序章-2
生き返った、という実感はなかった。
あるのはただ、終わりのない悪夢の続きだけだ。
昭和七十年の夜。
伊勢の山中にひっそりと佇む進藤邸。
古びた、しかし凛とした静謐を湛えるその和洋折衷の邸宅の一室で、加藤省吾は死の淵から引きずり戻された代償を支払っていた。
「……は、あ……っ、は……」
布団の中で、省吾は激しい悪念と高熱に焼かれていた。
胸の傷は、愛羅の「核」が入り込んだ瞬間に塞がっている。
しかし、その内側では、異質な生命の鼓動が猛り狂っていた。
ドクン、ドクン、と。
自分の本来の心臓とは明らかに違う、重く、深く、そして冷たいリズム。それは省吾という人間の形を、内側からミキサーにかけて作り変えていくような、悍ましい感覚だった。
(死んだ方が……マシだったんじゃないか)
意識が混濁する中で、そんな想いがよぎる。
汗で重くなったパジャマが肌に張り付く。
暗い天井が、巨大な獣の口のように見えて、今にも自分を飲み込もうとしている気がした。
その時だった。
スッ、と音もなく襖が開いた。
外の廊下から流れ込んできたのは、冬の月光のような、刺すような冷気。
「……目覚めたのですか。図々しい」
鈴の音のように凛としているが、研ぎ澄まされた刃物のように冷淡な声だった。
省吾が、鉛のように重い瞼を辛うじて持ち上げると、そこには一人の少女が立っていた。
黒髪を真っ直ぐに切り揃えた、日本人形のように整った容姿。
年の頃は十七、八だろうか。
黒い詰襟の制服のような、あるいは修道服のような奇妙な衣装を纏った彼女は、月明かりを背にして立っていた。
だが、その瞳に宿る光は、人間のものではない。
深い闇の中に、紫色の電光が爆ぜるような、人外の獣特有の光彩。
「あ……き、君は……」
「私の名は霧亜。愛羅様の影、あるいは爪に過ぎません」
霧亜と名乗った少女は、畳を鳴らすことすらなく、滑るように省吾の枕元まで歩み寄った。
彼女が近づくにつれ、室内の霊圧が物理的な重さとなって省吾の胸を圧迫する。
「不敬ですね、貴方からは愛羅様の匂いがする。あの方の純潔な核が、このような濁った器の中で脈打っているかと思うと……反吐が出ます」
霧亜の背後で、陽炎のような歪みが生じた。 一瞬、省吾の網膜に焼き付いたのは、紫電を纏った巨大な黒狐の影。
そして、空を薙ぐように揺らめく六本の尾。
彼女もまた、愛羅と同じ「夜の待ち人」なのだと、脳の最も古い部分が理解して警鐘を鳴らす。
「愛羅様は『気まぐれ』だと仰いました。ですが、私には理解できない。なぜ貴方のような、脆く、価値のない、ただ死ぬだけの猿に、あの方の大事な核を分け与えたのか。……その答えを、今ここで確かめても構わないでしょう?」
霧亜の手が、音もなく省吾の喉元へと伸びた。
細く、透き通るような白い指先。
だが、そこから放たれる殺意は、先ほど自分を殺した下級の待ち人など比較にならないほど、濃密で、絶対的な死そのものだった。
「今ここで貴方の胸を裂き、その核をあの方にお返しすれば……愛羅様もきっとお喜びになる。貴方も、分不相応な力を抱えて苦しまずに済むでしょう?」
喉に食い込む指先に力がこもる。
呼吸が止まる。
視界が白濁し、死の淵が再び口を開ける。
だが、その絶望的な状況が、省吾の中に埋め込まれた「核」を激しく揺さぶった。
――殺される。
――また、奪われる。
――そんなのは、もう、御免だ!
「――――やめろっ!!」
省吾の右手が、自分でも信じられないほどの速度で跳ね上がった。
そして、自分の喉を締め上げていた霧亜の手首を、がっしりと掴んだ。
バチィィッ!!
室内に、凄まじい火花が散った。
それは電気的な火花ではなく、濃縮された霊力が衝突し、物質として軋みを上げた音だった。
「……っ!? な、何を……!」
霧亜が、初めてその端正な顔を驚愕に歪めた。
彼女は「夜の待ち人」だ。
並の人間や下級の怪異など、触れるだけでその霊力に焼き切られるはず。
しかし、省吾の右手は、彼女の皮膚を、骨を、そしてその奥にある「霊体の核」を、まるで実体のある鋼鉄の枷(かせ)のように、強引に固定し、捻り上げていた。
省吾の右目が、熱い。 眼窩の裏で火箸を押し当てられたような激痛と共に、彼の瞳は金色の光を放ち、待ち人特有の縦長な瞳孔へと変色していた。
その瞳には見えていた。霧亜の腕の中を流れる、紫色の奔流。その収束点――彼女の「核」の輪郭が、掴み取るべき標的として鮮明に浮かび上がっている。
「離しなさい……貴方、何を……霊力を、固定しているというの……!?」
「殺されるのは……もう、嫌なんだ……!」
省吾の指が、霧亜の肌に深く食い込む。
本来、概念の塊であるはずの待ち人の肉体が、省吾の手によって無理やり「肉」として定義され、破壊の痛みを伝えてくる。
格上の存在であるはずの霧亜が、苦悶に声を漏らし、膝をついた。
「そこまでになさい、二人とも」
廊下から、軽やかで楽しげな、しかし絶対的な命令権を持った声が響いた。
襖のそばに、いつの間にか愛羅が立っていた。
扇子で口元を隠し、その三日月のような瞳で、省吾と霧亜の衝突を眺めている。
「霧亜、それは私のお気に入りよ。あまり虐めないであげて? 私の核を宿した子が、どんな花を咲かせるのか……じっくり見守りたいの」
愛羅の視線が、省吾に向けられる。
「それに省吾くん。……初対面の女の子の手首をそんなに強く握るなんて、行儀が悪いわね。霧亜は少し恥ずかしがり屋なだけなのよ」
愛羅の言葉には、抗えない「力」があった。
省吾の右手の熱が引き、霧亜を拘束していた不可視の力が解ける。
省吾は荒い息を吐きながら、自由になった右手を呆然と見つめた。
自分の手が、あの恐ろしい少女を圧倒したという実感が湧かなかった。
霧亜は忌々しげに自分の手首をさすり、乱れた袖を整えると、愛羅に向かって深く、深く頭を下げた。
「……申し訳ありません、愛羅様。つい、分を弁えぬ羽虫が目障りだったもので」
霧亜は主への謝罪を述べた後、ゆっくりと顔を上げ、省吾を射殺さんばかりの視線で睨みつけた。 そこにあるのは、もはや単なる軽蔑ではない。
自分の霊体に直接触れ、それを傷つけた「理解不能な異物」に対する、深い警戒と憎悪だ。
「加藤省吾。貴方がその核を使いこなし、あの方の役に立てるというのなら……今は生かしておいてあげましょう」
彼女は一歩、省吾に歩み寄り、耳元で氷のように冷たい言葉を囁いた。
「ですが、忘れないこと。少しでもあの方を失望させ、その核を汚すような真似をすれば――その時は、私が貴方の喉を食い破り、その核を抉り出してお返しします」
霧亜は背を向け、霧が晴れるように音もなく部屋から去っていった。
「うふふ、仲良くなれそうで良かったわね」
愛羅が愉快そうに笑いながら、省吾の枕元に座る。
彼女の指先が、省吾の金色の右目を優しく撫でた。
「さあ、ゆっくり休みなさい、省吾くん。あなたが次に目覚める時、昭和の夜は、今までとは違った色に見えるはずよ」
それが、後の「奇妙な同居人」となる二人による、血と火花に彩られた、最悪の挨拶だった。