅は食事をしているのではない。
彼女が一口食べるたびに、周囲に座る学生たちの頬から血色が失われ、彼らの放つ「活気」が目に見えない熱量となって、愛羅の影へと流れ込んでいく。
彼女という「待ち人」にとって、現世の食物は単なる触媒に過ぎない。
彼女が真に補食しているのは、昭和70年を謳歌する若者たちの、無自覚な生のエネルギーそのものだった。
「ひっ、……あ、ああ……」
隣のテーブルでカレーを食べていた男子学生が、不意に、理由もわからず嗚咽(おえつ)を漏らして崩れ落ちた。
彼の精神は、愛羅が放つ「存在の濃度」に耐えきれず、本能的な死の恐怖に直撃されたのだ。
周囲の学生たちも、金縛りにあったように動けなくなっている。
喧騒は消え、食堂にはただ、愛羅が箸を置く微かな音だけが響いた。
「ねえ、省吾。こっちへ来て。もっと近くへ」
愛羅がテーブル越しに身を乗り出した。
彼女の金色の瞳が、獲物を狙う猫のように細められる。
黒髪のウェーブがふわりと揺れ、省吾の鼻腔に「古い紙の匂い」と「死の冷たさ」が混ざったような、陶酔的な香りが届いた。
「拒絶しないで。……貴方の核の脈動が、ここまで聞こえているわよ」
愛羅の細い指先が、省吾の胸元、第一ボタンのあたりにそっと触れた。
その瞬間、省吾の全身を凄まじい衝撃が突き抜けた。
心臓の隣に植え付けられた「猫の核」が、主の指先に呼応して狂ったように暴れ出したのだ。
ドクン、ドクン、という鼓動が、もはや人間のリズムではない。
それは、暗い檻の中で主を呼び続ける獣の咆哮そのものだった。
省吾の視界が歪む。
学食の風景が、色の褪せた古い写真のように変質していく。
目の前に座る愛羅の姿が、巨大な黒猫の影と重なり、彼女の背後に広がる闇が、食堂の天井を飲み込むほどに巨大化していくのが見える。
「……っ、やめ、ろ……!」
省吾は歯を食いしばり、愛羅の手首を掴んだ。
氷のように冷たい。
だが、その肌の奥には、火傷しそうなほどの純粋な殺意と慈愛が同居している。
「あら、強いわね。あの日、死に体で私の核を掴み取った時と同じ指の力だわ。……嬉しい。貴方が私に馴染めば馴染むほど、私は貴方のことを食べちゃいたくなる」
愛羅は省吾の耳元に顔を寄せ、密やかな吐息を吹きかけた。
「……あの方が望んだ通りよ。貴方は、人間に私の核を植え付けた『失敗作』なんかじゃない。貴方は、私とあの方、そして詩乃を繋ぎ止めるための……この世界の、新しい心臓なのよ」
その言葉とともに、省吾の右目に鮮烈なビジョンが閃いた。
それは昭和50年の断絶の瞬間。
泣き叫ぶ魔術師、渡良伎陶冶(わたらぎとうじ)。
冷たくなっていく少女、詩乃。
そして、その足元で全てを見つめていた、一匹の黒猫。
省吾の身体を流れる血が、一瞬だけ「黒い闇」に変わったような錯覚。
はっと気づいた時、世界は再び「昭和70年の日常」へと引き戻されていた。
周囲の学生たちは、深い眠りから覚めたような呆然とした表情で立ち尽くし、自分が何をしていたのか、なぜ震えていたのかを思い出せずにいた。
「……一体、何を……」
省吾は激しく呼吸を乱しながら、自分の胸を押さえた。
核の拍動は、愛羅が手を離したことで、かろうじて平時のリズムに戻りつつある。
愛羅は満足げに微笑むと、最後の一切れのタクアンを口にし、優雅に立ち上がった。
彼女の足元に広がる影は、もはや普通の女性のそれには見えない。
それは、何百本もの触手を持つ漆黒の怪物のようでもあり、あるいは、無限に広がる夜そのもののようでもあった。
「ごちそうさま、省吾。……さあ、口直しに行きましょうか」
愛羅は食堂の大きな窓から、隣接する重厚な建物を指差した。
神宮徴古館。
石造りのその建物は、陽光を浴びながらも、どこか現世を拒絶するような厳格な沈黙を保っている。
「あの中に、あの方が捨てきれなかった『過去の残滓』が隠されているわ。佐々木さんも、そのために私をここまで運んできたのでしょう?」
学食の隅で、ずっと新聞を読んでいた佐々木が、ようやく顔を上げた。
彼の顔には、隠しきれない疲労と、何らかの決意が滲んでいた。
彼は無言で頷くと、省吾と愛羅を促すように、徴古館へと続く裏口の方を指差した。
「……僕に、選択肢は無いんですね」
「あら、嫌だわ。貴方の右目は、もうあそこにある真実に釘付けでしょう?」
愛羅が囁く通り、省吾の右目は、徴古館の奥深くに潜む「黒い熱」を明確に捉えていた。
それは、昭和50年から今日まで、一度も開けられることなく澱み、腐り、発酵し続けた、渡良伎陶冶の狂気の残り香だった。
二人は、奇妙な静寂に包まれた学食を後にした。
後に残されたのは、ただ、完食された伊勢うどんの空の器と、理由のわからない倦怠感に襲われた学生たちの群れだけだった。
春の陽射しはどこまでも明るい。
だが、省吾が踏み出す一歩ごとに、影は長く、濃く、世界の理を侵食していく。
一行は、神の記憶を保存する場所――徴古館の深淵へと、足を踏み入れることになる。