2章-5
神宮徴古館の最深部、未整理資料室。
昭和五十年の空気と共に封印されていたはずの闇が、今、意思を持って蠢き始めた。
「……あ」
省吾の右目が、限界を超えた視覚情報を捉えて激痛を放つ。
スチールラックの陰、二十年間一度も動かされることのなかった木箱の隙間から、どろりとした黒い液体が溢れ出していた。
それは単なる物理的な液体ではない。
渡良伎陶冶がこの部屋で執筆し、遺していった膨大な「思念の残滓」が、手帳というトリガーを得て受肉した、実体化する呪いだ。
カタカタ、カタカタ。
資料室に充満する乾いた音が激しさを増す。
棚に並んでいた「詩乃」の試作品である人形のパーツたちが、意思を持ったように接合し、歪なかたちを作り上げていく。
現れたのは、身長二メートルを超える、継ぎ接ぎだらけの人体だった。
顔があるべき場所には、陶冶が日記に記した魔方陣がそのまま皮膚のように張り付き、その中心で「昭和五十年」と記された古い硬貨が、眼球のように無機質に光っている。
「『回収者』……あの方が遺した、自動執行的(オートマチック)な術式ね」
愛羅は、襲いくる重圧を春風のように受け流しながら、愉悦に満ちた声を上げた。
彼女の足元、影が触手のように広がり、資料室の壁を侵食していく。
「省吾、気をつけて。それは知性を持った待ち人ではないわ。ただ『心臓を、主の元へ運ぶ』という命令だけを刻まれた、歩く墓標よ」
「……っ、分かってます……!」
省吾は右胸を押さえ、荒い息を吐いた。
胸の中の核が、狂ったように熱い。
目の前の「回収者」が放つ魔力は、省吾の核と同じ波長を持っていた。
移植された猫の心臓が、自分を育てた飼い主の、あるいは自分を作り替えた魔術師の呪縛に、抗い難い帰巣本能を突き動かされているのだ。
「オ……オオ……」
回収者が、不自然な角度で腕を振り上げた。
その指先は、鋭いメスのように変質している。
狙いは明白だ。
省吾の胸を引き裂き、愛羅の核を取り出し、主の元へ届けること。
「下がっていろ、省吾! 」
佐々木が叫び、懐から銀の輝きを放つガバメントを抜き放った。
乾いた銃声が資料室に轟く。
特殊な霊的銀を混入した弾丸が回収者の胸を穿つが、そこには血の一滴も流れない。
弾丸は、昭和五十年の古新聞が詰まった腹部を虚しく貫くだけだった。
「チッ、物理的な実体が希薄すぎるか! クソッタレ!」
次の瞬間。
影から躍り出た霧亜の姿が、一瞬で膨れ上がった。
少女の輪郭が揺らぎ、背後から六本の尾を模した紫の電光が爆ぜる。
彼女の手に握られた漆黒の刀が、空間を断ち切るように振り下ろされた。
「滅(めっ)せよ、不浄の残滓」
紫電が資料室を白昼のように照らし、凄まじい衝撃波がスチールラックをなぎ倒す。
霧亜の一撃は回収者の肩口から腰までを深々と切り裂いた。
だが、斬り裂かれた断面からは、なおも溢れ出す黒いインクのような影が、即座に肉(パーツ)を繋ぎ合わせていく。
「無駄よ、霧亜。それは『書き換えられた昭和の法』そのもの。あの方が書き換えたこの世界のルールの一部なの。普通の霊力で斬ったところで、世界そのものが修復してしまうわ」
愛羅の残酷な指摘通り、回収者は霧亜の攻撃を無視し、一直線に省吾へと肉薄した。
その巨躯が省吾の目の前に迫る。
メスのような指先が、省吾の胸元へ突き出された。
「——逃げ、なきゃ……」
頭ではそう分かっている。
だが、身体が動かない。
核の共鳴が省吾の神経を麻痺させ、意識が昭和五十年の幻影に引きずり込まれていく。
『省吾、おいで。一緒に、詩乃を助けよう』
脳裏に響く、渡良伎陶冶の温和で、それゆえに狂気に満ちた誘いの声。
視界が真っ白になる。
だが、その白光を切り裂いたのは、自分の右腕から噴き出した、どす黒い漆黒の波動だった。
「……ふざけるな」
省吾の口から、自分のものではないような低い声が漏れた。
無意識のうちに突き出した省吾の右手が、回収者の胸部——魔方陣の中心を、鷲掴みにしていた。
「僕を、作る……? 僕が、部品……? ……勝手なことを言うな。僕は、僕だ!!」
省吾の右目が、紅蓮の輝きを放つ。
移植された核の力が、省吾の激昂に応えて暴走し、右腕へと集中した。
本来なら触れることのできない概念的な呪いである「回収者」の核に、省吾の異能が無理やり「形」を与え、物質化させていく。
省吾の手の中にあるものが、脈打つ黒い石のような感触に変わる。
「掴んだ……!」
愛羅が、歓喜の悲鳴に近い声を上げた。
「そうよ、省吾! その右手は、あの方が最も恐れ、最も欲しがった『理の外』の力! 世界の法則を無視して、核を奪い取る掠奪者の牙よ!」
省吾は渾身の力を込め、回収者の胸に埋まった「核」を力任せに引き抜いた。
バリバリ、という世界の膜が破れるような異音が資料室に響き渡る。
回収者の巨躯が、内側から崩壊を始めた。継ぎ接ぎのパーツはただの木屑や紙屑に戻り、眼球代わりの硬貨は虚しく床を転がる。
省吾の右手には、禍々しい紫の光を放つ、歪な結晶が握られていた。
それが、陶冶がこの場所に遺した、昭和七十年の安定を維持するための「楔(くさび)」の一つだった。
「……はあ、はあ、はあ……」
省吾は、核を握りつぶすこともできず、その場に崩れ落ちた。
右手の感覚が消失している。
「見事だったわ、省吾。……これで、あの方が描いたシナリオに、最初の大きな穴が開いたわね」
愛羅が歩み寄り、省吾の頭を優しく抱きかかえた。
その慈愛に満ちた仕草とは裏腹に、彼女の視線は省吾が手にした核の結晶に釘付けになっていた。
「佐々木さん。これで満足?」
愛羅の問いかけに、佐々木は拳銃をホルスターに収め、深く帽子を被り直した。
彼の顔は影になり、その表情を読み取ることはできない。
「……ああ。これでしばらくは、伊勢の密度も下がるだろう。だが……これだけは言っておく。省吾、君が今やったことは、神様が作ったこの『楽園』を壊し始めたということだ。もう、後戻りはできない」
佐々木の声は、どこか葬送の儀式のようにも聞こえた。
資料室を包んでいた「昭和五十年の停滞」が、急速に霧散していく。
部屋の時計が、狂ったように針を回し始め、現在の時刻——昭和七十年の黄昏時へと追いついていく。
省吾は、愛羅の腕の中で意識を失いかけていた。
遠のく意識の端で、床に落ちた渡良伎陶冶の手帳が、風もないのにめくれ、白紙のページをさらけ出しているのが見えた。
そこには、新たな文字が書き込まれていく予感があった。
昭和七十年の夜は、なおも深まり続け、神都の静寂を浸食していく。