3章-3
剣峠の死闘から数日が過ぎた。
郊外の洋館に差し込む朝光は、相変わらず昭和七十年の穏やかな色を湛えている。
しかし、加藤省吾にとって、世界はその輪郭から決定的に変質し始めていた。
二階の食堂。使い古されたマホガニーのテーブルには、湯気を立てる厚切りトースト、目玉焼き、そして香りの良いコーヒーが並んでいる。
愛羅が「省吾のために」と用意させた朝食だ。
「……どうしたの? 手が進んでいないけれど」
向かい側に座る愛羅が、淡々と問いかけてきた。
彼女はいつものように陶冶の手帳に目を落としているが、その視線は時折、不安げに省吾の顔をなぞる。
「……いえ、いただきます」
省吾はフォークを手に取り、目玉焼きを口に運んだ。
その瞬間、彼の表情が強張る。
味がしない。
それは「薄味」といった生易しいものではなかった。
舌の上に乗っているのは、温かい「砂」か「粘土」の塊のようにしか感じられない。
かつて喉を喜ばせたコーヒーを流し込んでも、それはただの苦い熱水でしかなかった。
剣峠と中津浜浦で「平成七年」の質量を右腕にねじ込んだ代償。
省吾の肉体は、この昭和七十年という偽りの楽園が提供する「栄養」を、もはや自分を構成する成分として受け付けなくなっていた。
「……おいしいか、と聞いているのだけれど」
愛羅の声が少しだけ尖った。
彼女は手帳を閉じ、椅子を引いて省吾の隣に移動してくる。
彼女は省吾の頬に冷たい指先を添え、無理やり自分の方を向かせた。
「……味が、しないんです。何を食べても、砂を噛んでいるみたいだ」
省吾の告白に、愛羅の瞳が微かに揺れた。
彼女は一瞬、いつものように淡々と「それは掠奪者の身体に馴染んだ証拠よ」と突き放そうとした。
しかし、力なく項垂れる省吾の姿を前に、彼女の胸の奥にある何かが激しく軋んだ。
「……困った人ね」
愛羅は小さく溜息をつくと、自分のコーヒーカップにたっぷりと砂糖とミルクを入れ、それを省吾の唇に寄せた。
「……愛羅さん?」
「飲みなさい。私の魔力が混ざったものなら、少しはマシなはずよ」
彼女の手は微かに震えていた。省吾が口をつけると、驚いたことに、砂漠のような味覚の中に一点だけ、焼け付くような、けれど狂おしいほど甘い「蜜」の味が広がった。
「……甘い。これだけは、味がします」
「……そう。なら、それでいいわ。貴方がこの世界のものを食べられなくなるなら、私が代わりに貴方を養ってあげる。……勘違いしないで。貴方が壊れたら、私の計画に支障が出るからよ」
愛羅は顔を背けた。
その耳たぶが、朝日に透けてほんのりと赤くなっているのを省吾は見逃さなかった。
彼女は自分が省吾に対して抱いている感情を「愛」と定義することを頑なに拒んでいたが、その献身はもはや隠しきれるものではなかった。
昼下がり。
省吾が屋敷の中庭で、感覚の失われた右腕を見つめていると、背後から無造作な足音が近づいてきた。
「……おい。生きてるか、掠奪者」
現れたのは霧亜だった。
剣峠で深い傷を負ったはずの彼女だが、驚異的な回復力で既にその身体を再生させている。
彼女は六本の尾をゆったりと揺らし、省吾の隣に腰を下ろした。
「霧亜……怪我はもういいのか?」 「フン、あの程度の『正論』で私が死ぬわけないでしょう。……それより、お前のその腕、見せてみなさい」
霧亜は省吾の黒い右腕を強引に掴むと、まじまじと観察した。
以前のような敵意や蔑みはない。そこにあるのは、同じ戦場を潜り抜けた者への、不器用な敬意だった。
「……まさか、あんな無茶な方法で裏鬼門を塞ぐとは思わなかった。未来を喰らって、過去を縛る……。あの方は、本当にとんでもない化け物を拾ってきたものね」
霧亜はそう言うと、懐から小さな包みを取り出し、省吾に放り投げた。
中身は、彼女がどこからか調達してきた最高級の干し肉だった。
「食べなさい。愛羅様がお前の味覚の異常を心配して、私に八つ当たりしてくるのよ。……お前が死ぬと、あの方がうるさくて敵わない」
「……ありがとう、霧亜」 「礼なんていらないわ。……ただ、認めてあげる。お前はもう、ただの餌じゃない。私の……私たちの世界を繋ぎ止めるための、半分は『こちら側』の仲間よ」
霧亜は一度だけ省吾の肩を叩き、風のように去っていった。
夕暮れ時。
省吾は再び、愛羅と共にバルコニーにいた。
味覚を失い、未来を殺し、怪物へと歩みを進める恐怖。
それを、愛羅の冷たく、けれど確かな体温だけが繋ぎ止めていた。
「省吾」
愛羅が、彼の黒い右腕をそっと自分の胸元に引き寄せる。
「世界から味が消えても、私が貴方の舌に残る熱になってあげる。だから……勝手に消えることだけは、許さないわよ」
彼女の淡々とした言葉の裏側で、剥き出しの独占欲が甘く囁いていた。
味を失った世界。それは、彼が人間であることを辞めていく終わりの始まりだったが、同時に、一人の怪異を真の「女」へと変えていく、残酷で甘美な儀式でもあった。