3章-2
剣峠の鳴動が一時的に収まった翌日。
伊勢の神域を包む空気は、晴天であるにもかかわらず、どこか煤けたような濁りを帯びていた。
加藤省吾は、郊外の山中に建つ愛羅の屋敷から、彼女の運転する赤いスポーツカーに揺られていた。
目的地は、南勢町。
五ヶ所湾(ごかしょわん)の最奥に位置する静かな漁村、中津浜浦(なかつはまうら)だ。
車内には、重苦しい沈黙が満ちていた。
省吾の視線は、膝の上に置かれた右腕に釘付けになっている。
指先から肘までを覆う黒い血管は、もはや皮膚の一部というより、肉を侵食する未知の術式そのものに見えた。
隣でハンドルを握る愛羅は、正面を見据えたまま一度も口を開かない。
その横顔はいつも通り淡々としており、感情の起伏を一切排しているように見えたが、シフトレバーを握る彼女の指先が、時折不自然なほど強く強張るのを省吾は見逃さなかった。
「……着いたわ」
車が中津浜浦の海岸沿いに停まった。
ドアを開けた瞬間、省吾を襲ったのは、鼻を突くような「異物の臭い」だった。
それは昭和70年の海が持つ、磯の香りと潮の湿り気ではない。
焦げたプラスチック、古い機械油、そして電子基板が熱を持って焼けたような、乾いた無機質な悪臭。
「……ひどい臭いだ。何なんですか、これは」
「本来なら、この世界には存在し得ないはずのゴミの臭いよ」
愛羅は淡々と答え、護岸から砂浜へと降りていった。
省吾もその後を追う。
穏やかな凪が寄せるはずの中津浜浦の波打ち際は、異様な光景に塗り替えられていた。
白砂を覆い尽くしているのは、無数の「漂流物」だった。
「これを見なさい。あの方が裏鬼門の外側へ放逐したはずの『現在』が、術式の綻びから逆流し始めたのよ」
愛羅の声は、まるで報告書を読み上げるかのように抑揚がなかった。
だが、彼女の視線は時折、痛む右腕を庇う省吾の動作を追っていた。
足元には、手のひらサイズの黒いプラスチックの箱が転がっている。液晶画面には「0840」という数字が無機質に点滅を繰り返している。
昭和の住人である省吾には、それが「ポケベル」と呼ばれる未来の通信機器であることさえ分からない。
その隣には、海水に濡れてボロボロになった新聞の束。
「……平成7年1月? 嘘だ。僕たちの暦は、まだ昭和70年だ。平成7年……? 平成なんて元号、聞いたこともない」
「嘘じゃないわ。これこそが、貴方が昨日剣峠で押し戻したはずの『本物の現在』の残骸。……あの方が裏鬼門を反転させ、時間を1975年で固定したとき、そこから溢れた未来は、行き場を失ってこの南勢町の海へと放逐された。けれど、そのダムが決壊し始めているのよ」
省吾の右腕が、漂流物に呼応するように激しく脈動した。
黒い血管がドクドクと皮膚を押し上げ、まるで砂浜に転がるゴミたちを「同類」だと認識しているかのように、禍々しい熱を帯びる。
「愛羅さん、あそこに……」
省吾が指差した先。
浜の奥では、中津浜の住人たちが、取り憑かれたように漂流物を拾い集めていた。
ある老人は、震災の新聞を呆然と眺めながら
「これは俺たちの町じゃないのか」
と震える声で呟き、ある若者は、砂に埋まった小さな光ディスク——8cmシングルCDを耳に当て、そこから漏れ出すノイズ混じりの「未来の音」に陶酔したような表情を浮かべている。
彼らの瞳からは「昭和の生気」が失われ、代わりに見知らぬ時代の「焦燥」が浸食していた。
「止めなきゃ。これを見ちゃいけないんだ。彼らが狂ってしまう」
省吾が駆け出そうとした瞬間、愛羅がその肩を強く掴んだ。
「無駄よ。彼らは触れてしまった。自分たちが本来生きるはずだった、痛みと絶望に満ちた『本物の今』に。一度知ってしまった未来は、もう二度と忘れることはできない。……彼らにとって、この昭和70年という安寧は、今この瞬間から、耐え難い『偽物』に変わるわ」
愛羅は淡々と事実告げる。
だが、彼女の指先は省吾の肩に食い込むほどに震えていた。
彼女は省吾を見つめた。
その瞳の奥には、冷徹な仮面では隠しきれない、歪な執着が滲んでいる。
彼女にとって、省吾は「昭和」というシステムを維持するための重要な部品に過ぎないはずだった。
だが、彼がこの「未来の毒」を前にして苦悩する姿を見るたびに、彼女の胸の奥には、あらかじめ設定された役割にはないはずの痛みが走っていた。
「……省吾。貴方は私の騎士。この世界でしか存在しえない私にとって、貴方は代わりのきかない……大切な『道具』よ」
彼女は「大切な」という言葉に、一瞬だけ、誰にも気づかれないような微かな熱を込めた。
それが愛だと、彼女自身は決して認めないだろう。
淡々とした態度の中に、あまりに切実な、待ち人なりの独占欲が潜んでいた。
「貴方がこの漂流物を処理しない限り、この街の汚染は止まらない。……貴方の右手は、奪い取るための牙よ。この浜辺に溢れる『正解』を、全て握りつぶしなさい」
彼女は省吾を突き放すように背中を押した。
省吾は、砂浜に溢れる平成7年の遺物へと歩み寄った。
足元のポケベルが、無機質な呼び出し音を立てる。
新聞の束からは、事件・事故による死者たちの声なき叫びがノイズとなって溢れ出す。
これらは悪ではない。
これらは、正しく時を刻んだ「現在」なのだ。
自分が愛そうとしている愛羅が、自分が守ろうとしているこの昭和70年が、いかに不自然で醜い停滞であるかを、これらのゴミは突きつけてくる。
「……わかっています」
省吾は黒く染まった右手を、漂流物の山へと向けた。
愛羅が自分をどう思っているか、省吾には確信が持てない。
彼女の言葉はいつも鋭く、冷たい。
だが、彼が未来の質量に押し潰されそうになるたびに、彼女がその冷たい手で自分を繋ぎ止めてくれること。
その事実だけが、今の彼が「正解」を殺すための唯一の免罪符だった。
「——全部、喰らってやる」
省吾の右腕が、爆発するように膨張した。
黒い血管から伸びた影の触手が、砂浜に散らばるポケベル、新聞、CDを次々と絡め取り、その「質量」を省吾の体内へと引き摺り込んでいく。
中津浜浦に、時代の断末魔が、物理的な激痛となって響き渡った。
すべての漂流物を「処理」し終えたとき、省吾の右腕からは薄紫色の煙が立ち上り、彼の意識は朦朧としていた。
膝をつく省吾の隣に、愛羅が寄り添う。
彼女はハンカチを取り出すと、省吾の頬に付いた煤を、乱暴に見えるほどの手つきで、けれど細心の注意を払って拭った。
「……汚いわね。次からは、もっと手際よくやりなさい」
彼女の吐息が耳元でかすめる。
その声の震えが、何よりの真実だと省吾は感じていた。
愛し合っているのではなく、ただ互いの欠落を埋めるための歯車として噛み合っている。
その淡々とした冷たさの裏側に、決して言葉にできない「地獄への道連れ」という名の愛が、確かに脈打っていた。
中津浜浦の波は、再び昭和70年の穏やかな凪へと戻っていく。
しかし、省吾の右腕の中に封じ込められた「未来の死骸」は、もう二度と消えることはない。