3章-1
3章-1
伊勢の市街地から、街灯もまばらな急勾配の山道を車で数十分。
深い雑木林が空を覆い、人里の気配が完全に途絶えた山中に、その屋敷は孤立して建っていた。
蔦が血管のように這い回り、時代の流れを拒絶するような重厚な石造りの洋館。
加藤省吾は、その屋敷の二階、かつて書生が使っていたという簡素な一室のベッドの上で、凄まじい「違和感」と共に目を覚ました。
「……っ、あ……が……ッ!!」
意識が覚醒した瞬間、右腕を焼死体にでも作り替えられたような激痛が走った。
布から引き出したその腕は、指先から肘にかけて皮膚の下を這い回るような黒い血管が、不気味な樹状の紋様となって浮かび上がっていた。
それは、ただの鬱血ではない。
血管の一本一本が意志を持っているかのように脈動し、省吾の骨を、筋肉を、内側からじりじりと「掠奪者」の形へ作り替えている。
昨日、神宮徴古館の深淵で、渡良伎陶冶の遺した「回収者」の核を引き抜いた代償。
その核の力——昭和七十年という偽りの時間を維持するための「重し」が、器である省吾の身体と融合し始めていた。
「……よく眠れたかしら、省吾」
枕元に、音もなく愛羅が立っていた。
彼女は薄絹の寝間着を纏い、窓から差し込む淡い光を透かしている。
その腕には、あの忌まわしい革手帳『詩乃に捧ぐ』が抱えられていた。
愛羅が近づくたびに、古い紙の匂いと、氷のように冷たい「死」の気配が混ざり合った香りが鼻腔を突く。
彼女の金色の瞳は、苦悶する省吾を慈しむように、あるいは実験動物を観察するように細められていた。
「愛羅……さん……。この、腕は……何なんですか」
「貴方が私の核に馴染み、あの方の『未練』を奪い取った証よ。おめでとう、省吾。貴方は今日、本当の意味で人間の領域を半分捨てたのよ」
愛羅は長い指先で、省吾の黒い血管をなぞった。
指が触れた場所から、火傷のような熱さが、凍てつくような冷感へと塗り替えられていく。
「でも、自分の身体を心配している暇はなさそうね。ほら、窓の外を見て。世界が貴方の仕業に、悲鳴を上げているわ」
愛羅が厚いカーテンを引き絞る。
窓の外には、朝の光に照らされた伊勢の連山が広がっていた。
本来ならば、昭和七十年の初夏らしい、生命力に満ちた緑の海が見えるはずだった。
だが、省吾の右目が捉えたのは、風景の端々がバグのように歪み、色彩を失っていく「空間の剥離」だった。
特に、伊勢と南勢町を隔てる方向にある剣峠(つるぎとうげ)。
その付近の空の色が、不気味な灰色に濁り、古いテレビの砂嵐のようなノイズが激しく明滅している。
そのノイズが走るたびに、屋敷の柱時計が狂ったように逆回転し、すぐにまた元に戻るという異常な現象が起きていた。
「……伊勢が、裂けようとしている。あの方が昭和という繭を縫い合わせた、一番太い針……剣峠の『剣岩』(つるぎいわ)が、今、外側の世界に食い破られようとしているのよ」
伊勢の市街地から遠く離れた郊外、山中に孤立する愛羅の屋敷。
その二階にある省吾の部屋で、窓外の崩壊する風景を背に、愛羅は静かに口を開いた。
「どうして、あの方がこんな不自然な楽園を作り上げることができたのか……不思議に思ったことはないかしら、省吾?」
愛羅は窓枠に細い指をかけ、遠く南勢町へと続く剣峠の稜線をなぞった。
彼女の指先が指し示す先では、灰色のノイズが空を食い破り、本来流れるはずの「現在」が、凄まじい質量を伴って昭和の結界を圧迫している。
「伊勢という土地は、古来より強固な霊的な守護に支えられてきたわ。北東の表鬼門、そして南西の裏鬼門。この二つの門を繋ぐ軸が、この地の清浄さを保つ背骨なの。あの方は、その『軸』を物理的に、そして術式的にへし折ったのよ」
愛羅が振り返る。
その金色の瞳には、慈しみと、底知れない狂気が同居していた。
彼女は部屋に置かれた古い地球儀を指で回し、ピタリと止めた。
「本来、時間は表鬼門から入り、裏鬼門へと抜けていく一方向の奔流。生が死へと向かい、今日が明日へと流れるのは、この大地の気脈が正しく循環しているから。けれど渡良伎陶冶は、南勢町へと続くこの剣峠……すなわち裏鬼門の急所に、巨大な『反転術式』を施した。剣岩という楔を打ち込み、大地の呼吸を無理やり逆流させたのよ」
省吾は激痛に震える右腕を抱えながら、彼女の言葉を反芻した。
「反転……?」
「ええ。裏鬼門から入るべき『衰退』と『死』を拒絶し、そこから逆に『生のエネルギー』を噴出させた。代わりに、表鬼門から入るはずだった『未来』を、裏鬼門の外側……南伊勢の海へと放逐したの。そうすることで、この伊勢の内側だけ、時間は円環(ループ)の中に閉じ込められた。昨日が今日になり、今日が明日にならずに再び今日へ戻る。時間は反転し、停滞し、そして一九七五年という地点で『固定』された。それが、昭和七十年という数字の正体よ」
愛羅は楽しげに、だが残酷な事実を突きつけるように笑った。
「でも、無理やり押し止めた『本物の現在』は、消えてなくなるわけじゃない。南勢町の海の向こう、あの方が捨てた一九九五年という正常な時間は、二十年分の質量となって、今やダムが決壊する寸前のようにこの峠を押し潰そうとしている。……省吾、貴方が昨日、徴古館で『記録の楔』を抜いたことは、そのダムに小さな、けれど致命的な穴を開けたのと同じことなの」
「本来、あっちが正解で、私たちは消え去るべき過去の幽霊。……それをもう一度、貴方のその掠奪者の腕で、無理やり『裏鬼門の向こう』へ押し戻さなきゃいけない。あの方が詩乃のために用意した、この狂った停滞を維持するために」
愛羅は省吾の頬を撫で、その冷たい指先で彼の視線を剣峠へと向けさせた。
「さあ、行きましょう。貴方のその右手で、私たちの『未来』を殺しに」
屋敷の門前に止まった内閣府の黒塗りの公用車。
ハンドルを握る佐々木の顔は、死人のように青白かった。
助手席には不機嫌そうに爪を噛む霧亜が座っている。
「……加藤くん、その腕。……いや、今はいい。乗れ。手遅れになる前にな」
車は山を下り、神宮の脇を抜けて、剣峠へと続く山道へと入っていく。
細いつづら折りの峠道を進むにつれ、風景は目に見えて崩壊していった。
神宮林の杉たちが、一瞬にして炭のように黒ずんだかと思えば、次の瞬間には若々しい緑に戻る。
神域特有の清廉な空気は失われ、南勢町側から流れてくるのは、煤けた煙のような、無機質で乾いた「灰色の闇」の霧だった。
「愛羅さん、あっちから来ているものは……何なんだ」
省吾は、峠の頂上付近から溢れ出す、その異様な気配を指差した。
昭和の住人である彼にとって、それは生理的な嫌悪感を呼び起こす「未知の毒」だった。
色彩がなく、情緒がなく、ただただ「無機質な情報の羅列」が風となって肌を叩く感覚。
「……あの方は、昭和が終わった後の時間を『存在しないもの』として深淵に捨てた。けれど、時間は消えることはないのよ、省吾。捨てられた『明日』は、そこでお互いを食らい合い、醜く歪み、言葉も持たない質量の塊になった。一九九五年、あるいはそれ以降という名の……この世界にとっては致死性のゴミよ。それが今、帰るべき場所を求めて、この峠の傷口から這い出そうとしているのよ」
峠の頂上、標高三百メートル付近。
霧の中から、それは姿を現した。
おぼろげな「人型」。
しかし、輪郭は墨を水に零したように絶えず揺らぎ、定まらない。
顔もなければ境界線もない。
数万、数億という「黒い塵」が、磁石に吸い寄せられる鉄粉のように集まって、かろうじて人間の形を成している。
「……不愉快な音。あいつが歩くたびに、私の肌が乾いていくわ」
霧亜が車から飛び出し、六本の尾を逆立たせて漆黒の刀を抜いた。
「主様、あれは生命の類ではありません。昭和の情緒を欠いた、ただの『重圧』のゴミです。私が霧に返してやりましょう」
霧亜の身体から紫電が爆ぜる。
彼女は神速で間合いを詰め、刀を人型の首筋へと叩き込んだ。
本来ならば巨大な杉をも一刀両断するはずの一撃。
だが、ガギィィィィィィン!! という、耳を劈く金属的な絶叫が響き、霧亜の刀は止まった。
斬ったのではない。圧倒的な「重さ」によって、物理的に停止させられたのだ。
「——っ!!」
人型が無造作に振り回した腕が、霧亜を捉える。
ドゴォォォォォォン!!
時速八十キロのダンプカーに正面から叩きつけられたかのように、霧亜の身体が神宮林の巨木へと叩きつけられた。
杉の巨木が中ほどからしなり、凄まじい音を立てて樹皮が弾け飛ぶ。
「霧亜……! 嘘だろ、あいつが一方的に……!」
省吾は、信じられない思いでその光景を見つめていた。
夜の主である霧亜が、ただの「ひと振り」で地に伏している。
「行ってはダメ」
駆け出そうとする省吾の肩を、愛羅の冷たい手が押さえつける。
「あれに触れられれば、骨も魂も、その『質量』で押し潰されるわ。あいつは、本来なら訪れるはずだった一九九五年までに積み重なるはずだった、数千万人分の絶望と焦燥、そして忘れ去られた情報の塵。一人の人間が立ち向かっていい重さじゃない」
人型は、瀕死の霧亜には興味さえ示さず、峠の頂上に鎮座する巨石——『剣岩』へと向かっていた。
岩の表面に刻まれた魔方陣が、人型が放つ「未知の現在」に呼応し、今にも粉砕されそうな悲鳴を上げている。
「……あの岩が壊れたら、どうなるんですか」
「伊勢は、南勢町の海から順に「未知の現在」に飲み込まれる。昭和七十年の人々は、自分が誰かも、いつの時代に生きているのかも分からなくなり……存在そのものが、あの黒い塵の一部になって消えるわ。……加藤省吾。貴方が昨日掴み取ったのは『歴史』を奪う力。でも、今の貴方の右腕には、別の力が眠っているはず。あの方が世界を固定するために使った……『概念の重し』を奪い取り、調律する力が」
省吾は、一歩前に出た。
右目の視界は真っ赤に染まり、網膜が焼き切れるような熱を発している。
人型が剣岩に巨大な掌をかけようとしたその刹那、省吾は壊れかけのアスファルトを蹴った。
「——よせッ!!」
激突。
その瞬間、省吾の意識は一瞬だけ、真っ白な虚無に包まれた。
耳元で数千枚のレコードを一斉にスクラッチしたような、救いのない雑音が爆音で鳴り響き、全身の毛穴から血が吹き出すような圧力がかかる。
重い。
あまりにも重い。
それは、昭和の住人である彼が決して知るはずのなかった、一九九五年という「現在」の重圧。
バブルが崩壊し、人々が昭和という繭から強制的に引きずり出された時代の、剥き出しの絶望が、右腕を通じて脳髄へと流れ込んでくる。
「……が、あ、あああああああああッ!!」
自分の右胸にある「猫の核」が、その毒のような質量を飲み込み、自分の糧にしようと暴れ出す。
省吾は人型の中から、最も濃密に渦巻く「黒い質量」を、肉を裂くように鷲掴みにした。
バリバリバリバリッ!! 世界から色が消え、剣峠全体が、かつてない激震に襲われた。
省吾は引き抜いた「一九九五年の重み」を、逃がさなかった。
それを、彼はそのまま、足元の剣岩へと叩きつけた。
楔には、新たな重しが必要だった。
本来なら伊勢を滅ぼすはずだった「現在の質量」を、逆に昭和の空間をより深く、より強固に、この大地へと繋ぎ止めるための「重石」へと強制的に変換したのだ。
轟音。
剣岩が、数センチだけ地面に沈み込んだ。
それと同時に、あのおぼろげな人型は、支えを失った煤のように、虚空へと霧散していった。
静寂が戻った。
南勢町側に見えていた灰色の「未知の現在」は消え、そこにはただ、暗い森の輪郭が戻っていた。
「……はあ、はあ……。……僕は、何を……守ったんですか」
省吾は、真っ黒に変質し、もはや人間のそれには見えない右腕を見つめ、掠れた声で呟いた。
「この美しい伊勢と、人々の穏やかな暮らしよ。……あの方が作った、優しくて残酷な、この二十年間の続きをね。お疲れ様、私の騎士(ナイト)さん」
愛羅が歩み寄り、泥と血にまみれた省吾の顔を包み込んだ。
その夜、郊外の屋敷に戻った省吾を待っていたのは、何事もなかったかのような静謐な夕食だった。
だが、省吾は気づいていた。
出されたステーキの味が、一切しないことに。
聞こえてくる柱時計の音が、一秒ごとに「カチリ」と、今までとは違う重い金属音を立て、自分の鼓動と同期していることに。
彼は現在を殺した。
そして、殺した現在を右腕に宿したまま、昭和七十年という名の「地獄の続き」へと、一歩深く踏み込んでしまったのだ。