2章-4
神宮徴古館。
明治四十二年に建てられたそのルネサンス様式の石造建築は、伊勢の神宮が歩んできた悠久の歴史と文化を保存する、いわば「神の記憶の保管庫」である。
左右対称の美しい翼を広げたその外観は、昭和70年の狂おしい喧騒から切り離されたかのように、厳格な沈黙を守っていた。
一般の来館者が立ち去り、閉館のベルが鳴り響いた後の展示室は、窓から差し込む斜陽が床の寄木細工に長い影を落とし、まるで巨大な墓標のような静寂に包まれていた。
「……ここから先は、国の管理区域だ」
先導する佐々木が、内閣府の紋章が入った重厚なIDカードを、壁に埋め込まれたカードリーダーにスライドさせた。電子音が小さく鳴り、精緻な装飾が施された真鍮製の扉が、溜息をつくように重く開かれる。
省吾と愛羅、そしていつの間にか影から現れた霧亜が、その奥へと足を踏み入れた。
廊下を進むにつれ、空気の質が変わっていくのがわかった。
展示室にあった「清潔な歴史」の匂いは消え、代わりに、鼻を突くような古い紙の匂いと、防虫剤、そして——腐敗とは異なる、霊的な「停滞」の匂いが漂い始めた。
「佐々木さん、ここは……?」
「徴古館の地下、未整理資料室だ。昭和50年のあの『書き換え』が起きた際、混乱の中で各地から回収された禁忌の資料が、整理されることも、処分されることもなく二十年間放置されている、吹き溜まりだよ」
佐々木の声が、コンクリートの壁に虚しく反響する。
突き当たりにある防潮扉のような鉄の扉を抜けた瞬間、省吾の右目が激痛に焼かれた。
「っ……!」
省吾は思わず右目を押さえ、膝をつきそうになった。
視界が真っ赤に染まり、数千、数万もの「声」が脳内に直接流れ込んでくる。
それは怨嗟の声ではなく、何かを待ちわびる、気が遠くなるほど純粋で鋭利な「執念」の波動だった。
「あら、強いわね。あの方がここに遺した『想い』が、貴方の核を歓迎しているみたい」
愛羅が優雅に省吾の背中に手を添える。
彼女の瞳は、暗闇の中で捕食者のように妖しく黄金色に輝いていた。
扉の向こうに広がっていたのは、異様な光景だった。
天井まで届く無数のスチールラックには、埃を被った段ボールや木箱が所狭しと積み上げられている。
だが、それだけではない。
部屋の隅々には、昭和50年当時の新聞、週刊誌、さらには食べかけの乾燥した菓子パンの袋までもが、当時の色彩を保ったまま散乱していた。
ここは、清掃が行き届いていないのではない。
「昭和50年」という時間が、物理的な質量を伴ってこの部屋に密封されているのだ。
「見て、省吾。あの時計を」
愛羅が指差した壁掛け時計は、短針が五時を、長針が十二時を指したまま凍りついていた。
それは、渡良伎陶冶が世界の理を書き換え、昭和を永劫のものに変えた「あの日、あの時刻」の記録だ。
「……あいつは、ここにいたんですか」
「ええ。陶冶は一時、皇學館の研究員としてこの館に出入りしていたわ。神宮に伝わる古文書を紐解きながら、彼は『死者を現世に繋ぎ止める術』を探していた。……そして、ここで見つけたのよ。世界の心臓を書き換えるための、ペンをね」
愛羅は踊るような足取りで、部屋の最奥にある、ひときわ歪な霊気を放つラックへと近づいた。
省吾は、右目に浮かぶノイズに導かれるように、その後を追った。
視界の端で、霧亜が警戒を露わに周囲を睨みつけている。
彼女の周囲では紫電の火花が散り、昭和50年の古い空気がパチパチと焼ける音がした。
彼女にとって、この部屋は主の忌まわしい過去を閉じ込めた檻のように見えているのかもしれない。
「……これだ」
省吾の手が、山積みになった古文書の隙間にあった、一冊の黒い革手帳に触れた。
瞬間。
「——詩乃(しの)、ごめんね。もう少しだよ」
脳裏に、掠れた男の声が響いた。
絶望に打ちひしがれ、狂気へと足を踏み入れた男の、震える声。
手帳に触れた省吾の右手の感覚が、自分のものではない何か——愛羅の核、あるいは「猫」としての記憶と混ざり合う。
省吾はその手帳を引き抜いた。
表紙には、金文字で剥げかかった文字が記されていた。
『詩乃に捧ぐ』
それが、渡良伎陶冶の魔導書であり、日記であった。
省吾が震える指でページをめくると、そこには、緻密な数式と、おぞましい魔方陣、そして狂気的な愛の言葉が綴られていた。
「昭和という殻は、詩乃を守るための繭である」
「世界の解像度を昭和50年で固定し、成長を停止させる。因果律をループさせることで、エントロピーの増大を拒絶する」
「だが、繭はいつか破れる。その時、詩乃を完全なものにするためには、世界そのものの『核』と適合する器が必要だ」
読み進めるにつれ、省吾の顔から血の気が引いていく。
手帳の中には、省吾自身の現在の状況を予言するかのような記述まであった。
「一匹の猫では足りない。猫の核を人間に移植し、その適合率を100%まで高めた時、その少年は『夜の扉』を開く鍵となる」
「……僕を、作るつもりだったのか」
省吾の声が震える。
自分が愛羅に救われたあの夜、それは偶然の慈悲ではなく、二十年も前から用意されていた「設計図」の一部だったのか。
「あら、心外ね。私は私の意思で貴方に核をあげたのよ? 省吾。……でも、あの方がそれを予測していたとしても、不思議ではないわ。あの人は、それほどまでに詩乃という光に目が眩んでいたのだから」
愛羅は省吾の隣に立ち、手帳の内容を覗き込んだ。
その顔には、かつての飼い主を憐れむような、同時に、神の如き業を成し遂げた男への賛辞を込めたような、残酷な微笑が浮かんでいた。
「見て、最後のページを。あの方はまだ、何も諦めていないわ」
言われるままにめくった最後のページ。
そこには、震える文字でただ一行、こう記されていた。
『昭和70年、伊勢の地にて、心臓を回収する』
文字のインクが、省吾の右目の中で赤黒く脈動し始めた。
「……佐々木さん。あなたは、これを知っていたんですか」
省吾が振り返ると、佐々木は暗闇の中で深く、深く溜息をつき、タバコを噛み締めていた。
「……内閣府が、この資料室を放置していた理由か? 答えは簡単だ。俺たちの国は、陶冶が作り上げたこの『昭和70年の繁栄』に依存している。この偽りの楽園を壊すことも、維持し続けることもできない。俺たちはただ、手帳の予言が現実になるのを待つしかなかったんだよ、省吾」
佐々木の声には、国家という巨大な装置が抱える無力感と、省吾に対する冷徹な利用価値への自覚が入り混じっていた。
その時だった。
閉ざされていたはずの未整理資料室の奥から、カタカタと、何かが震える音が響いた。
昭和50年のまま止まっていたはずの、不潔な人形で埋め尽くされた棚。
その中の一つが、ゆっくりと、内側から押し開かれる。
「……来ましたね、不浄の気配が」
霧亜が前に出る。
その手には、紫電を纏った漆黒の刃が握られていた。
手帳に記された「心臓の回収」という言葉。
それが、ただの比喩ではないことを、省吾は右胸の激痛とともに悟った。
「さあ、省吾。あの方が差し向けた『お迎え』が来たわよ。……貴方の右手で、その未練を掴み取ってあげなさい」
愛羅の甘い囁きが、暗闇の中に溶け込んでいく。
徴古館の深淵で、昭和50年の澱みから生まれた「新たな待ち人」が、その異形の姿を現し始めていた。