夜の待ち人   作:柚葉

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3章-4

3章-4

 

 

味覚を失い、世界が「砂の塊」へと変質してから数日。

次に省吾を襲ったのは、視覚的な崩壊だった。

 

愛羅は、混乱する省吾を落ち着かせるように「少し歩きましょう」と誘い出した。

それは、伊勢の日常を確認するための静かな視察だったが、省吾の網膜に映る光景は、もはや「日常」とは程遠いものになっていた。

 

「……愛羅さん。あそこにあるポストは、もともと何色でしたか?」

 

省吾は、角に立つ丸型の郵便ポストを指差した。

彼の目には、それは鮮やかな赤ではなく、古い写真が陽に焼けて退色したような、生気のない「灰色」の塊に見えていた。

道を行き交うオートバイも、商店の軒先に並ぶ色とりどりの野菜も、すべてが煤けた霧の向こう側にあるように、色彩の解像度を失っている。

 

「赤よ。燃えるような、赤。……でも、今の貴方の目には届かないわね」

 

愛羅は淡々と答え、省吾の横をゆっくりと歩く。

彼女は周囲の景色には一切目を向けない。

ただ、時折つまずきそうになる省吾の肘を、羽毛のような軽やかさで支えるだけだ。

不思議なことに、この灰色に染まった世界の中で、隣を歩く愛羅だけが、毒々しいほどの色彩を保っていた。

彼女の漆黒の髪、透き通るような白い肌、そして金色の瞳。彼女だけが、この褪せた風景の中で唯一「実体」を持って存在しているように見えた。

 

「色彩(いろ)というのは、その時代の『生命力』そのものなのよ、省吾。貴方は剣峠で一九九五年という未来の質量を喰らってしまった。貴方の神経は、もはや一九七五年の穏やかな色彩では満足できなくなっている」

 

ふと、商店街の路地裏に、一際濃い「異物」が立ち上るのが見えた。

人目に付かないゴミ捨て場の隅。そこには、灰色に沈んだ街の中で、狂ったように鮮明な「朱色」を放つ物体が転がっていた。

 

「……あれは」

 

省吾が歩み寄る。それは、中津浜浦でも目にした、一九九五年を象徴する赤いポケベルだった。

住人のいない静かな路地裏で、その機械だけが「ピー、ピー」と、電子的な断末魔を上げている。

この昭和七十年の情緒を切り裂くような、無機質で乾いた音。

 

「未来の楔が、街の隙間にこびり付き始めているわ。……拾いなさい、省吾。それが貴方の新しい『色』になるはずよ」

 

愛羅は、省吾を促すように背中に手を添えた。

その手のひらから伝わる冷たい体温が、省吾に奇妙な安心感を与える。

省吾が黒く変質した右手で、その赤いポケベルを握りつぶした瞬間――。

 

「――っ、ぐあぁッ!!」

 

脳内に、爆発的な情報の奔流が流れ込んだ。

大震災の瓦礫の山。

地下鉄の異臭。

バブルの残骸が腐敗していく音。

一九九五年が持つ、剥き出しの「痛み」と「絶望」。

しかし、同時に。

省吾の視界に、一瞬だけ鮮やかな色彩が戻った。

路地の壁に生えた苔の緑、空の青、愛羅の唇の朱。

未来という毒を摂取した瞬間だけ、彼はこの昭和の世界を「見る」ことが許される。

それは、麻薬的な補完だった。

 

「……はあ、はあ……。いま、色が、見えました」

 

「そう。痛みと引き換えに、貴方は世界を繋ぎ止める。……可哀想な省吾。でも、それでいいのよ」

 

愛羅は膝をつく省吾の頭を、自らの胸元へと抱き寄せた。

彼女は淡々とした口調を崩さないが、その腕には、壊れ物を慈しむような、あるいは手に入れた獲物を決して逃さないというような、強固な執着が籠もっていた。

 

「貴方が未来を殺し続ける限り、貴方の世界には、私と『痛み』だけが残る。……他の誰にも、貴方の苦しみは理解できない。私だけが、貴方を癒してあげられる」

 

路地裏の影で、愛羅は省吾の耳元で囁く。

彼女の独占欲は、もはや愛という言葉すら生ぬるいほどの純度を持っていた。

省吾が人間としての感覚を失い、この昭和の世界から浮き上がれば浮き上がるほど、彼は愛羅という「色の源」なしでは生きていけなくなる。

彼女はその残酷な支配を、静かな悦びと共に受け入れていた。

 

「帰りましょう。……屋敷に戻れば、私が貴方の『視界』をまた塗り替えてあげるわ」

 

愛羅に支えられ、省吾は立ち上がる。

灰色に沈んだ街を、色彩豊かな一人の女と、色彩を奪われた一人の怪物が、影を重ねて歩いていく。

二人の背後では、また一つ、昭和の風景が音もなく崩れ、灰色の霧に消えていった。

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