2章-エピローグ
神宮徴古館を後にした一行を待っていたのは、燃えるような朱色に染まった倉田山の夕景だった。
先ほどまでの地下資料室の、カビ臭く凍りついた「昭和五十年」が嘘のように、外の世界には昭和七十年という名の、狂おしいほどに活気に満ちた黄昏が広がっている。
公用車の後部座席、省吾はぐったりとシートに身を預けていた。
右手の感覚は未だに戻らず、氷を握り続けているような感覚だけが皮膚に張り付いている。
膝の上には、資料室から持ち出したあの革手帳――『詩乃に捧ぐ』が置かれていた。
「……気分はどう、省吾?」
隣に座る愛羅が、慈しむように彼の頬に触れる。
その指先は相変わらず冷たかったが、今の省吾にはそれがむしろ心地よく感じられた。
「最悪ですよ。……自分が、誰かの書いた『脚本』通りに動かされているんだと突きつけられたんですから」
「ふふ。でも、貴方は今日、その脚本を破り捨てたわ。あの回収者を倒した一撃、あれは陶冶でさえ予期できなかったはずよ。あの方は、貴方を『心臓を運ぶ器』に仕立てたかった。けれど貴方は、その手で運命を掴み取ったんだもの」
愛羅は窓の外、遠ざかっていく徴古館の影を見つめた。
金色の瞳には、かつての飼い主への情愛か、あるいは復讐心か、判別しがたい複雑な光が宿っている。
「佐々木さん。……一つ、聞いていいですか」
省吾はルームミラー越しに、ハンドルを握る佐々木を睨んだ。
「内閣府は、この手帳の内容を知っていて、僕を泳がせていた。……回収者が現れることも、僕があの核を抜くことも、全部想定内だったんですか」
佐々木はしばらく沈黙を守っていた。
車内には、エンジンの低い唸り音だけが響く。やがて彼は、重い口を開いた。
「……半分は、イエスだ。だが半分はノーだよ。国は、渡良伎陶冶という男を恐れている。同時に、彼が作り上げたこの『歪な繁栄』を失うことを何よりも恐れているんだ。もし今日、君があの核を抜かなければ……伊勢の密度は上がり続け、この街は完全に昭和五十年に飲み込まれていただろう。俺たちはただ、君という唯一の『変数』に賭けたんだ」
「賭け、ですか……」
「そうだ。そして結果として、昭和七十年の夜は守られた。……だがな、省吾。君が今日引き抜いた核は、いわばダムの栓のようなものだ。これから世界中で、無理やり引き延ばされた『昭和』の歪みが一気に噴き出すだろう」
佐々木がブレーキを踏んだ。
車は、伊勢市街を見下ろす高台の近くで止まる。
眼下に広がる街並みは、美しく輝いていた。
ネオンサイン、走る車のライト、家々から漏れる暖かな灯り。
誰もが明日もこの「昭和」が続くと信じて疑わない、平和な夜景。
「……あの手帳、最後のページにまだ続きがあったんです」
省吾が掠れた声で言った。
先ほど資料室では気づかなかった、最後の一行。核を引き抜いた直後、一瞬だけ浮かび上がった血のような文字。
『愛猫よ。私の一部を宿したその少年を、大切に育てなさい。彼が完全に私(わたし)になった時、詩乃は本当の私(わたし)に戻るのだから』
愛羅の動きが、一瞬だけ止まった。
彼女は窓の外を見つめたまま、声音を変えずに言った。
「そう。……やっぱり、あの人はどこまでも傲慢ね」
「愛羅さん……貴方は、どちらの味方なんですか。魔術師の猫として僕を『彼』に変えようとしているのか、それとも……」
愛羅はゆっくりと省吾の方を振り向いた。
その顔には、いつもの余裕たっぷりなお姉さんの微笑みがあった。
だが、その瞳は夜そのもののように深く、底が見えない。
「私はね、省吾。お腹を空かせた、ただのわがままな猫なのよ」
彼女は省吾の首筋に顔を寄せ、密やかに囁いた。
「陶冶が貴方を食べようとするなら、その前に私が食べてあげる。……だから、安心していいわ。貴方を殺すのは、世界を書き換えた魔術師でも、あの不気味な人形でもない。——この、私よ」
愛羅の冷たい唇が、省吾の耳たぶをかすめた。
省吾は全身に鳥肌が立つのを感じながら、膝の上の手帳を強く握りしめた。
昭和七十年。 世界のヒビ割れは、もはや修復不可能な段階へと入りつつあった。
伊勢の静かな夜の裏側で、神々の領域さえも浸食する、さらなる巨大な「夜」の胎動が始まろうとしている。
助手席で、霧亜が不機嫌そうに窓の外を眺めながら、爪を噛んでいた。
彼女だけは知っている。
主が今、かつてないほど「愉しんでいる」ことを。
そしてその愉悦の代償として、この日本という国がどれほどの血を流すことになるのかを。
公用車は再び走り出した。
狂ったように明るい市街地へと、夜の闇を切り裂きながら。